謎深げなカレー屋さん [2008年09月23日(火)]
実はいざこれから美術館へ!とゆう時にまずは腹ごしらえをしていました。場所は渋谷、職場の知り合いから強く勧められて来てみた次第です。

駅を出て道玄坂をしばらく登り、路地に入ると見える古めかしい門。そこには“百軒店”の文字。門をくぐっていくと左手にはすごい行列が目に入ってきました。どうやら知る人ぞ知る名店との評判の中華料理屋さんらしいです。異様な熱気に目が離れませんでしたが、目的地はもうチョイ先。前時代的な様式と独特の雰囲気を醸し出している建物を確認して、少し気後れしながら勇気を出して中に。
店内も何だか歴史を感じる作りと一種妖しげな空気。思った以上に賑わっていて驚きました。ちょうど自分が最後の席につくと、絶えず来客があり、店員が丁寧に満員と待つことを願うと数人はそのまま離れ、それでも店内で順番待ちをする何組かの客が座っているくらいでした。根強い人気なんですねぇ。
ここは昭和25年に創業されたとゆう印度料理店。メインはカレーで、昔懐かしい味を守り続ける老舗なんだそうです。納得。
自分が注文したのは看板メニューの卵カレー。ここのカレー自体は店名にもなっている雛鳥と13種類のスパイスを調合したものを一緒にして1週間かけて煮込んだものだそうで、先代のご主人が滞在したビルマで習得されたものだとか。この味に親子3代に渡って通う常連さんや、学生時代食べた味が忘れられなくて遠方から寄った際に必ず立ち寄っていく常連さんもいるのだとか。うーん、楽しみ♪
接客や調理に厨房は大忙しでせかせか店内を動き回っていて、なかなか自分の分まで運ばれてくるのに時間はかかりましたが、出てきたそのものはなかなか面白いカレーでした。
大きな特徴のひとつである山形に大きく高く盛られたご飯がまず目に付きます。その山の裾に広がる濃い茶色をしたルー。その上に輪切りに綺麗に並べられたゆで卵は見た目にも大変食欲をそそります。
さっそく一口・・・ん?ふーむ。お腹も減っていたので勢い良くかきこんでいきます。ものの数分で完食。ご馳走様でした!
結論ですが、正直に言わせて貰うと「?」ってところでしょうか。ルーをすくっても目で確認できるほど香辛料を沢山使った割にはその効果を味わうことが出来ませんでした。大盛りにしたのだけれどちょっと量的にも不満な程度で、一緒に付いてくるとテーブルにあった説明書きのチャツネも無かったし、値段設定も高め。ついでに言わせて貰うと、接客の一人にいたネイティブな日本語を話すのに顔は中東な若い娘さんの未熟な応対といい、トータル的に考えてちょっとマイナスな面が多く見受けられて残念でした。
そんなところも味わい深いとおおらかに受け止められれば良いのでしょうけれど自分は無理でした。立地的にも訪れる機会も少ないでしょうし、これ一度きりになるでしょうかねぇ・・・?
ですが、なかなかいろんな意味で面白いお店ではあるのは間違いないですね。こうしたレトロチックで個性的なお店大好きです。まだまだこうゆうところが沢山残っていそうなので、近所の中華料理屋も含めもっともっといろんなお店を食べ回ってみたいもんですねぇ。

駅を出て道玄坂をしばらく登り、路地に入ると見える古めかしい門。そこには“百軒店”の文字。門をくぐっていくと左手にはすごい行列が目に入ってきました。どうやら知る人ぞ知る名店との評判の中華料理屋さんらしいです。異様な熱気に目が離れませんでしたが、目的地はもうチョイ先。前時代的な様式と独特の雰囲気を醸し出している建物を確認して、少し気後れしながら勇気を出して中に。
店内も何だか歴史を感じる作りと一種妖しげな空気。思った以上に賑わっていて驚きました。ちょうど自分が最後の席につくと、絶えず来客があり、店員が丁寧に満員と待つことを願うと数人はそのまま離れ、それでも店内で順番待ちをする何組かの客が座っているくらいでした。根強い人気なんですねぇ。ここは昭和25年に創業されたとゆう印度料理店。メインはカレーで、昔懐かしい味を守り続ける老舗なんだそうです。納得。
自分が注文したのは看板メニューの卵カレー。ここのカレー自体は店名にもなっている雛鳥と13種類のスパイスを調合したものを一緒にして1週間かけて煮込んだものだそうで、先代のご主人が滞在したビルマで習得されたものだとか。この味に親子3代に渡って通う常連さんや、学生時代食べた味が忘れられなくて遠方から寄った際に必ず立ち寄っていく常連さんもいるのだとか。うーん、楽しみ♪ 接客や調理に厨房は大忙しでせかせか店内を動き回っていて、なかなか自分の分まで運ばれてくるのに時間はかかりましたが、出てきたそのものはなかなか面白いカレーでした。
大きな特徴のひとつである山形に大きく高く盛られたご飯がまず目に付きます。その山の裾に広がる濃い茶色をしたルー。その上に輪切りに綺麗に並べられたゆで卵は見た目にも大変食欲をそそります。さっそく一口・・・ん?ふーむ。お腹も減っていたので勢い良くかきこんでいきます。ものの数分で完食。ご馳走様でした!
結論ですが、正直に言わせて貰うと「?」ってところでしょうか。ルーをすくっても目で確認できるほど香辛料を沢山使った割にはその効果を味わうことが出来ませんでした。大盛りにしたのだけれどちょっと量的にも不満な程度で、一緒に付いてくるとテーブルにあった説明書きのチャツネも無かったし、値段設定も高め。ついでに言わせて貰うと、接客の一人にいたネイティブな日本語を話すのに顔は中東な若い娘さんの未熟な応対といい、トータル的に考えてちょっとマイナスな面が多く見受けられて残念でした。
そんなところも味わい深いとおおらかに受け止められれば良いのでしょうけれど自分は無理でした。立地的にも訪れる機会も少ないでしょうし、これ一度きりになるでしょうかねぇ・・・?
ですが、なかなかいろんな意味で面白いお店ではあるのは間違いないですね。こうしたレトロチックで個性的なお店大好きです。まだまだこうゆうところが沢山残っていそうなので、近所の中華料理屋も含めもっともっといろんなお店を食べ回ってみたいもんですねぇ。







歴史的に世界を巻き込んだ大きな争い、第1次世界大戦の後に思わぬチャンスを得、一躍世界のトップへと躍進した流れを背に、他国には無いアメリカ独自の写真表現へと意欲的に取り組んでいこととなります。これ以前に勃興した【ピクトリアリズム】とゆう遺志はテクノロジー時代の到来を向かえるにあたり、そこから脱却し新たな表現形式へと突き進んでいきます。【ピクトリアリズム】の特徴であったぼやけた様だけれど温か味のあったソフト・フォーカスを捨てて、鮮明でクリアな画質によってエッジが浮き立つようなシャープな線を浮かび上がらせ、土台である印画紙が持っている特色、黒・白・グレーの美しい諧調を活かしていく、それは力強くも被写体をもっともストレートに写真へと落とし込む新表現、【ニューヴィジョン】。前時代とはまったく真逆の方法論が主流となり実践されていきました。それはピクトリアリズムの祖、スティーグリッツ自身の意向とキッカケによって新時代の旗手達へと引き継がれ、後もメンター的役割を果たしていたとゆう事実は、自然に必然的に行なわれていた結果なんですね。時代の先端を行く若き旗手達は、各地で同時発生し、近代都市(ニューヨーク)の息吹を捉え、一方では西海岸を拠点にグループを結成してアメリカの広大な自然に視点を向け、それは広告写真にも飛び火します。また、1937年にはドイツで閉校になったあのバウハウスがシカゴに再建され、中西部に新たな写真の文化圏を展開するほか、50年代には廃れていたと思われていたスティーグリッツやウェストン、アダムスらの表現スタイルを継承し、そこに東洋思想などの精神的な暗喩を持たせた独自の活動など、アメリカの写真表現は制約も束縛も存在しない“可能性無限大”の歴史上で最もヴァラエティに富んでいた時代のようでした。事実20年代のアメリカは写真に限らず、いろんな分野で“黄金の10年間”と呼ばれる幸福な時期であったそうです。
先ほどの記述の通り、写真とゆう技術は単なるポートレイトの枠をはみ出し、広告やファッションなど出版業界に浸透していきます。1936年にメディアの影響力をいち早く見抜いていたヘンリー・ルースによってあの『ライフ』が創刊されます。これを契機にアメリカでグラフ誌ブームが起こり、世界中を巻き込んでいくのです。『ライフ』が『ライフ』である最もたる特徴は、今では普通に実践されている、何点かの写真によって記事内容をストーリーで伝えるフォト・エッセイで、それを前面に押し出し質の高い写真を提供して今の地位についたのだそうで、この雑誌が原点だったとゆう事実に驚かされました。錚々たる名を残した掲載カメラマン達はフォトジャーナリストとして先駆者的存在であり、歴史に大きく名を残された人達ばかりだそうです。その結果、世界中で急速に広がり始めた良質な写真への大量なニーズに応えるべく、1947年に写真エージェンシー「マグナム」が設立されるのは必然であったでしょう。一方、ファッション雑誌においても『ハーパース・バザー』や『ヴォーグ』などに、優れたアート・ディレクターや有能で才気溢れる写真家達が登場し、両者の関わりによって新たな写真スタイルがつくりだされ、印刷メディアは黄金期と呼ばれる盛り上がりを見せるのでありました。ある意味、この時代によってほぼあらゆるスタイルの写真が作り出され、ほぼ出尽くしたほどの発展だったそうです。素晴らしいですね。
1929年に起こった世界恐慌による失業者対策として政府が打ち出したものにニューディール政策がありました。そのプロジェクトのひとつであるFSA(農業安定局)によって奇しくもアメリカではドキュメンタリー写真としても活発になっていきます。主に困窮する小規模農業者達を生活可能な土地に移動させたり、生活の資金援助を行うのが主な目的であったことで、予算を確保する為に農民の惨状を写真として克明に記録し、有権者に伝える必要があったのです。説得力ある写真を得る為に政府は写真家を起用し、その撮られた写真はグラフ誌や展覧会などを通して発表されました。社会的問題意識を国民と共有するのには美意識の高い作品が効果的であることを政府は理解していて、FSAによるドキュメンタリー写真は優れたものが残される結果となりました。出発点としては大義名分はありつつも不純な部分も無くはないですが、それが結果的に素晴らしい作品として後続に影響を及ぼしたのですね。リアルに克明に記録された写真には真に迫る様相を見て取れました。それは信奉者達の手によって「フォト・リーグ」なるものが設立され、社会的出来事などの対象に対する自分の見解を視覚的な表現によって示そうとする活動も興ることになります。短期間での解散を余儀なくされますが、それもまた違う形となって影響を与え続けていったのです。