旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

倉田保昭(8)『爬山虎』 [2006年04月30日(日)]

倉田保昭(8)『爬山虎』製作年度不明('73年説有力、'71年、'72年説有り)、監督:劍龍、主演:倉田保昭

 まず製作年度の謎から探る。

 '73年説が有力である点だが、この映画は全編台湾でロケされている。倉田が台湾入りするのは『英雄本色/ドラゴンVS不死身の妖婆』撮影のためで、倉田自身もこの作品が最初の台湾映画だったと証言する。よって、'71年や'72年は説として論外であろう。
 実は多くの資料が'72年説をとっており、『餓虎狂龍』『猛虎下山』の間に製作されたとしているのだが、『餓虎狂龍』の香港公開は'72/12/6、『猛虎下山』は'73/1/27である。
 『餓虎狂龍』から『猛虎下山』まで実質二ヶ月、ポストプロダクションの期間があったとしても、その間に台湾で一本撮ることは不可能ではないか?

 倉田の顔つきからいっても『爬山虎』が極めて初期のものであるのは間違いない。そうなると、やはり『英雄本色/ドラゴンVS不死身の妖婆』のため台湾に渡ってからと考えるのが正解だろう。

 公開データを眺めていると面白いことにぶつかった。

 『英雄本色/ドラゴンVS不死身の妖婆』の公開は、実に『猛虎下山』から一ヵ月後の'73/2/10なのだ。これは早い! 撮影から完成までも早いが、独立プロに出演を始めた倉田に眼を付け、出演交渉に至るまでの段取りを含めれば、黄卓漢は相当早くから倉田に注目していたことになりはしないか?!

 ところで、この『爬山虎』は倉田保昭主演作であると云われている。そこで思い出されるのが『上海猛虎』という映画だ。

 古い資料では、'73年に製作された『上海猛虎』という作品が、やはり倉田保昭初主演作品ということになっていた。ところが、最近の倉田フィルモグラフィからは、この『上海猛虎』は完全に消えてしまっているのだ。
 倉田保昭が正義の中国人を演じた映画なら他にもある。この日記でも過去に紹介した『強中手』や、『金三角龍虎鬥』がそれだ。
 が、『上海猛虎』の監督は劍龍と資料にあり、『強中手』の陳洪文、『金三角龍虎鬥』の羅棋とは重ならない。この『爬山虎』だけが、『上海猛虎』と同じ劍龍作品なのだ。『爬山虎』と『上海猛虎』、恐らく同じ映画だと思うが。

 日中国交正常化の影響で、反日感情がピークにある'73年に、日本人俳優を主役に、しかも中国人役をやらせる映画が存在したこと自体が十分に驚きである。いかに当時の倉田保昭が中華社会で高く評価されていたかの証明だが、この映画が『上海猛虎』であるなら、当時の新聞評には反対論も掲載されたという。曰く“中国人俳優は大勢いるというのに、日本人に中国人役をやらせるとは何事か・・・”と。

 <ストーリー>
 実のところ北京語オンリーで中文英字幕もないビデオからは、物語は完全に理解出来たとは言い難い。簡潔に説明すると、どうやら日本軍占領下の上海に、どこぞから帰ってきた倉田が、父母の死を知らされる。
 知らせたのは屋敷の奉公人・康凱。横暴を極める占領軍(劉楚、龍飛、魯平etc)に殺されたことを知った倉田は、ひとりテロリズムを展開。山茅、黄龍飛、呉東橋など、渋い顔合わせを実現させながら倒していく。

 倉田には日本人協力者・孫嘉琳がいるのだが、とにかく彼女の役割が一切不明。和服を着ていること、日本軍にそれなりの顔が利くことから日本人だとは思うが、彼女は最初から倉田の味方だ。民族を超えた恋人同士らしいが、倉田が死んだと勘違いした彼女は自ら命を絶つ。
 
 倉田は捕えられ処刑を待つ身となったが、康凱が自爆テロを仕掛け占領軍を蹴散らす。康凱の意気に何かを感じた魯平は、倉田の縛めを解き一騎討ちを仕掛ける。倉田VS魯平という、ちょっと考えられない顔合わせのクライマックスは、頭突きや関節技、投げ技も駆使して闘うハードな殺陣。

 映画としても、アクションも決して悪くはない映画だが、この映画には何かが足りない。

 それは“倉田保昭”の存在だ!

 倉田保昭を越える悪役の不在が、何となくこの映画を居心地悪いものにしている皮肉。それほど倉田の悪役としてのインパクトは絶大なのであり、倉田保昭という悪役を欠いた映画が、映画そのものの出来、不出来とは関係なく完成度を著しく下げているのだ。

 余談です。
 かつて倉田は自著において、『師弟出馬/ヤングマスター』でジャッキーが腕の力だけで壁を登っていく場面を凄いと褒めていたことがある。その時に、“私は同じことができなかった経験がある”と述懐していたのだが、その場面が出てくるのがこの映画『爬山虎』なのだ。
 確かに、壁を登っていく場面はロングだとスタントであることが判るし、倉田がアップになる場面は真下からのあおり映像のみである。恐らくは見えないようにワイヤーで吊っているのだろう。
 だからどうということもない話題だが、倉田証言の検証をしている身としては、そのことが事実であったことを伝えおく次第であります。

 管理人引越し作業のため、倉田特集五月はお休み。何も書かないのではなく、用意してある別原稿をアップします。再開は六月から、お楽しみに!

倉田保昭(7)『英雄本色/ドラゴンVS不死身の妖婆』 [2006年04月15日(土)]

倉田保昭(7)『英雄本色/ドラゴンVS不死身の妖婆』'73年製作、監督:丁善璽、主演:王羽

 本題の『英雄本色/ドラゴンVS不死身の妖婆』に移る前に、この間の倉田の身に起こった出来事をまとめておこう。

 ブルース・リーの幼友達である陳炳熾(ロバート・チェン)から、『精武門/ドラゴン怒りの鉄拳』撮影中のブルースに会わせるとの知らせが。最初誰のことだかピンとこなかったらしいが、“『唐山大兄/ドラゴン危機一発』をヒットさせた奴だ”との回答に驚き、ゴールデン・ハーベスト撮影所へ。
 一部資料に、この映画の日本人武術家に倉田を!といった動きがあったとか、ブルース・リーがそう望んでいたとかの話もあるが、既に撮影中であったことからみても、そんなことがあったとしても倉田保昭にはその話は伝わってはいなかったようだ。

 ここでの倉田とブルースの邂逅については改めて書くには及ぶまい。短い期間ながら二人は友情を育んだ。この流れが『麒麟掌』への出演を生んだ訳で、映画そのものは不幸な出来の代物でも、倉田とブルース・リーが共同で映画界に残した唯一の証として、歴史にその名を残している。

 張徹、劉家良から認められ、呉思遠、ブルース・リーからも注目された倉田の元には、当然ハーベストからも出演依頼が舞い込んだ。茅瑛(アンジェラ・マオ)の『合気道/アンジェラ・マオの女活殺拳』がそれだ。
 張徹への義理からハーベストの仕事は断った倉田だったが、サモ洪金寶が武術指導を担当し、ジャッキーがスタントで出ていたこの映画に出演していたら、後の歴史はどう変わっていたものか・・・・・。

 すっかり売れっ子になった倉田に、新たに三本契約を結びたいと申し出た会社が現れる。“香港”第一影業だ!

 訳もわからずサインしてしまった倉田だったが、“じゃ、ロケは台湾ですから”と聞かされてビックリ!'72年に結ばれた日中国交条約は、大陸以外の中華圏で大規模の反日運動を巻き起こし、特に中国との関係が微妙な台湾では、日本人排斥にまで高まっていたのだ。
 事情を説明した倉田だったが、“香港”第一影業(それは名ばかりで会社の本拠は台湾)代表の黄卓漢は、“君はもう香港の俳優なんだ!”と説得。倉田自身、“陳星や梁小龍も既に行ってるから・・・”とか、“ジミーとは一度会ってみたい・・・”とかの理由から説得され、会社からは身の安全は保証するという確約をもらい、台湾へと飛んだ。

 そうして撮影されることになったのがこの『英雄本色/ドラゴンVS不死身の妖婆』だ。

 以前からの疑問のひとつに、ここで倉田保昭に眼をつけたのは、いったいジミーなのか?それとも黄卓漢だったのか?ということがある。
 倉田がショウブラと契約したのはジミー離脱後。だがジミーがショウブラでの活躍を目にとめない訳がなく、独立プロでの成功(それも呉思遠と!)、ブルース・リーと会ったことや、ハーベストからの誘いなど、同じ業界人としてジミーも注目していたはずだ。
 この疑問にはジミー本人が近年のインタヴューで回答を与えてくれた。倉田をキャスティングしたのは黄卓漢だったと。抜け目のない商売人の黄卓漢は、陳星から梁小龍まで引き抜くことで、ヒットしている独立プロの方程式をそのまま、自分の会社に持ってこようとしたのだ。
 そしてそのためには、どうしても倉田保昭も必要だった!

 完成した映画については、日本版も発売されている現在、くどくどストーリーを載せるには及ばないだろうが、全然ご存知のない方のために少しだけ。

 かつての日本軍占領時代、中国側スパイの手引きをした魏蘇(これがジミーの父)により、自殺に追い込まれた日本軍高官・蔡弘。この息子たち三人(倉田保昭、龍飛、山茅)が、気功の達人・謝金菊に育てられ台湾へと復讐に訪れる。
 タクシー運転手のジミーは喧嘩騒ぎの毎日で、父親に迷惑をかけているが、“ジミーまた暴力事件!”的な日々は、当時のジミー本人を連想させていて面白い。
 父親が狙われたことから倉田たちと対決、彼らを倒したものの、今度は謝金菊が現れ対決を迫る。
 この謝金菊がタイトルにある“不死身の妖婆”で、気功を駆使する彼女は、武侠片における“鐵布衫”のごとく不死身なのだ。

 無敵のタクシー運転手と不死身の妖婆の闘いという、いたってトンチキな映画だが、輸入のブート版時代からファンは多く、これでジミーにハマったという人も多い。

 不死身の妖婆を演じた謝金菊は、台南では有名な気功の武術家で、映画にも数本出演。“モーレツおばさん(欧米ではクンフー・ママ)”として一部のファンには有名な『山東老娘』や、嘉凌(ジュディ・リー)の『酔拳女刀手』などで印象的な活躍をみせる。
 気功道場を一緒に経営していた夫には絶対服従だったらしく、撮影のアクションに失敗してビビっている彼女を叱りつけ、もう一度やらせていたとはジミー本人の談。
 そのジミーは、背丈があまりにも違う為アクションは非常にやり難くて困ったと述懐。珍しくジミーの方で合わせています。

 裏話としては、役作りのため五日間タクシー運転手として働いたそうで、タダ乗りの客や酔っ払いには手を焼いたそう。また、場所がわからなくて客に怒鳴られることもしばしばだったらしいが、客も相手がジミーだと知っていればそんな恐ろしいことはしなかっだろーに(笑)。

 撮影期間中、倉田はジミーにひとかたならぬ世話になったりもしたらしく、ジミーですら当時の台湾映画界は滅茶苦茶だった・・・と語るほど大変だった現場を乗り切れたのは、ひとえにジミーのおかげなのだ。倉田自身、香港時代にオーラを感じたのはブルース・リー以外ではジミーだけだったそうで、なんだかんだ言っても偉大な男だよジミーは。

 そんな倉田の台湾激闘時代は後の回に譲るとして、次回は初の主演作品『爬山虎』です。

倉田保昭(6)『猛虎下山』 [2006年04月06日(木)]

倉田保昭(6)『猛虎下山』'73年製作、監督:呉思遠、主演:陳星

 月給3万円、食うにもこと欠いて、倉田にすら食事をたかっていた陳星は、『蕩寇灘』『餓虎狂龍』の大ヒットで別人に変貌した。一本あたりのギャラは300百万円ほどにハネ上がり、監督の呉思遠共々、独立プロを成功させた立役者として、業界でも肩で風を切って歩くようになっていった。

 引き続いて彼らの作品に出演依頼を受けたが、今回は創設間もない恒生電影製作だった。恒生電影設立の経緯は不明ながら、呉思遠が関わっていたらしいことと、ショウブラ傘下の邵氏父子電影公司に配給権があったことなどからみても、設立されたばかりの独立プロとしては大きな後ろ盾を持っていたことになる。ショウブラとの交渉にも呉思遠が当ったものと推察はされるが・・・・。

 大スターになったにも関わらず、相変わらずケチ臭い陳星は、現場スタッフへの差し入れも会社経費で賄うなどしていたらしいが、ハードな撮影現場にはよく耐えた。およそ2ヶ月の撮影期間中、クライマックスのアクションだけで2〜3週間を要したという。倉田も陳星も、実際の試合を行ったと同じくらいに、体中傷だらけ、痣だらけであった。

 <ストーリー>
 1932年、日本軍は上海に侵攻、俗に言う上海事変の始まりだ。ラスト・エンペラー溥儀を擁立、傀儡政権による満州国を成立させた。

 この映画の冒頭で1932年という年号が示されるが、こういう時代だったのだ。

 映画の舞台となるのは満州国から遠く離れた鄙びた漁村だ。予算の少ない独立プロに、関東軍の侵攻と中国人民の抵抗運動を描くほどスケールの大きな映画は作れる訳がない。よって舞台となるのは、漁村に現れた日本人と漁民の闘いになるのだ。
 だが、バックグラウンドとしては上海事変があった、ということは知っておかなければ、作品世界への理解は深まらない。

 鄙びた漁村にも日本軍の影は迫っていた。直接軍隊の支配こそ受けてはいないものの、漁協の営業所は日本人に接収された。我が物顔で村を闊歩する日本人武術家・周江、陳嶺威、染野行雄、李家鼎らと、地元の漁民たちとの間に生まれた軋轢は広がる一方だった。孫嵐のように日本人に追従する人間がいる一方で、黄元申を中心とする若者グループ(韓國才、梁小熊、何天誠、祁浩劍、梁小龍、龍方)には抵抗の機運が芽生え始めていた。

 新たに出張所所長として赴任した倉田保昭は、地元に広がる抵抗運動を押さえ込むため、殺された日本人の代りに無作為に選んだ漁民を吊るし上げた。吊るされた漁民・祁浩劍は晒し者にされたが、遺体を引き取ろうとするは容赦しないと倉田は宣言。アメリカでボクサーをしていた陳星が、村へと帰ってきたのはそんな時だ。

 陳星が婚約者の黎愛蓮を連れて帰村した理由は、アメリカ時代にボクシングの試合で恩師の息子を殺してしまったからだった。闘いを恐れた陳星は拳を封印したが、黎愛蓮はそんな陳星に、あまり深刻にならないよう諭す。

 帰村した陳星に、相変わらず少し頭の弱い役柄の韓國才が、村人が吊るされていると教える。その話を冗談だと思った陳星は、なら俺が助けてやろうと申し出る。案内された先で陳星が見たものは、無残に吊るされた祁浩劍の姿と、日本人武術家の姿だった。
 行きがかり上助けなくてはいけなくなった陳星、拳は封印して捧術で李家鼎をあしらう。陳星の実力を見て取った倉田は、部下の暴発を抑え鉾を収めた。

 倉田の目論見は、別のところにあった。この村を拠点に満州国を後方支援することで、漁民を抑え船を徴収し、抵抗運動の阻止をするのが本当の目的であったのだ。
 一躍漁民の英雄となった陳星だったが、兄・[赤+おおざと]履仁の家で静かに漁民として暮らすことを望んでいた。陳星を英雄視する甥の黄元申はそんな陳星の態度に不満顔を見せる。
 村では日本人の横暴が続き、黄元申は抵抗を組織し、反抗の機会を窺う。黎愛蓮との静かな暮らしを望む陳星は度重なる嫌がらせにも耐えていたが、陳嶺威らに襲われた女性を助けようとした梁小熊が掴まったことから、行動を開始。嫌でも日本人との抗争に巻き込まれていくことを黎愛蓮に詫びる陳星だったが・・・・。

 黄元申は村人に武術を教え、倉田暗殺を試みる。暗殺隊に選ばれたのは梁小龍と龍方。割と大き目の役を貰った梁小龍が倉田に挑む!梁少松、李銘と共に、本作の武術指導を務めた梁小龍。ちなみに彼は、前作と本作でヒロインを務めた黎愛蓮と熱愛。スタントマンと主演女優という立場でありながら後に結婚している。
 黄元申も各個撃破で周江を倒すも、自身も傷を負い黎愛蓮に匿われる。村人の抵抗を抑え切れなくなったと感じた倉田は、周江暗殺の下手人探索のため、無差別に村人を逮捕。同時に、村にある全ての船を焼き払い撤収を開始。
 [赤+おおざと]履仁の家も捜索され、黄元申と黎愛蓮が掴まった頃、村人を助けるため立ち上がった陳星が、李發源や楊世鈎らと闘っていた。

 今回はマラソンバトルではない。『蕩寇灘』の実験から、『餓虎狂龍』で一応の成果を挙げたマラソンバトルだったが、同じことを繰り返すほど呉思遠もバカではない。雑魚敵(李發源や楊世鈎)、中ボス(染野行雄、李家鼎、陳嶺威)、そしてラスボスの倉田まで、場所を変え、手段を変えながら闘っていくオーソドックスなパターンだ。
 陳星VS倉田だけで引っ張った前作と違い、乱戦から一騎討ち、素手の闘いから武器を使った闘いまで、ノンストップで繰り広げられる。ラストの陳星戦も、『餓虎狂龍』に比べればあっさり感があるものの、問答無用のド突き合いはさすがの迫力。

 倒しても倒しても起き上がってくる倉田、撮影途中でもうそろそろ殺してくれよと思いながらやっていたそうだが、呉思遠は撮影中決して容赦も妥協もしなかったという。その情熱が、予算の枠を超え、見た目の貧相さから作品を救う唯一の道だと呉思遠は信じた。
 大変な撮影だったかもしれないが、倉田保昭も大フューチャーされている。劇中、空手の形やヌンチャクを演武する場面を何回も用意され、OPとラストしか出番のなかった前作に比べれば、作品世界に倉田の占める割合が増している。人物的にも、複雑な要素が増え、侵攻計画支援の裏で、漁民に恫喝をかけ、時に懐柔策を見せるなど、演技的にも一段上のものを見せているのだ。

 『猛虎下山』も大ヒット(この時代のヒット基準100万HKドル・オーバー)、呉思遠、陳星とのトリオは磐石かに思えた・・・・。そんな倉田保昭に、台湾から熱い視線を送っている男がいた、第一影業代表・黄卓漢その人である。

 次回は、VSジミー!『英雄本色』です。

倉田保昭(5)『龍虎雙雄』 [2006年03月31日(金)]

倉田保昭(5)『龍虎雙雄』製作年度不明(元映像は'72年)、監督:呉思遠、主演:陳星

 倉田保昭本人の言葉を引用させていただく。

 「一本撮るとそれが二本になっちゃったり、別の映画とつなぎあわせちゃったり、メチャクチャやりましたからね。」(洋泉社刊「ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!」より抜粋)

 “一本撮るとそれが二本に”!?とは一体どういうことだ!?

 '74年に『神拳飛龍』という作品がある。これは、倉田が日本で出演したTVシリーズ「闘え!ドラゴン」を再編集し、90分の劇場用作品にした作品で、勿論、無断で行われた。

 '76年の『方世玉傳奇/鳳舞雲天/旋風方世玉』という作品は、'72年の『方世玉/武道大連合 復讐のドラゴン』における倉田出演場面を回想シーンで使用した作品で、『方世玉傳奇/鳳舞雲天/旋風方世玉』は大五・長江影業作品、『方世玉/武道大連合 復讐のドラゴン』は張徹の南海影業作品。言うまでもないが、これも無断である。

 これらはいずれも“別の映画とつなぎあわせちゃったり、メチャクチャやりましたからね”の方で、“一本撮るとそれが二本に”なってしまった例には当て嵌まらない。

 倉田保昭の熱心なファンであるならば、彼の出演作品リストや、フィルモグラフィには眼を通したことがあるだろう。今回紹介する『龍虎雙雄』という作品は、過去に紹介されたことにある倉田出演リストには何処にも載っていない作品だ。そしてこの作品こそが、“一本撮るとそれが二本に”なってしまった例を示す幻のレア作品なのである。

 端的に言うと、この映画は『餓虎狂龍』だ。ストーリー、場面展開などはほとんど『餓虎狂龍』と同じで、OPに数カット『餓虎狂龍』の未使用カットがあることと、ラストのVS陳星の編集が違うだけなのだ。

 それでもこの映画は別物である。

 『餓虎狂龍』製作時、呉思遠はまだ自分の会社・思遠影業を創設してはおらず、『蕩寇灘』製作時に製作を受け持った富國影業が製作を担当した(配給ラインは協利電影)。
 だから『餓虎狂龍』は、富國電影出品、呉思遠製作・監督というのが正式クレジットとなる。

 この『龍虎雙雄』は、北京語版中文クレジットのあるもので確認した。得利影業出品、出品人・何文強、監製・郭延華と、『餓虎狂龍』とは違うクレジットとなっており、監督は呉思遠とクレジットされてはいるものの、微妙な編集の違いといい、この作品が倉田のいう“一本撮るとそれが二本に”という条件を最も満たしてはいないだろうか?

 作品としては『餓虎狂龍』も『龍虎雙雄』も同じ作品である為、作品についてはこれ以上の紹介は避けるが、当時の香港映画界の状況を語る倉田証言を裏付ける点で、貴重なレア作品であるためあえて紹介した次第であります。

 来月も続いて倉田特集、次回は『猛虎下山』。 

倉田保昭(4)『餓虎狂龍』 [2006年03月25日(土)]

倉田保昭(4)『餓虎狂龍』'72年製作、監督:呉思遠、主演:陳星

 『蕩寇灘』大ヒット後、倉田保昭はホゾを噛んでいた。“しまった!あの男の才能を読めなかった・・・” 後悔既に遅し、である。

 映画をヒットさせ、一躍時の人になった呉思遠も、実は悔やんでいた。“陳星の相手役は倉田しかいないのに!”前作に倉田を出演させられなかったことは痛恨事だったのだ。

 呉思遠は新作『餓虎狂龍』の企画を持って再び倉田の元を訪れた。

 暴力が百花繚乱に咲き乱れる時代に、暴力そのもののダイナミズムを描き出すこと、それが呉思遠の理想だった。目標が理想に到達するための現実的な段階点であるとするなら、倉田への出演依頼は、目標に向って進む第一歩だ。再度の出演依頼には、応える必要があると倉田も感じていた。

 倉田保昭は行動する男である。何故なら、行動は言葉よりも雄弁だからだ。呉思遠もまた、そういう男であった。彼らの行動こそが、彼らの理想を明らかにすることを知っていた。倉田は出演を快諾し、作られるはずだった『蕩寇灘』の理想形を実現すべく、『餓虎狂龍』の撮影が始まった。

 <ストーリー>
 大日本空手道總道場師範の倉田保昭は、来るべき中国侵攻の先兵としてスパイ活動に従事すべく上海に派遣される。ただし、これは国家の秘事であり、その身分はあくまで民間のものとして取り扱われるとの指令だ。上海を支配するギャング・姜南の組織に用心棒として雇われ、その裏で侵攻計画を極秘裏に進めるのが倉田の任務である。あくまで民間の立場であるため、君もしくは君の仲間が掴まり、或いは殺されても、当局は一切関知しないことを念押された。

 一方、こちらは中国。南京特殊部隊体長・陳星は、部下の訓練途中、総司令部へと呼びだされる。上海のギャング組織に手を焼く警察からの要請で、組織に潜入し彼らの悪事を暴くよう要請されたのだ。過去何人もの秘密捜査官が命を落としたため、特殊部隊に御鉢が回ってきたものだが、潜入捜査であるため、やっぱり当局はその生命を保証しないのであった。

 このOPのそれぞれの対比が上手く、倉田、陳星共に試験されるような形でアクションを披露。倉田は湛少雄、錢月笙、陳星は梁小龍、黄元申とそれぞれ闘う。

 波止場の労働者・韓國才、郭榮勝は、黎愛蓮と自転車で出勤。波止場で靴磨きを営む韓國才は不審な積荷に近寄って袋叩き。その積荷は姜南が取り扱っているものであった。陳星は上海に到着すると、波止場の現状と、自分の苦境を部下の黄元申に手紙で訴える。
 倉田も到着し、さっそく用心棒として組織に雇われる。弟子の解元も一緒だ。相変わらず虐められている韓國才を助けたのは、陳星の手紙を見て上海へとやってきた黄元申。お礼参りにやってくる姜南一味、息子役で陳惠敏が出演しているが、同年デヴューしたばかりの陳惠敏、実に初々しい。

 陳惠敏と互角に闘った黄元申は、仕事が欲しいと姜南にアピールするが、警察のスパイではないか?と疑いをかけられる。そこへやってきたのが陳星、黒社会の暗号と挨拶を披露し味方であることを証明。いちおう腕前を試されるのだが、ここで登場するのが李家鼎、李銘、梁小龍の三人。彼らが本作の武術指導なのだ。
 姜南の屋敷で更なる試験を受けたが、倉田と解元は今イチ信用していない様子。それでもその夜は歓迎会が開かれたが、誘拐されて連れて来られた黎愛蓮を見て、黄元申の怒りが爆発。一味には不穏な空気が漂う。

 姜南の組織を隠蓑に、中国に潜入していたスパイとコンタクトを取る倉田。侵攻計画書を渡し、来るべき蜂起に備えるよう指示。黎愛蓮と仲良くなり、波止場の情報を入手する黄元申。姜南の船が不審な積荷を出荷させる日を探るよう頼んだ。
 倉田の動向を探っていた陳星は、姜南の仕事とは違う動きに不審を覚えるが、倉田は尻尾を掴ませない。倉田は倉田で、陳星らの動きに警察のスパイではないかとの確信を強め、姜南に提言して罠を仕掛ける。

 船の出港日が判明、陳星は罠ではないかと疑うが、別の手を打つだけの材料も日数もなかった。韓國才、郭栄勝らを連絡要因に使い、警察と連携。
 出港の夜、姜南の家に監禁される陳星たち。船の積荷は別の所に移動させ、爆弾を仕掛けたという。警察がくれば陳星たちはサツの犬、その警察も爆弾で吹っ飛ばすという算段だったが、陳星たちの連絡がないことを不審に思った韓國才の機転で救われる。

 郭栄勝は波止場でスリをして暮らしていた。止めよう、止めようと思ってはいたのだが、懐の暖かそうな人物を見かけるとついつい手が動いた。だがこれが思わぬ展開を生んだのだった。郭栄勝が掏り取ったのは、倉田からスパイに渡された侵攻計画書。こうなると人身売買のギャング組織など後回しだ。祖国を守る為立ち上がった陳星は、日本軍のスパイ・倉田を追い詰める!

 ここから映画史上初めての本格的なマラソンバトルが開始される。

 逃げる倉田、追う陳星。野原で闘い、階段の途中で闘い、石畳を越え、広場で闘い、建物を昇り降りしながら続けられる激しいド突き合い。前回の武術指導・袁和平に変わって、武術指導として抜擢された梁小龍は、粤劇出身で詠春拳を修得し、テコンドー、空手を学んだ。共に空手出身の陳星と倉田にとって、実戦武打の映画的表演という新しいジャンルを確立した梁小龍の武術指導は、願ってもない立ち回りであった。

 闘いは続く。解元が車で救出に現れるが、陳星も車にしがみついて逃がさない。郭栄勝、韓國才、黄元申も助っ人に登場。黄元申が解元を倒すが、韓國才が倉田にやられた。
 港に逃げる倉田を待ち受ける陳星。船で、波止場で、海岸で、更に続くド突き合い。狄龍や姜大衛相手には遠慮気味だった倉田も、陳星相手には実力全開だ。殴り合いに飽きた倉田がトンファーを取り出し、対抗した陳星がサイで応戦。お互いが一進一退を繰り返し、トンファーもサイも弾き飛ばされる。再び素手での闘いになったと見えたが、倉田は更にゴールデン・トンファーを取り出し、陳星はボコボコ。だが永遠に続くかと思われる闘いも、陳星が倉田の腕をヘシ折り決着をつけた。

 ゴールデン・ハーベストの独立は確かに事件だった。だが真の独立とは? ハーベストもショウブラから独立し、新たな会社を創造したが、会社の方向性としてはもうひとつのショウブラを創造したに過ぎない。それは独創とは呼ばないのだ。
 絶え間の無い創造の行為を、独りで繰り返し、その後に生まれるものが独創であり、それこそが真の独立である。
 未曾有の功夫ブームにおいて、その誰もがショウブラの縮小コピーか、ブルース・リーの真似事に終始するなかで、まったく別の方向性を現出し得た呉思遠の情熱と、それに応え得た倉田保昭のアクションなくして、この映画の成功はなかったろう。

 『餓虎狂龍』は、低予算の独立プロ作品ながら、120万HKドルを越す大ヒットを記録し、'72年の年間興収記録第8位にランクされた。

 次回は、こんな映画あったっけ?『龍虎雙雄』です。

倉田保昭(3)『蕩寇灘』 [2006年03月16日(木)]

倉田保昭(3)『蕩寇灘』'72年製作、監督:呉思遠、主演:陳星

 '66年 
 警察官の腐敗汚職を追及する大掛かりなデモが起きる。

 胡金銓(キン・フー)の『大酔侠』公開。“武侠片新世紀”の幕が開く。

 中国で文化大革命、粛清の嵐。

 '67年
 文化大革命は香港にも飛び火。俗に言う香港暴動の始まり。

 張徹『獨臂刀』公開。“浪漫暴力路線”開始。残酷ブーム始まる。

 工場の労働闘争に警官が介入。闘争の火は収まらず、反英大暴動へと発展。

 張徹『大刺客』公開。

 '70年
 ベトナム戦争激化、難民化したベトナム人がボート・ピープルとして来港。
 人口も飛躍的に増加し、難民問題が本格化。

 張徹『報仇』公開。

 王羽『龍虎鬥/吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』公開。

  戦後の“団塊の世代”が続々と社会へ。ジェネレーション・ギャップの始まり。

 '71年
 尖閣諸島問題から反日デモへ。

 ブルース・リー凱旋『唐山大兄』公開。

 広東語公用語化問題から学生運動。

 '72年
 英中関係正常化。続いて日中国交正常化なる。
 これにより台湾との関係は悪化、各地の反日デモはピークへ。 

 『精武門/ドラゴン怒りの鉄拳』公開。

 『馬永貞』公開。張徹“浪漫暴力路線”頂点へ。
 
 この『蕩寇灘』が公開されたのはこの'72年のことであった。

 現実社会の暴力が映画に反映されてきた時代であったのが、御理解戴けるであろうか。暴力が次の暴力を生み、その連鎖は実社会の合わせ鏡たる映画に受け継がれ、より刺激的な暴力を生んだ時代。それが60年代後半から、70年代にかけて香港で続いたドラゴン・ブームの正体である。

 その中で、胡金銓は“暴力の要因は政治腐敗にある”ことを描き、張徹は“神話世界の英雄の姿に擬した暴力のロマンチシズム”を描いた。ブルース・リーが描いたのは“暴力におけるストイシズム”であり、王羽は“より剥き出しのリアルな暴力”に活路を見出した訳だ。

 '70年にショウブラザースから鄒文懐(レイモンド・チョウ)が独立、ゴールデン・ハーベストを旗揚げ。この時点ではハーベストも小さな独立プロのひとつに過ぎないが、これは香港映画界の歴史に残る大事件であった。当時の映画人で、ショウブラザースに対抗しようという人間が現れたことは、ショウブラの求心力の低下の表れでもあるが、社会が急速な変化を求めている証拠でもある。

 ショウブラの扱いに不満を抱いていた王羽も『龍虎鬥/吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』の大ヒットを契機に独立し、ハーベストに合流した。これが香港映画界にもうひとつの流れを生む間接的要因となる。所謂、“独立プロ乱立”というやつだ。

 『龍虎鬥/吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』は、王羽が監督・主演したワンマン映画であるが、同作で助監督を務めた呉思遠は“あれは俺の監督作だ!”と言う。企画当初にアドバイザーを務めていた張徹の証言からも、呉思遠が同作の完成に尽力したことは事実であると推察される。スターの初監督作品には起こりがちなことで、許冠文(マイケル・ホイ)の初監督作『鬼馬雙星/Mr.BOO!ギャンブル大将』は、呉宇森(ジョン・ウー)が実質の監督だというし、曾志偉(エリック・ツァン)は、ジャッキー初監督作『笑拳怪招/クレージーモンキー笑拳』は自分が監督したと言っている。

 王羽に手柄を独り占めされた呉思遠だったが、それ以上に彼を刺激したのが鄒文懐や王羽の独立だった。“彼らが出来るなら、俺にだって!”弱冠27才の呉思遠も、独立の気運に燃えた!

 これを後押ししたのが、暴力の連鎖が暴力を生む時代だった。

 『龍虎鬥/吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』は、武術アクションとしての功夫片ではなく、暴力のリアリズム描写という動作片が成立することを示した。王羽程度のアクションで観客に訴えかけられるのであれば、武術の達人にこれをやらせてみては?
 民初動作片の隆盛は、衣装やセットに費用を掛けられない独立プロにも好都合であった。“取り敢えず武術の達人を揃えよう、あとはそれからだ・・・・”ショウブラでは月給3万、脇役でくすぶっていた陳星に声が掛かったのは、彼が剛柔流空手二段の猛者であったからだ。

 呉思遠は陳星の相手役に倉田を望んだ。迫力ある悪役顔だが、従来のスターには程遠い陳星を、生かすも殺すも相手役次第である。その点で倉田保昭は申し分のない相手ではあった・・・・。

 倉田は困惑していた。ショウブラから独立したばかりの、何の実績も無い青二才監督は、その熱意こそふんだんにあるものの、ビジョンも何も見えてはこない。倉田もまた若かった。香港に腰を落ち着ける決心こそしたものの、25才の倉田に独立プロのデヴュー監督に賭けるだけの気持ちは生まれなかったのである。

 倉田の断った作品が『蕩寇灘』である。わざわざ彼が出演しなかった作品を取り上げているのには、それなりに理由があるものなのだ。

 この『蕩寇灘』が、後に倉田と梁小龍(ブルース・リャン)で有名になる“マラソン・バトル”の原点であるからで、更にはこの映画の成功が、真の独立プロ時代とドラゴン・ブームの立役者となる、歴史の転回点的役割を果たした作品だからだ。

 ストーリーは正直言って、あってもなくても構わないようなものである。逃亡犯・陳星が姿を潜めるとある村にも、日本軍が進出してきた。村出身の孫嵐が日本軍の手先として、陳觀泰をボスとする日本人武術隊(山怪、方野、白沙力)を率いて現れた。
 黄梅主宰の地元の武館を潰し、高札を掲げて挑発。陳星もナショナリズムを刺激されるが、逃亡犯の身では派手なことは出来ない。
 何守信の忠義武館は名門だが、門弟(于洋、劉大川、袁和平ら)に自重を促す。日本人たちは、この村に伝わる秘薬も狙っているが、正直に言ってこれもどうでも良さそうな、取って付けた様な設定だ。

 結局、何守信が自重している間に、門弟や妹・林玉洋も殺され、于洋らは捕虜に。面倒を恐れた陳星は人知れず村を後にしようとするが、世話してくれた唖の韓國才とその老父・[赤+おおざと]履仁も殺される。怒りMAXの陳星は、秘薬の在り処を教えることで捕虜を釈放させる。捕虜たちの侮蔑を受けた陳星であったが、人質を解放したことで思い残すことなく闘うのだった。
 海岸を走り回って闘う場面が“マラソン・バトル”の原点で、倉田の代りに大抜擢を受けた陳觀泰が陳星と死闘を繰り広げる。その陳觀泰は、撮影途中でショウブラに呼び戻された為、ドラマ部分の一部は、陳觀泰役という設定のボスはマスクを被ったままである。ラスト・バトルが先に撮影されていたのは幸運だった。

 武術指導は、これも独立したばかりの袁和平が抜擢され、ヌンチャクVSサイなどのアクションを構築することで、全体にアクセントをつけている。余談だが、絡みの中に汪禹の顔も見えるのだが、この後は陳觀泰と共にショウブラに帰ったんでしょうな。

 ストーリーも含めて、映画全体の出来はお粗末なものであるが、ここには確実に“何か?!”があった。それは時代の熱気としか表現しようのないものであるが、その“何か?!”は、確実にひとつの波を起こし始めていた。『蕩寇灘』は170万HKドルを越す大ヒットとなり、'72年の年間興収第7位にランクイン。

 大成功を収めた呉思遠だったが、ひとつだけ心残りなことがあった。“倉田が欲しい、もし彼が出ていたら・・・・”今更ながら説得出来なかったことが悔やまれる。陳觀泰もショウブラに取られてしまったし、やはり倉田保昭の力が必要だ。

 次回は、その呉思遠ミーツ倉田保昭実現の『餓虎狂龍』です。 

倉田保昭(2)『四騎士』 [2006年03月11日(土)]

倉田保昭(2)『四騎士』'72年製作、監督:張徹、主演:狄龍、姜大衛、王鍾、陳觀泰

 第二次世界大戦後、南北に統治されて誕生した大韓民国。1948年、李承晩大統領政権が発足。この時から韓国は長い軍事独裁政権の幕が開いた。

 1950年、北朝鮮軍が38度線を突破。朝鮮戦争が勃発。

 韓国を支援する米軍の地上攻撃が開始されたが、中国から人民解放軍が南進。一進一退を繰り返しながら、'53年に再び38度線で休戦協定が結ばれるまで戦争は続いた。
 李承晩大統領は長期政権を敷いたが、その実体は不正手段と強圧的な暴力による圧政だった。'60年の不正選挙で四度目の当選を果たした李承晩大統領だったが、人心は離れ、高まる学生運動から巻き起こった“4.19革命”により政権の座を明渡す。

 この文民革命も長くは続かず、'61年に朴正熙将軍が軍事クーデターを起こし政権を掌握。'63年の大統領選挙に当選後、韓国は再び軍事独裁による圧政が始まった。
'65年からは米軍と共にベトナムへ派兵。アメリカに次ぐ兵力を動員(最大30万人)して戦ったことはあまり知られていない。

 朴正熙政権は軍事独裁政権であり、戦争の時代でもあった。それを口実に人々は検閲など生活の多くを制限されたが、経済的には輸出政策を発展させ、戦争特需も手伝って高度成長を迎えつつあった。

 '68年、北朝鮮から武装ゲリラが侵入。韓国大統領府にまで接近し銃撃戦を展開。映画『シルミド』にも描かれたこのエピソードは、韓国側に北に対する過剰反応を引き出す。戒厳令が敷かれ、一般市民は深夜12時以降夜間外出が制限された・・・・。

 '72年4月、そんな状況の韓国に倉田保昭はいた。

 張徹が韓国の映画祭に呼ばれたから、ついでに韓国で撮影をしてきたのか、韓国で撮影するついでに映画祭に参加したのかは不明ながら、ともかく張徹一行は『四騎士』撮影のため韓国を訪れたのだった。
 当時韓国で開かれたというその映画祭は、張徹側の記録にはただ映画祭としか書かれていない。'72年頃の韓国映画祭なら「青龍映画祭」か「大鐘映画祭」のどちらかだろう。'62年に始まった「大鐘映画祭」と、'63年に始まった「青龍映画祭」が、歴史的にみても他の映画祭より可能性がありそうだ(ちなみに'72年の「青龍映画祭」最優秀作品賞は『石火村』)。

 倉田も張徹らと共に映画祭に列席したというから、当時の日本人としてはかなり早い時期に日韓交流を行ったことになる。当時の韓国では日本の文化は解禁されてはいなかったはずだから。

 映画『四騎士』は、その韓国で、韓国軍の協力を得て撮影された。映画に使用されたジープや武器などは、韓国軍からの借与であったそうだ。タイトルにある“四騎士”とは姜大衛、狄龍、王鍾、陳觀泰のこと。後に李修賢が加わって“五虎將”となるが、それはまた別のお話。

 倉田側から見たこの映画一番の見所は“陳觀泰との初対決!”これに尽きるだろう。『惡客』に於いて姜大衛、狄龍と対戦し、“倉田保昭ここにあり!”を満天下に示した。そして張徹が満を持してその対戦相手に選んだのが、『馬永貞』で売り出しに掛かった陳觀泰だったのである。

 当時を述懐する倉田は“こいつが一番のスターになるな・・・”と陳觀泰を評している。実戦派の大聖劈掛拳を習得する陳觀泰は、映画スターというより武術家であった。映画撮影時も、戒厳令下の韓国で度々喧嘩し、軍隊が出動する騒ぎを起こした陳觀泰。同行する倉田も困惑することしきりであったという。

 『惡客』撮影時と『四騎士』の間に変わったこと、それは倉田の決意と覚悟である。

 『小拳王』の撮影を終えた倉田は一旦帰国し、夫人とも相談の上で香港での仕事に賭けたのだ。その成果は『四騎士』の全編に渡って見られており、演技的にもアクション的にも、『惡客』時のような浮ついた感じは消えている。

 <ストーリー>
 横暴な上官を殴って軍隊を飛び出した狄龍は、ソウルにいる姜大衛を尋ねる途中で王鍾と知り合う。無邪気な男で掴み所が無い王鍾は、なんとなく憎めない奴だ。怪我で病院に収容されている陳觀泰を訪ねるという王鍾と共に、ソウルまで盗んだジープで旅の道連れ。

 ソウル市内のクラブでは、ホステスの李麗麗と姜大衛が気だるい午後を過ごしている。クラブの支配人・倉田保昭は、そんな姜大衛を尻目に支配人室へと消えた。
 このクラブはソウル市内の麻薬密売の拠点で、米兵が持ち込んだ麻薬を捌いているのだ。麻薬を持ち込んだGIはもう仕事から下りたいと言い出し、倉田は部下の王光裕に始末をつけるよう指令を出す。

 ジープを売り払い、王鍾と別れた狄龍。路地裏でGIと喧嘩している王光裕ら数人の男を目撃。ただの喧嘩かと思いきや、血に染まって息絶えるGI。現場を見られた王光裕は、手下と共に狄龍を袋叩き、凶器を狄龍の手に握らせて現場を去った。

 GI殺しの犯人にされた狄龍は、無実の罪を訴えるも聞いて貰えない。王光裕らにボコられた時の傷が元で、MPに連れられ軍病院へと搬送されたが、そこは陳觀泰の入院している病院だった。王鍾も見舞いに訪れており、事情を説明し、ふたりで狄龍救出計画を立てる。看護婦の井莉は陳觀泰の恋人で、院内の事情は手にとるようにわかるのだ。

 銃を入手しろと陳觀泰に言われ、ソウル市内でチンピラとコンタクトを取る王鍾。一度は騙されるが、その様子を見ていた王光裕に倉田を紹介される。“銃が欲しいなら売ってやるが、ひとり始末して欲しい人間がいるんだが・・・”GIを殺したことをボスのアンドレ・マルケスから責められていた倉田は、病院の狄龍を口封じに仕留める刺客を捜していた。
 うまい儲け話かと思って聞いていた王鍾、話が狄龍のことになったので驚いたが、平静を装って請け負った。だが王鍾が一瞬躊躇ったのを倉田は見逃さなかった。“銃は明日、仕事の前に渡す”駅での取引を約束して一旦は別れる王鍾。

 陳觀泰に状況を説明すると“やばいことになったな、暗殺しないと今度は君が狙われるぞ”と頭を抱えた。
 銃の受け取りに出向く王鍾、倉田も信じておらず尾行をつける。病院で井莉に銃を狄龍まで運ばせ、井莉が人質となることで脱出しようという手はずだったが、寸前のところで倉田一味の邪魔が入った。MPを含めた三つ巴の銃撃戦となり、その最中、井莉が流れ弾に当って命を落とした。脱出には成功した狄龍たちだったが、井莉を亡くした陳觀泰は自暴自棄に。

 話は少し遡り、倉田一味が友人の狄龍を陥れたことを知った姜大衛だったが、ボスの情婦・金霏に掴まっていた。狄龍暗殺隊が出向いた当日、“あの男なら死んだも同然よ”と聞かされ、一味の手から脱出。町で狄龍たちが指名手配を受けていることから、まだ生きていると知る。

 隠れ家に潜んでいた狄龍たちの元へ、検問を突破した姜大衛が合流。取り敢えずソウル市内から、包囲網を突破するべく李麗麗に協力を頼む姜大衛。米兵の制服を李麗麗たちと仲間のホステスに盗ませ、市内の検問を逃れたが、クラブでは制服を盗まれた米兵の訴えから、李麗麗たちの動きは読まれていた。

 郊外の隠れ家へ逃れた狄龍たちだったが、クラブで拷問されたホステス(李麗麗はすぐ殺される)たちによって居場所が知れる。ボスのところで、事件の発端となった麻薬密売の証拠を探すと、姜大衛が行動を開始する頃、隠れ家には倉田一味の手が迫っていた。

 追われた狄龍たちは体育館に逃げ込み、倉田一味との壮絶な決戦。姜大衛はクラブで李麗麗たちの無残な死体を発見、ボスとその手下の襲撃を受ける。

 体育館の道具を使って、多勢に無勢の状況から挽回していく狄龍たち。この映画の武術指導・劉家良は、後年この場面を自作『掌門人』で再現するのだ。
 ボスを倒し、狄龍たち無実の証拠を掴んだ姜大衛は救出に向うが、銃を手にして包囲を狭めてくる倉田一味に、王鍾、陳觀泰が次々と倒れていく。
 狄龍の孤軍奮闘が続き、もはやその命は風前の灯火というその時、姜大衛が飛び込み形勢は逆転。倉田を倒して皆の無念を晴らすが、体育館はMPに包囲されてしまっていた・・・・・。

 蜂の巣にされた陳觀泰の元に、自らも槍で貫かれながら寄り添うように倒れこむ王鍾。無実の証拠を掴みながら、倉田一味の残党と共にMPからの一斉射撃を浴びる狄龍&姜大衛。功夫映画でもない、浪漫暴力路線でもない大人のドラマと、死を前にした男の友情が描かれる。そして結末は彼らの報われない死だ。

 この映画の助監督を勤めたのは呉宇森(ジョン・ウー)、彼は張徹をこよなく尊敬する忠実な弟子だ。張徹の『刺馬』が『英雄本色/男たちの挽歌』『喋血街頭/ワイルド・ブリット』の原型だとすると、この『四騎士』は間違いなく『喋血雙雄/狼 男たちの挽歌・最終章』の原点だ!

 次回は『蕩寇灘』です。 

倉田保昭(1)『小拳王』 [2006年03月06日(月)]

倉田保昭(1)『小拳王』'71('70、'72年説有り)年製作、監督:頁敏、主演:孟飛

 今月は倉田保昭特集です。“倉田の前に倉田無し、倉田の後に倉田無し!”

 1970年9月『惡客』撮影の為、香港啓徳空港へと降り立った倉田保昭は、数十名の記者に囲まれていた。当時、東映の大部屋役者に過ぎなかった倉田は、“空手の出来る無名の役者が必要だから・・・・”そういわれて軽い気持ちで引き受けていたこともあって、事の次第に面食らっていたのだ。

 香港最大の映画会社「邵氏兄弟有限公司(ショウブラザース)」に日本から映画俳優が参加し、スーパースター姜大衛&狄龍と競演することから、現地でもその話題は持ちきりであった。改めて自分の置かれた状況に奮い立った倉田は、日本での面接時に会っていた監督の張徹や、武術指導の劉家良に連れられ、清水灣沿いにそびえるショウブラザース・スタジオの門を潜った。

 当初、二週間の契約でスタートしたが、一週間ほど撮影が進んだところで倉田の運命は一変していた。ラッシュの仕上がりを見た首脳陣は、鋭い蹴りを放つ倉田の動きに魅了された。時は未だブルース・リーの帰港前である。
 会社は劉家良の強い薦めもあって長期契約を希望したが、当時まだ香港で骨を埋めるつもりなどなかった倉田は、現地のスターと同じ契約額(日本円で50万くらい、ちなみに同時期の脇役は月給3万くらいだったそうだ)を要求。交渉は決裂し、撮影が終われば日本へ帰る予定でいた倉田を引き止めたのは張徹だった。

 “契約をしなかったというのは本当か?!”百萬弗導演と呼ばれるトップ監督の張徹は、独立志向が強く、外部に下請けのプロダクションを持っていた。“そこで『小拳王』という映画を撮るから、昼は『惡客』、夜は『小拳王』の掛け持ちで出演してくれないか?”という。“俺がスターにしてやる・・・・”張徹の男気を感じた倉田は、この張徹の申し出に賭けた。

 ここに、日本から来た香港映画スター・倉田保昭が誕生したのだ。

 『小拳王』の主役は孟飛という大陸から来た若い俳優で、彼を売り出すために立てられた企画だった。張徹の下請けプロ「南海影業」が直接の製作を受け持つが、倉田曰く“殺陣師の劉家良以下、スタントマンたちもそのまま移動して”昼夜兼行で『惡客』と『小拳王』の撮影を続けた。
 完成した映画『小拳王』には、武術指導として劉家良の名前はクレジットされていない。クレジットされているのは弟の劉家榮と、『惡客』で劉家良と共同で武術指導を担当していた唐佳の弟子・黄培基の二人がクレジットされている。
 が、実際には劉家良も現場で指導したのかもしれない。倉田本人の述懐にはしばしば彼の名前が登場している。

 アクションも何も出来ない新人・孟飛は撮影中、劉家良の強烈なシゴキにあっていたらしいが、その若々しい魅力から映画は大ヒットを記録。とりわけフィリピンでの人気は凄まじかったらしく、孟飛と倉田の二人はフィリピンで最高の人気スターとなった。この人気からフィリピン映画界に呼ばれた倉田は、現地で主演作『金三角龍虎鬥』を撮るまでになる。

 <ストーリー>
 タイを旅している孟飛は、現地でムエタイの選手をしている乃南、その妹・劉蘭英と仲良くなり、乃南に中国武術の一手“刀手”を指導する。

 孟飛がタイで旅行を満喫している間、孟飛の武館では日本人武術家・倉田保昭の挑戦を受けていた。道場を預かる劉江は、柔道技を使う王と空手技の倉田に苦戦。中国武術界は日本による屈辱的な蹂躙を許した。
 その倉田の目に留まったのが、孟飛の妹・李琳琳。彼女に一目惚れした倉田は、日中友好を申し出、李琳琳を食事に招待した。

 無礼な倉田の申し出を蹴った李琳琳だったが、度重なる招待で更なる屈辱に耐えていた。そこへ孟飛が帰国、“おのれ!無礼なる振る舞い許すまじ!”と立ち上がる。中国武術界で“小拳王”と評判の孟飛が代りに食事の招待を受けた。案の定、倉田らと乱闘になったが、“小拳王”孟飛の前には歯が立たない。必殺の“刀手”を叩き込もうとしたした瞬間、“兄さん、殺してはダメ”という李琳琳の声で我に返った。

 改めて和解の宴が開かれた。そこに胡散臭いものを感じてはいたが、“倉田さんはもう日本に帰るから・・・”という言葉を信じて赴く孟飛。食事の席は和やかに進んでいた。三味線弾きの親父が見事な腕前を披露し、テーブルを回って心づけを受け取る・・・・その時!三味線弾きがナイフを取り出し、孟飛の腹を一刺し!
 『報仇』『馬永貞』を思わせる卑怯な罠だ。ここから映画のトーンは一気に“浪漫暴力路線”に。
 ショウブラのオープンセット(『報仇』で使ったやつ)に次々と現れる、斧やナイフを携えた黒服の男たち。腹を裂かれて鮮血滴らせる孟飛の孤軍奮闘も空しく、嬲り殺しに。

 主役が途中で死ぬという、後に『洪拳小子』でも繰り返される驚愕の展開だが、あまりにも唐突なため成功はしていない。この失敗を踏まえて、伏線とキャラクターをきっちり書き込む“小子片”に繋がっているのだ。

 戸板で帰宅した孟飛。悲しみに沈む李琳琳や劉江は、葬儀の準備を進める。彼らも途方に暮れているが、観客もこれからの展開に途方に暮れた。
 突然、タイの乃南&劉蘭英の兄妹が、孟飛を訪ねて中国へと旅をする決心を固める場面がカットバック。そのために冒頭の退屈なタイ・ロケがあったのか・・・・と、取り敢えずは納得。
 孟飛より教えられた必殺“刀手”を駆使する乃何は、孟飛の墓前で復讐を誓うと、横暴な日本人武術家たちを蹴散らすのだった。

 映画的にはやや中途半端で、冒頭延々と意味も無く(そう思える)続くタイ・ロケの場面が退屈な上、孟飛突然の死も上手く処理されてはいない。
 だが、後に『方世玉/武道大連合 復讐のドラゴン』でもコンビを組む王との初タッグや、後にブルース・リーの手に渡ることになるヌンチャクを初披露するなど、倉田方面から見るとそれなりに見所も多い。
 劉家良・唐佳ラインで集められた絡みのスタントマンたちは、任世官、徐蝦、劉家榮、黄培基、山怪などそれなりの顔ぶれでもあるのも興味深い。

 次回は『四騎士』です。 

『大追踪/大追蹤』 [2004年12月31日(金)]

『大追踪/大追蹤』'74年製作、監督:張美君、主演:唐寶雲、高強ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー主演は台湾文芸女優の唐寶雲だが、倉田保昭の知られざる出演作品である。監督の張美君は朱延平と共に『好小子/カンフーキッド』を撮った台湾のベテラン。 韓英傑との仲間割れから投獄された倉田保昭と仲間の唐威、蔡弘は、死刑執行も迫っていることから、復讐のため脱獄。とある民家に侵入して休んでいたところ、主人の葛香亭が帰宅。人の良い葛香亭は不審に思うことなく彼らをもてなした。続いて帰宅した孫娘の唐寶雲と孫の金廷勲は、彼らの様子に只ならぬものを感じた。子役・金廷勲の出演作はあまり多くは無いのだが、ジミー王羽の『鐵漢』においてジミーの少年時代を演じている。 「犯してやるか?」蔡弘の言葉を耳にした金廷勲は、姉に告げようとするも感づかれてしまう。三人の脱獄囚と民家への立て篭もりといえば、ウイリアム・ワイラー監督、ハンフリー・ボガート主演の名作『必死の逃亡者』を思い起こさせる。事実、冒頭の立て篭もり場面までの雰囲気は良く似ている。もちろん功夫片であるからして、そのまま立て篭もったりはしないのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー暴虐の限りを尽くす脱獄囚、葛香亭を殺し、唐寶雲を犯し、屋敷に火を放って逃亡した。金廷勲は業火の中から姉を救出したが、全てを失って立ち尽くすのみである。 そこへ現れた旅人の高強、事情を聞くと姉弟に協力。倉田たちの足取りを追った。倉田脱獄す!の報は韓英傑にも届いていた。屋敷の警護を固めているところへ倉田到着、韓英傑VS倉田、唐威、蔡弘という珍しいバトルが展開。復讐を果たした倉田たちは、そのまま何処かへと消えた・・・・。 足取りを追っている高強一行だが、途中で手がかりを失ってしまう。悪党の集まる娼館や賭場で聞き込みをし、蔡弘の行方を掴んだ。倉田の件がトラウマとなり、見知らぬ人間を容易には信用しなくなった金廷勲は、高強を出し抜き自ら情報集めに奔走。蔡弘発見を知った金廷勲は唐寶雲と共に前後の見境無く襲い掛かる。騒ぎを大きくしてしまった唐寶雲は、二階から突き落とされて動かなくなった蔡弘を置いて高強に連れられ逃げ出した。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー北京語オンリーで中文字幕もないため、ここのところが良く解からないのだが、何故か倉田の居場所を掴んだ高強は、唐寶雲と共に運送業を営む倉田の所へ乗り込んだ。追い詰められた倉田は金廷勲を人質にトラックで逃亡。金廷勲はトラックからボタンなど目印を落とし、姉に知らせる機転を見せた。 倉田は実業家として成功している唐威を頼り匿われる。金廷勲はそのまま倉庫に放り込んだ。目印を追って工場へとたどり着いた唐寶雲。今度はさすがに高強の言うことを聞いて慎重に行動を開始。実は秘密捜査官だった高強の協力を得て、金廷勲も救出。見事、祖父の仇を討つのだった。 この時期の倉田作品の多くと同じく、男女の二人組(あるいはプラス子供)と悪漢の倉田が闘うパターンだ。『虎姐/女ドラゴン!血闘の館』、『大小通吃/用心棒ドラゴン』などと同じであるが、上官靈鳳&金剛の前者、徐楓&黄元申の後者と比べると、唐寶雲&高強のコンビは些か役不足なのは否めない。製作者側もそう感じたのか、倉田はラストの闘いで手錠で繋がれたままになってしまう。警官隊を総動員してのタコ殴り状態で、恐るべきハンディキャップ・マッチを強いられてしまうのだ。強すぎるのも楽ではない。 

甦れ!ドラゴン世代(5)『虎姐/雙面女殺星/女ドラゴン!血闘の館』 [2004年07月29日(木)]

甦れ!ドラゴン世代(5)『虎姐/雙面女殺星/女ドラゴン!血闘の館』'73年製作、監督:王洪彰、主演:上官靈鳳、金剛、倉田保昭ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日本で初めて本格的に空手をフィーチャーした映画は、波島進や高倉健が主演した東映の『空手打ち』シリーズ(55〜56)だろう。かなり小さな頃に見た記憶なのでハッキリと覚えている訳ではないが、空手といってもお粗末なもので、組み手にもならない擬闘アクションであった。映画自体も、戦前から続く"講道館"モノと呼ばれた柔道映画の系譜を、空手に置き換えただけのものである。『姿三四郎』の例を持ち出すまでもなく、当時の空手は柔道の悪役としてのみで日本映画界に存在を許されていた。立場が逆転するのは力道山が"空手チョップ"で大ブームを巻き起こしたからだ。日本で最初にプロレスの興行が行われたのは'51年のこと。プロ柔道を解散した木村政彦、山口利夫らがハワイでラバーメン樋口のコーチを受けプロレスに転向したのが3月。9月にはボビー・ブランズ、ハロルド坂田(『007ゴールドフィンガー』のオッドジョブ)らが両国で試合を行う。その試合を見ていた力道山、遠藤幸吉らが巡業に参加、その後、本格的にプロレス転向を果たした力道山が、'53年に日本プロレス協会を旗揚げ。力道山と木村が闘った'54年から、Wリーグ戦の開催された'59年までが人気のピークで、東映の『空手打ち』シリーズ(55〜56)は完全にこの影響下にある。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー繰り返すが『龍争虎鬥/燃えよドラゴン』の日本公開は'73/12/22である。実はこれ以前に東映は従来の空手映画の定型を一歩推し進める作品を発表しているのだ。'73/5/24に公開された千葉真一主演の『ボディガード牙』は、アクションとしての空手の可能性を映画的に広げる第一歩だった。千葉真一の述懐では、東映の首脳部は乗り気の企画ではなかった、という事らしいが、同年9/15には苗可秀(ノラ・ミャオ)共演の『東京=ソウル=バンコック実録麻薬地帯』を、10/13には続編の『ボディガード牙 必殺三角飛び』を製作した。日付を見て貰えば一目瞭然であるが、これらの作品はいずれも『燃えよ』以前に登場しているのだ。『燃えよ』の大ヒット後、ブームとなった香港産"空手(功夫)"映画の第一弾として公開されたのはジミーさんの『獨臂拳王/片腕ドラゴン』で、'74/2/8に上映されたのだが、ブームに目を付けた東映はいち早く'74/2/2には『激突!殺人拳』を公開した。香港の功夫片に熱狂した当時の少年が、これらの日本製空手映画をどのように見ていたか?それはもうハッキリと違うものだ、と認識していたのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー何がどう違うのか?当時そこまで認識していた訳ではないが、ブルース・リー以外のB級功夫片を毛嫌いする人たちの中にも、"あれは違うものだ"という人は多かった。(東映の映画としては面白かったのですがね・・・) 現在ではその違いは判っている。当時の日本製空手映画のアクションは、今の日本映画のアクションと比べても決して劣るものではなく、主演した千葉真一の評価はさすがに素晴らしいものである。ただ、当時の少年には漠然として掴めなかった違いは、やはり映画としての見せ方と武術指導の違いにあったと思っている。たとえB級ではあっても、香港映画にはジャンル映画として成立させるノウハウだけは、当時の日本映画より高かったのだ。そんな状況にある功夫少年を一変させる映画が登場した。その映画は冒頭のアクションから少年の心をガッチリと掴んだ。ブサイクだが、中々凄みを感じさせる主人公が、もの凄いジャンプ力で飛び蹴りを放ったその瞬間、劇場がどよめきに包まれたのを今でも覚えている。その映画は『神龍小虎闖江湖/帰って来たドラゴン』、冒頭から観客を魅了した男の名前は梁小龍(ブルース・リャン)であった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーその"凄い"梁小龍扮する"ドラゴン"と互角に闘う男"ブラック・ジャガー"、それが日本人スターの概念を大きく変えた男・倉田保昭だったのだ。「おい、"帰って来たドラゴン"見たか?あの敵役日本人なんだってな」そんな会話がクラスで交わされ、少年達の中で"倉田"の名前は大きくインプットされた。「あの人だけは本物だ・・・」ブルース・リーは別格としても、他の功夫スターの様に出来ない(本当は武術指導の方に問題があるんですが、当時の少年達はそう思ってしまった)日本人スターに幻滅していた少年の目には、本場で互角に渡り合える日本人スターの登場に狂喜したのだ。続いて『方世玉/武道大連合 復讐のドラゴン』が、そして『虎姐/雙面女殺星/女ドラゴン!血闘の館』が登場し、ますます倉田人気は高まっていったのである。凱旋した倉田はTVにも登場、日本語を話している倉田を見て安心する。笑うかもしれないが、当時の子供はみんなそうでしたよ。当然、東映からお呼びがかかり『直撃!地獄拳』や『女必殺拳 危機一発』などにゲスト出演。倉田in東映!この重みは千金に値したのだ。我々が劇場へ突っ走ったことは言うまでもあるまい。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーその後も『香港小教父/無敵のゴッドファーザー ドラゴン世界を征く』、『大小通吃/用心棒ドラゴン』と公開されたが、この『虎姐/雙面女殺星/女ドラゴン!血闘の館』は『神龍小虎闖江湖/帰って来たドラゴン』と並んで、最もストーリーとアクションのバランスがとれている作品で、第一次ドラゴン・ブームに公開された作品の中でも高い評価の付けられる作品だ。子供心にも判り易いストーリーであったというのも大きく、当時の評価は『香港小教父/無敵のゴッドファーザー ドラゴン世界を征く』よりも上であった。'74年という年もあまり明るい世相ではなかった。お隣韓国では朴大統領狙撃事件が起こり、アメリカでは「ウォーターゲート事件」によりニクソンが失脚、インドでは核実験が開始された。「昭和かれすすき」という貧相な歌がヒット、ルパング島では日本兵の生き残りが発見され、恥ずかしながら帰国した。アンチ・ジャイアンツにすら愛されたプロ野球界のスーパースター・長嶋茂雄が引退、日本国民はヒーローを失った。『精武門/ドラゴン怒りの鉄拳』の公開された'74/7/20、ブルース・リーの映画はあと一本しか残っていないという事実に、ブームに沸く少年の目が覚める。こうして急激にブームは収束の方向へと向かい始めるのだが・・・・・。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー次回はジミーの傑作『ドラゴン武芸帖』だ!
| 次へ
trackback Blog by isao.net