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南光坊天海 [2008年11月17日(月)]

明智光秀について自作小説を書いているわけですが
(2008年3月18日日記参照)
実は主人公は光秀ではなかったりします
凡そ前半は光秀ですが後半は「随風」
を使うつもりでいる
随風とは南光坊天海のことである
ここで自筆の小説より抜粋し随風を紹介したい

随風とは元々武家の子であったが仏門に入り僧籍出身である。「東叡山開山慈眼大師縁起」には
 「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」
 と記されている。
 「徳川実記」では
 「(前略)芦名の支族三浦氏にて、奥州会津郡高田の産なり。(中略)十四歳より笈を負て諸国の名山霊区を遍歴し、名僧知識の功をつみ、叡山にのぼり、悉く宗門の秘訣心印を得たり。これは天文、弘治の程なりとぞ。あるときは甲陽に下り、武田信玄の寓客となり、あるときは芦名盛隆が聘に応じ、故郷にかへり稲荷堂を守る(後略)」
 とある。
 会津高田の稲荷堂の別当舜海の下で学び十四歳のときから宇都宮の粉川寺の皇舜僧正のもとで学んだ。その後は比叡山で天台宗を収め、三井寺で倶舎宗、興福寺で法相宗を学び足利学校で儒学・禅宗等を収めたとされる。
(中略)
 随風は若くして比叡山に昇り天台宗を学んだものの、叡山の堕落振りに疑念を抱いていた。
 当時叡山には三千人が住まわっていたという。これには院家と称される皇族の血筋、公家等が寺院を建立し家族ともども暮らしているものもある。これは特例であり、戒律を厳守する高僧、学匠、大阿闍梨の元修験に励む者も多くいた。しかし近年山徒、堂衆と呼ばれる下法師が増えている。もともと彼等は御堂を守り、法要や諸行事の際奉仕する私度僧であったのだが、法衣のまま肉を喰らい酒を飲み、麓に住居を構え妻妾を匿い乱暴狼藉を働くといった横暴ぶりを見せていた。高僧がこれを黙認してしまっているのには一つに彼等は山門領年貢徴収、商取引等下界の俗人と折衡する彼等が同等の暮らしを望むのも致し方なしと黙認し続けた経緯がある。

とこんな前振りをして延暦寺焼き討ち直前から光秀と絡める算段である

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