殺人狂 [2008年09月03日(水)]
“殺人狂”・・・プロレスラーの異名は数あれど、これほどインパクトのあるものも、ちょっと珍しい。
この異名を頂戴したのは、昭和のプロレス・ファンには懐かしいキラー・コワルスキー。ユーコン・エリックの耳をニードロップで削いだことで有名で、コワルスキーといえば“耳削ぎ”なのだ。
野暮を承知で書かせて貰うが、このニードロップによる耳削ぎというのは伝説である。これに付随する尾鰭も含めて、コワルスキーには素晴らしい伝説が多々あったのだ。そのいくつかを紹介したい。
'59年10月15日、モントリオールで事件は起きた。試合開始から16分21秒、ロープに足の絡まったユーコン・エリックに、コワルスキーが得意のニードロップ。身動きの取れない状態のエリックに対し落とされたニードロップは左耳を直撃。コワルスキーには即座に反則負けが宣告され、エリックは担架で運ばれた。リング上には削げ落ちたエリックの耳が残り、リングサイドのカメラマンがカメラを向けた時には、まだピクピクと動いていたという。それを見たコワルスキーは以後、肉が全く食べれなくなり、菜食主義者へと転向したという・・・。
これが昭和のプロレスファンが聞かされてきた伝説である。
実際はこうだ。そもそも日付からして違う(笑)。実はこの伝説、'63年に39歳で初来日の決まったコワルスキーを売り出すため、日本プロレス(当時)側が考えた売り出しのストーリーだった。そのため、来日時期の近年ということで'59年に変更されていたのである。
耳削ぎ事件そのものは実際にあったことだが、それはコワルスキーもデヴュー間もない'52年のこと。ニードロップを落とすまでの経緯は同じだが、受身のヘタなユーコン・エリックが、不用意に顔を動かしてしまったため、リングシューズのエッジで削げてしまったという、全くのアクシデントだった。
アクシデントとはいえ、耳が削げ落ちてしまったことは事実で、それまで本名のウォルター・コワルスキー、もしくはウォルディック・コワルスキー、ターザン・コワルスキーなどのリングネームを使っていたコワルスキーは、一夜にして“キラー”コワルスキーという大ヒールへと変貌したのである。
このリングネーム変更にも面白い逸話がある。試合の翌日にエリックの病室へ見舞に行ったコワルスキーは、逆にエリックから「今回は俺のミスだ、だから気にするなよ」と慰められる。それを聞いて気が楽になったコワルスキーは、エリックと二人で笑い合ったのだが、たまたま病室を覗いた看護婦は、耳を削いだ当の相手がヘラヘラ笑っているのを見て、「何て冷血漢!」と翌日の新聞にコメントを載せてしまった。これによりウォルター・コワルスキーは“殺人狂”としてのプロレス人生を歩むことになったのだ。
話はまだ続く、コワルスキーが菜食主義だったのも本当だ。それはあくまで本人独自の健康法とコンディショニング調整のためだったのだが、時期が丁度耳削ぎ事件の後だったため、これも事件と関連付けられて先の伝説に加えられたのだ。
話はまだまだ続く、その相手のユーコン・エリックは事件から10年後、離婚問題等で精神的に追い詰められ自殺してしまったのである。これも当然のように“殺人狂”伝説を彩ることにひと役を買ってしまう。「エリックは耳削ぎ事件のトラウマから立ち直れず自殺してしまった・・・」と。
死んだのがエリックひとりなら“殺人狂”とまでは呼ばれなかったかもしれない。インディアン・デスロックの元祖・ドン・イーグルというレスラーも、コワルスキーのニードロップで背骨を負傷させられたことがあったが、彼も自殺し、その理由がコワルスキーの“殺人狂”伝説の勲章に加えられてしまった。実際はドン・イーグルは自殺ですらなかったのだが・・・。
初来日が39歳と、ピークを過ぎた状態であったため、私の世代ではコワルスキーの全盛期はリアルタイムでは見たことがない。初めて見たのは日本プロレスのNWAタッグリーグ戦('71)における、バディ・キラー・オースチンとのコンビだった。このバディ・キラー・オースチンというレスラーこそ、試合中にパイルドライバーで二人もレスラーを殺している本当の“キラー”だったのだが、彼の異名は“殺人狂”ではなく“狂犬”だった。
シュートにも強かったといわれるコワルスキーは、若い時のアントニオ猪木の憧れの存在であり、ブルーザー・ブロディはそのファイトスタイルに影響を受けたと語る。彼が得意としたキングコング・ニードロップは、コワルスキーの得意技を盗んだものだった。
猪木はコワルスキーの恐ろしさを何度も語っており、「我を忘れた時のコワルスキーは、何をしでかすか解らない恐ろしさがあった。それはシンなど足元にも及ばない迫力だった」とまで述懐している。
コワルスキーはこの'71年の来日で猪木とシングルであたっており、インタヴューでは、「猪木にシュートを仕掛けられたので、やり返したら猪木は逃げてしまった。控え室にまで行ったがそこにもいなかった。あいつはチキンだ!」とボロクソにコキ下ろしている。猪木自身コワルスキーの恐ろしさを何度も語るくらいだから、よほど怖かったんでしょうね。
晩年は全日本プロレスに来日、若いころから薄くなり始めた頭を随分と気にしていたそうで、この全日来日時にはマスクマンとして登場。マスクを被った理由が、「カツラが試合中にズレるから」というものだったらしく、プロレス界一の変人と呼ばれたのも肯ける。
同じカツラ・レスラーのブルーノ・サンマルチノが、ニューヨークでチャンピオン(当時WWWF、現WWE)として売り出した頃、サンマルチノの壁として立ちはだかったのがコワルスキーだった。実はサンマルチノの師匠はあのユーコン・エリックで、かつて全米屈指の遺恨試合として鳴らしたライバルの弟子に胸を貸してやることで、コワルスキー本人はあの試合に落し前をつけたかったのかもしれない。
サンマルチノとの抗争('74頃)がプロレスラーとしてのコワルスキー最後の花道で、'77年に引退を表明して以降は、マサチューセッツ州でレスリング・スクールを開校。現在WWEで活躍するHHHや、新日に来ているジャイアント・バーナードなどを育て上げた。
ずっと未婚で、生涯独身を貫くかと思われたコワルスキーだったが、'06年に80歳で初婚。相手は二度も夫を亡くした未亡人という、ご婦人だったとか。
新婚ホヤホヤといってもいいコワルスキーだったが、'08年8月30日に心不全のため帰らぬ人となった。奥さんはこれでまた未亡人となった訳だが、最後の最後まで逸話にはことかかないのが、“殺人狂”キラー・コワルスキーの生涯であった。
ご冥福をお祈りいたします。合掌。
この異名を頂戴したのは、昭和のプロレス・ファンには懐かしいキラー・コワルスキー。ユーコン・エリックの耳をニードロップで削いだことで有名で、コワルスキーといえば“耳削ぎ”なのだ。
野暮を承知で書かせて貰うが、このニードロップによる耳削ぎというのは伝説である。これに付随する尾鰭も含めて、コワルスキーには素晴らしい伝説が多々あったのだ。そのいくつかを紹介したい。
'59年10月15日、モントリオールで事件は起きた。試合開始から16分21秒、ロープに足の絡まったユーコン・エリックに、コワルスキーが得意のニードロップ。身動きの取れない状態のエリックに対し落とされたニードロップは左耳を直撃。コワルスキーには即座に反則負けが宣告され、エリックは担架で運ばれた。リング上には削げ落ちたエリックの耳が残り、リングサイドのカメラマンがカメラを向けた時には、まだピクピクと動いていたという。それを見たコワルスキーは以後、肉が全く食べれなくなり、菜食主義者へと転向したという・・・。
これが昭和のプロレスファンが聞かされてきた伝説である。
実際はこうだ。そもそも日付からして違う(笑)。実はこの伝説、'63年に39歳で初来日の決まったコワルスキーを売り出すため、日本プロレス(当時)側が考えた売り出しのストーリーだった。そのため、来日時期の近年ということで'59年に変更されていたのである。
耳削ぎ事件そのものは実際にあったことだが、それはコワルスキーもデヴュー間もない'52年のこと。ニードロップを落とすまでの経緯は同じだが、受身のヘタなユーコン・エリックが、不用意に顔を動かしてしまったため、リングシューズのエッジで削げてしまったという、全くのアクシデントだった。
アクシデントとはいえ、耳が削げ落ちてしまったことは事実で、それまで本名のウォルター・コワルスキー、もしくはウォルディック・コワルスキー、ターザン・コワルスキーなどのリングネームを使っていたコワルスキーは、一夜にして“キラー”コワルスキーという大ヒールへと変貌したのである。
このリングネーム変更にも面白い逸話がある。試合の翌日にエリックの病室へ見舞に行ったコワルスキーは、逆にエリックから「今回は俺のミスだ、だから気にするなよ」と慰められる。それを聞いて気が楽になったコワルスキーは、エリックと二人で笑い合ったのだが、たまたま病室を覗いた看護婦は、耳を削いだ当の相手がヘラヘラ笑っているのを見て、「何て冷血漢!」と翌日の新聞にコメントを載せてしまった。これによりウォルター・コワルスキーは“殺人狂”としてのプロレス人生を歩むことになったのだ。
話はまだ続く、コワルスキーが菜食主義だったのも本当だ。それはあくまで本人独自の健康法とコンディショニング調整のためだったのだが、時期が丁度耳削ぎ事件の後だったため、これも事件と関連付けられて先の伝説に加えられたのだ。
話はまだまだ続く、その相手のユーコン・エリックは事件から10年後、離婚問題等で精神的に追い詰められ自殺してしまったのである。これも当然のように“殺人狂”伝説を彩ることにひと役を買ってしまう。「エリックは耳削ぎ事件のトラウマから立ち直れず自殺してしまった・・・」と。
死んだのがエリックひとりなら“殺人狂”とまでは呼ばれなかったかもしれない。インディアン・デスロックの元祖・ドン・イーグルというレスラーも、コワルスキーのニードロップで背骨を負傷させられたことがあったが、彼も自殺し、その理由がコワルスキーの“殺人狂”伝説の勲章に加えられてしまった。実際はドン・イーグルは自殺ですらなかったのだが・・・。
初来日が39歳と、ピークを過ぎた状態であったため、私の世代ではコワルスキーの全盛期はリアルタイムでは見たことがない。初めて見たのは日本プロレスのNWAタッグリーグ戦('71)における、バディ・キラー・オースチンとのコンビだった。このバディ・キラー・オースチンというレスラーこそ、試合中にパイルドライバーで二人もレスラーを殺している本当の“キラー”だったのだが、彼の異名は“殺人狂”ではなく“狂犬”だった。
シュートにも強かったといわれるコワルスキーは、若い時のアントニオ猪木の憧れの存在であり、ブルーザー・ブロディはそのファイトスタイルに影響を受けたと語る。彼が得意としたキングコング・ニードロップは、コワルスキーの得意技を盗んだものだった。
猪木はコワルスキーの恐ろしさを何度も語っており、「我を忘れた時のコワルスキーは、何をしでかすか解らない恐ろしさがあった。それはシンなど足元にも及ばない迫力だった」とまで述懐している。
コワルスキーはこの'71年の来日で猪木とシングルであたっており、インタヴューでは、「猪木にシュートを仕掛けられたので、やり返したら猪木は逃げてしまった。控え室にまで行ったがそこにもいなかった。あいつはチキンだ!」とボロクソにコキ下ろしている。猪木自身コワルスキーの恐ろしさを何度も語るくらいだから、よほど怖かったんでしょうね。
晩年は全日本プロレスに来日、若いころから薄くなり始めた頭を随分と気にしていたそうで、この全日来日時にはマスクマンとして登場。マスクを被った理由が、「カツラが試合中にズレるから」というものだったらしく、プロレス界一の変人と呼ばれたのも肯ける。
同じカツラ・レスラーのブルーノ・サンマルチノが、ニューヨークでチャンピオン(当時WWWF、現WWE)として売り出した頃、サンマルチノの壁として立ちはだかったのがコワルスキーだった。実はサンマルチノの師匠はあのユーコン・エリックで、かつて全米屈指の遺恨試合として鳴らしたライバルの弟子に胸を貸してやることで、コワルスキー本人はあの試合に落し前をつけたかったのかもしれない。
サンマルチノとの抗争('74頃)がプロレスラーとしてのコワルスキー最後の花道で、'77年に引退を表明して以降は、マサチューセッツ州でレスリング・スクールを開校。現在WWEで活躍するHHHや、新日に来ているジャイアント・バーナードなどを育て上げた。
ずっと未婚で、生涯独身を貫くかと思われたコワルスキーだったが、'06年に80歳で初婚。相手は二度も夫を亡くした未亡人という、ご婦人だったとか。
新婚ホヤホヤといってもいいコワルスキーだったが、'08年8月30日に心不全のため帰らぬ人となった。奥さんはこれでまた未亡人となった訳だが、最後の最後まで逸話にはことかかないのが、“殺人狂”キラー・コワルスキーの生涯であった。
ご冥福をお祈りいたします。合掌。







