旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

「Mako」 [2006年08月07日(月)]

「Mako」

 2006年7月21日、アメリカ・ロサンゼルスにおいてひとりの俳優がこの世を去った。

 男の名は“Mako”。本名は岩松信、だが通称・マコ岩松としての方が有名。日系俳優と紹介されることが多いのだが、兵庫県神戸市に生まれた、れっきとした日本人である。

 アメリカ国籍を取得していたこと、日本の芸能界ではほとんど活躍しなかったことから、日本ではあまりその足跡は知られておらず、死後のニュースでも日系俳優として扱われているのを見るにつけ、この国は“文化”というものを蔑にしていると憤りを感じる。
 いささか個人的な経験ながら、アメリカ政府の施設で働く私は、マコ岩松死去のニュースが流れた日、職場で多くのアメリカ人から「残念だったな・・・いい俳優だったのに」と声をかけられた。その施設で働く日本人従業員のほとんどが、同様に多くのアメリカ人から俳優“Mako”の思い出について話かけられたが、そこで彼のことを知っていた日本人は、私を含めて二人しかいなかった・・・・。

 岩松信は、1933年12月10日に兵庫県神戸市に生まれた。両親は共に画家で、中でも父の八島太郎は著名な絵本作家として知られている。鹿児島県南大隈町出身の八島太郎は、戦前のプロレタリア運動家としての顔を持ち、思想犯として度々投獄された過去を持つ。
 '30年代は急速に軍部の勢力が強まっていく時期だ。文部省内部に「思想問題研究会」が儲けられ、軍部や内閣は、右傾化していく日本に反対する思想の持ち主に容赦はなかった。'37年に日華事変が起こり、翌'38年には国家総動員法が敷かれ、国際連盟を脱退し日独伊三国同盟を成立、日本を国際社会から孤立させた。

 '39年、アメリカが日米通商条約の破棄を通告したその年に、幼い岩松信は祖父に預けられた。思想犯として日本にいられなくなった両親が渡米したためだが、もう数年遅れていたら岩松信自身の人生も大きく変わっていたのではないか?
 日本が真珠湾を攻撃するのは2年後の1941年である。

 戦後、両親を頼って渡米した岩松信は、太平洋戦争後のアメリカで人種差別に苦しみながらも建築家を目指す。ブロードウェイの舞台装置の仕事をしているうちに演劇の世界に魅せられていった岩松信は、朝鮮戦争の勃発と共に徴兵されたものの、この戦争に従軍したことで生まれ故郷・日本の土を踏む機会を得る。この時の従軍経験が、彼にアメリカ国籍の取得をもたらし、以後の彼はアメリカを本土とするのだ。

 除隊後、ウィリアム・ホールデンやジーン・ハックマンも学んだ「パサディナ・プレイハウス」で演技を学び、オフ・ブロードウェイ、ブロードウェイと順調にキャリアを重ねていったが、やはり人種の壁は彼に厚く圧し掛かった。
 '65年、東洋人俳優の認知と、その地位向上のため「東西劇団/East West Players」をロサンゼルスで旗揚げ。その主催者として米国内における東洋人俳優のために仕事の機会を与え、自らも精力的に活動することで差別と闘い続けた。

 '50年代から『戦雲』などで映画界にも進出していたが、岩松信を有名にしたのは'66年の『砲艦サンパブロ』であろう。スティーブ・マックィーン主演のこの映画で、マックィーン演じる機関兵と心を通わせる機関士ポー・ハンを演じた岩松信は絶賛され、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされる。'76年にはブロードウェイで『太平洋序曲』に主演しトニー賞候補にも輝く一方で、TV、映画の話題作に出演。ハリウッド映画の東洋人といえば“Mako”と言われるまでになる。

 ここまでが、あまり知られていない岩松信のちゃんとした経歴だ。

 このHPでは、彼のもうひとつの偉大な足跡にもスポットを当てたい。

 『戦雲』『砲艦サンパブロ』でマックィーンと共演、'67年にはTV「グリーン・ホーネット」の第10話「火を吐く空手/The Praying Mantis」において若き日のブルース・リーと共演。“洪家拳”を使うブルース・リーと、“螳螂拳”で闘うチャイナタウンの大物を演じた(アクション・シーンの一部はダン・イノサントの吹替)。

 『キラーエリート』でサム・ペキンパーの薫陶を受け、リーの死後低迷を続けたアメリカン・マーシャル・アーツ・ムービーの継承に一役買ったのを手始めに、『武士道ブレード』では千葉真一、三船敏郎、ジャッキーのアメリカ進出第一弾『バトルクリーク・プロー/The Big Brawl』、チャック・ノリスのブレイク直前作『香港コネクション』、ブランドン・リーとはTV「カンフー・ファイター」で、マーク・ダカスコスとは『クライング・フリーマン』で共演した。
 更に『コナン・ザ・グレート』とその続編『キング・オブ・デストロイヤー』では、アーノルド・シュワルツェネッガーに付き合い、『パレット・モンク』では周潤發とも共演しているのだ。

 アメリカン・マーシャル・アーツ・ムービー史の主要な場面には必ず岩松信が立ち会ったと言っていいだろう。

 果たして、世界レベルで見渡してもこれだけのアクション・スターと共演した俳優はいるだろうか?

 否!

 これは世界中の俳優の中で、岩松信のみが持つ栄光の足跡なのである!

 ところが、わが国はこの偉大な俳優を無視し続けた。マックィーン、ブルース・リーから、ジャッキー、シュワまで、彼らの話しを聞くだけでも、それは映画史的遺産であるはずなのに、俳優“Mako”をまともに取り上げるマスコミは皆無であったと言ってよい!

 彼は最早この世に無く、俳優“Mako”の生涯と共にその全てが失われてしまった。

 '95年に父の故郷・南大隈町を訪れた岩松信は、画家・八島太郎の遺作展に協力。懐かしい故郷の親戚などと旧交を温める一方で、アメリカでも父の遺作展を開いた。同展開催の式典で、父の作品である絵本「からす太郎」を、人形を使いながら朗読してみせたというし、「道草いっぱい」という作品の翻訳出版も手掛けた。「東西劇団」も支援し続け、今春の記念講演に出演予定だったが、4月から体調を崩し入退院を繰り返していたため出演は適わなかった。

 遺作は『SAYURI』ということになるが、東洋人俳優が大挙として出演したこのハリウッド映画大作も、半世紀に渡る俳優“Mako”の活躍なくしては有り得ないことであっただろう。

 合掌

甦れ!ドラゴン世代(1)「1973年のこと」 [2004年07月08日(木)]

甦れ!ドラゴン世代(1)「1973年のこと」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーージャイアンツがV9を達成した最後の年、ベトナムでは平和協定が調印されたが、日本では第四次中東戦争のあおりを受けオイルショックに。トイレットペーパーを買い占めるスーパーの列がTVで映され、世界の嘲笑をかった。小松左京のベストセラー小説「日本沈没」が映画化され大ヒット、五島勉の「ノストラダムスの大予言」(翌年映画化)と共に、世紀末感を煽りまくっていた。本当の世紀末まで、まだ27年もあるというのに、だ。神田川でチビた石鹸がカタカタ鳴り始めるころ、白いギターを手にした左ききの彼は、コーヒーショップでジョニーへの伝言をささやいた・・・。これが1973年の原風景である。今月の特集は、あの"第一次ドラゴン・ブーム"を体験した私自身の思い出を綴ることで、時代の熱に迫りたいと思います。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日本で最初の香港ブームが起こったのは'55年に公開された一本の映画からであった。それまで観光地としての側面など知られることのなかった英国領の小さな土地は、その香港を舞台にしたラブストーリー『慕情』で一躍海外からの注目を浴びるようになったのである。アカデミー賞主題歌賞を獲得した「Love is a Many Splendoled Thing」も各国で大ヒット。この'55年の公開時点でも古典的な題材だったラブストーリーに憧れた女性は多く、ちょうど私の母親から十歳くらい上までの世代にとって、ジェニファー・ジョーンズのようにビクトリアピークの上から香港の街並みを眺めるのがささやかな憧れとなった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー高度成長期を向かえつつある'60年代の日本では、そろそろ海外旅行というものが庶民の現実的な夢として浮上してくる。もちろん庶民にとってはまだまだ遠い夢の海外なのだが。映画界も合作映画でタイアップして庶民の夢を後押し。当時一番憧れの土地はハワイで、『ハワイの若大将』('63)などはその最たるものである。香港ものも多く作られ、『香港クレージー作戦』('63)や『ならず者』('64)などが作られたが、この時期に最初の本格的な合作が行われているのだ。当時香港の大手映画会社だったキャセイ・オーガニゼーション(國泰機構)と東宝が協力体制を敷き、同社のトップ女優・尤敏と東宝の宝田明を共演させたラブストーリー『香港の夜』('61)『香港の星』('62)『ホノルル・東京・香港』('63)を制作。『慕情』世代の女性観客をガッチリ掴みヒットした。私的な話をさせて貰えれば、私はこの世代の母親に育てられており、物心ついたころから『慕情』、キャセイ、尤敏は三種の神器として親から刷り込まれたのである。恐らく、最も早い時期(3才くらい)に覚えた映画会社と女優の名前が、キャセイと尤敏であったことが現在の私を決定したと言っても過言ではあるまい。(笑)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー'72年「日中国交正常化」がなされ、友好の記しとして中国よりパンダが送られた。上野動物園に到着したパンダ(ランラン、カンカン)は日本中の注目を浴び、中国に向けられた興味はそのまま香港へもスライド。香港シャツ、香港フラワーなどという言葉も日常化した。香港の天才少女歌手・陳美齢(アグネス・チャン)が来日、「ひなげしの花」をたどたどしい日本語で歌いアイドルに。彼女が認知されたことが、後にマルシアやユンソナの育つ土壌を作ったといえる。私が最初に見た香港物は先述の尤敏作品『香港の夜』だが、功夫・武侠片物ということになれば『獨臂刀大戦盲侠/新座頭市 破れ!唐人剣』になる。この映画の公開は'71年で、これは"あの映画"の登場以前だ。当時(今も)私は熱狂的な『座頭市』ファンで、正直に言えば、特別な意識を持ってこの映画を見たわけではない。当時の日本映画では無国籍風のアクション映画の悪役は中国人や朝鮮人であることが多く、藤村有弘や高品格、中丸忠雄らが演じる怪人物と比べても、ジミー王羽の悪役は大差ないものに見えた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー'73年8月、ついに念願の香港に渡った私の母は、帰国後呪文のように香港、香港と繰り返し、私の興味が香港へと向くよう洗脳し続けた。(笑) '73年11月、ワーナー系洋画を上映する映画館で一本の予告編と出会う。華の無い白人と、アフロの黒人に混じって登場する半裸の東洋人。珍妙な武器を振り回し、奇妙な雄たけびをあげる。"なんやコレ?"白黒黄色の空手着を来た男たちが広場で殴り合いを繰り返している・・・・"なんなんやコレは?"もちろん『龍争虎鬥/燃えよドラゴン』だ!この映画登場以前と以後で、決定的に違うことがある。それはアクションとその見せ方だ。『燃えよ』以前の日本には、このような形で格闘アクションを見せるという概念は存在しなかった。武道として空手というものはあったし、東映の波島進や高倉健が主演する"空手物"というジャンルもあった。沢村忠がブームになり『虹を呼ぶ拳』は少年の心を掴んではいた。格闘技の試合が映画のようにならないのはともかくとして、それらの映像で見る擬闘は空手の組み手にもならない取っ組み合いに近いものだったのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『燃えよ』以後は全ての格闘場面がこの映画の影響下にある。それは子供番組でも、映画でも、プライムタイムのドラマでも全てに共通するものだ。'73年以降に物心ついた人や生まれた人は、'70年代後半から'80年代の初めにかけて功夫映画と出会っているだろう。その時初めて見た功夫映画の驚きと、この'73年を体験した人の驚きは、違う種類のものなのだ。'73年以降の人間はどんな形であれ、『燃えよ』の影響下に作られた作品を目にしているはずなのだ。(例外はあるだろうが) それは人によっては『仮面ライダー』などの特撮ヒーローであったりするだろうし、人によってはジーパン刑事に代表されるアクションドラマだろう。これが刷り込まれている世代は功夫映画を受け入れるのも容易だったのではないかと推察される。一方、'73年以前にはこのような映像イメージは存在しておらず、目の前で行われている映像の衝撃を理解するのに、少なからぬ時間を要した。かくいう私がそうであった。幼年の頃から格闘技ファンだった私ですらが、最初に『燃えよドラゴン』の予告に接した時、"なんやコレは?"という単純だが、しかしとてつもない衝撃、それ以外は持ち得なかった。おそらく、日本中の人間がそうであったのではないか?それがあの時の"ドラゴン・ブーム"を生み出した正体ではないかと。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー次回は『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』です。

「七小福とは何であったのか?・2」 [2004年06月07日(月)]

「七小福とは何であったのか?・2」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー于占元主宰の京劇学校「中國戯劇學校」では、特に優秀な子供達を七人選び"七小福"と名乗らせた。サモ、ジャッキー、元彪などがこれに選ばれ、その模様は映画『七小福/七小福 夢に生きた子供達』でも描かれた。彼らの仲間(元奎、元華、元彬等)は後に著名な武術指導家や俳優になり、その技術力の高さが改めて見直された。"七小福"はその学校の花形スターであり、これに選ばれることが名誉なことであったとは、卒業生であるジャッキーらによって証言されている。そしてそれは生徒たちの競争心を向上させ、幼い虚栄心をくすぐるものであった。この"七小福"は常に一定の7人だったのではない。最盛期には200人もの生徒を抱えていた「中國戯劇學校」は優秀な京劇役者が有り余っていたし、旧正月など祝い事の依頼が重なる時などのために2チームいたのだ。当日のアクシデントに対する補欠を含めても、"七小福"は20人以上で編成されていたというのが常識である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれをジャッキーの世代に当てはめてみよう。(彼らは師匠・于占元の一字を貰って"元"を芸名としていた) 元庭(呉明才)、元龍(洪金寶)、元樓(成龍)、元華、元奎、元彪、元寶、元泰、元彬、元武、元徳、元文(孟元文)、元俊、元麟、元南、元七、元小、元福、元新、元發、これで20人だ。このうち舞台に上がるのは男6人に女1というのが普通で、元紅、元香、元甫、元秀(林秀、後の甘家鳳)などが女の子の中から選ばれていた。前回の元奎インタヴューにある「七小福で狄龍に斬りかかった・・・」というのは、この中の7人ということではなかろうか?これならばサモ、ジャッキー抜きでも可能で、元華、元彬、元徳、孟元文はショウブラに在籍していたことがあるし、元彪、元奎、元泰、元武らも一緒に出演した映画ならある。『天涯・名月・刀』『楚留香』『三少爺的劍』などがそれだ。最も彼らの顔はTVサイズの画面からはほとんど判別不能なのだが。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー彼らが映画界に身を投じたのには胡金銓(キン・フー)の影響が大きい。胡金銓が「中國戯劇學校」以外に、林正英らのいた「春秋」、程小東らのいた「東方」を含む三つの京劇学校の理事を務めていたからで、演技とアクロバットの出来る子役達は映画界から重宝がられたのである。この子役時代に彼らが出演した作品はまだまだ解明されていないが、66年の胡鵬作品『兩湖十八[金票]』には洪金寶、成龍、元彪、元華、孟元文、元香が揃って出演しているスチールが近年発見された。(これは彼らのフィルモグラフィにはどこにも載っていない作品である) 胡金銓は彼らを可愛がり、彼らもまた胡金銓を慕った。『大酔侠』に出演したのをきっかけに、胡金銓作品の武術指導を務める韓英傑の助手としてつけられる。韓英傑がハーベストと契約すると、助手の彼らも揃ってハーベスト作品で武師を務めた。同じ京劇出身者の韓英傑とは仕事がし易く、サモらがショウブラよりもハーベスト寄りになったのはそのためである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「中國戯劇學校」を卒業(皆が皆ジャッキーのように契約満了して卒業した訳ではない)した"七小福"らは、それぞれ身の振り方を考える必要があったのだ。映画『七小福』で見るように京劇役者として食っていける時代ではなくなっていた。全員がサモにくっ付いてハーベストで仕事をしていた訳ではないのが面白い。呉明才はハーベストの仕事を少しこなした後、胡金銓に従い台湾へ居を移した。彼は最後まで胡金銓と行動を共にし、遺作となった『畫皮之陰陽法王/ジョイ・ウォンの魔界伝説/ペインテッド・スキン』では製作も務め、胡金銓死去の際には葬儀も取り仕切った。仁義の男である。サモはハーベストの武術指導兼武師として、八面六臂の活躍で同社をショウブラに匹敵する会社にまで押し上げた。学校時代の仲間への面倒見が一番良かったのもサモで、食えない時代の仲間たちに仕事を回し続けたのだ。独立心の強いジャッキーは先輩・林秀の誘いで「大地公司」に夢を賭ける。同じく独立心の強い元奎も行動を共にした。ふたりはその後、呉思遠の下で武術指導家として頭角を現していた袁和平を頼る。ここも食えずにオーストラリアへ帰ったジャッキーは羅維プロで再起し、元奎はそのまま袁和平の下で助手として働いた。(一時期だが袁奎を名乗る)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー元華、元彬、元徳、孟元文はショウブラを訪ねた。当時のショウブラには京劇出身で袁小田の弟子・唐佳が、劉家良と並ぶメインの武術指導家として君臨していたからだ。京劇出身者だから頼ったのではない。于占元の「中國戯劇學校」は優秀な京劇役者を講師として招いており、袁小田はその筆頭講師だったのだ。袁小田が于占元の弟子たちに教える代わりに、于占元は袁和平を引き取って教えていた時期があり、袁家班は"七小福"の先輩にあたるのだ。唐佳の元には袁祥仁、袁順義らがおり、元華たちはここでそれぞれ"袁"を名乗っている。于占元についてアメリカへ渡った元彪は、アメリカで食い詰めて帰港。この一番下の可愛い弟弟子は、サモの洪家班をメインに活動しつつ、ジャッキー、元奎、元華らを満遍なく訪ねて仕事をこなしている。やはり元彪も一時期だが袁彪や袁標を名乗ったことがある。元南、元七、元小、元福、元新、元發、元紅らは一緒にアメリカへ渡り、彼らが于占元から最後の"七小福"を拝命した。彼らの雄姿は、師匠・于占元が主演した『師父出馬』で確認出来る。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー戦国時代、天下分け目といわれた「関ヶ原」の戦い。東軍、西軍のいずれが雌雄を決するかは不明で、武士として家名を残す必要に迫られた大小名の一部は、親子・兄弟で東西に別れ、万が一の事態に備えた。一方が死滅しても一方の側が残るし、負けた側についていて生き残った場合も、勝った側が助けることが出来るからである。真田氏、黒田氏、伊達氏などがそうやって生き残ったのである。"七小福"たちもそうだったのではないだろうか?ショウブラは大手だったが、新興のハーベストは李小龍(ブルース・リー)を擁していたし、巨匠・胡金銓には恩義もあった。それぞれが、ハーベスト、ショウブラ、胡金銓、羅維、呉思遠他、独立プロに散らばることで、どこが勝ち残っても"兄弟"たちの再就職先に困ることはない。自分達の技量には絶対の自信を持っていた彼らだが、京劇以外何も知らない20才そこそこの若者たちが、生き抜くために考えた必死の知恵がこれだったような気がする。事実、それぞれの場所で一流となった"兄弟"たちは、再会して『A計劃/プロジェクトA』『奇謀妙計五福星/五福星』『富貴列車/上海エクスプレス』といった傑作を作った。80年代の香港映画黄金時代は、京劇という家で育った"兄弟"たちの、知恵と経験の賜物なのである。

「七小福とは何であったのか?・1」 [2004年06月06日(日)]

「七小福とは何であったのか?・1」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーとあるインタヴューで元奎は「七小福全員で狄龍に斬りかかった・・・」と答えたという。普通一般に"七小福"といえば、元庭(呉明才)、元龍(洪金寶)、元樓(成龍)、元彪、元奎、元華、元彬とかを想像するか。では彼らが狄龍と闘う映画は存在するのか?これはいくつかの理由から否定されるのだ。まずそこから検証していこう。この場合、一番のネックになるのはサモハンである。71年に旗揚げされたゴールデンハーベストと武師契約を果たしたサモには、以後ショウブラとの接点がない。一方、狄龍のデヴューは69年で、85年にショウブラが映画製作を停止するまで、台湾の系列会社以外の作品には出ていないのだ。サモもショウブラ映画に出ていた時期はある。映画会社の王者がショウブラだった頃、やはりサモもショウブラ作品に出演していた。子役時代はともかく、既に一人前の武術指導家としてそれなりの評価を得ていたサモは、朱元龍名義で武術指導兼武師として、『蕭十一郎』(78年の狄龍作品とは別の71年作品)や『五虎屠龍』などでその姿を確認出来る。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここで注目したいのは、サモはそれなりの役を貰っているという点だ。他の七小福はこの時期顔も確認し兼ねる様な役なのに対し、端役とはいえ顔もアップになるし、役名もセリフもあるのだ。こうなるとサモは目立つ。サモがハーベストと契約するまでの狄龍作品は、『獨臂刀王』から『小殺星』までの六本。私が未見なのは『死角』のみで、これを含むどの映画にもサモが出演したということは確認出来ない。元奎のインタヴューを否定する材料はこれだけではない。この時期の狄龍は張徹と契約をしており、74年までは別の監督の映画には出ていない。唯一の例外は、朋友・姜大衛の監督作品に出演したことと、会社命令で合作映画『奪命刺客/暗殺指令シャター』に出向したこと、自分の監督デヴュー『電車單』に出演したことのみだ。狄龍が張徹作品に出ていると何故サモ出演の可能性が狭まるのか?それは武術指導が劉家良だからだ。劉家良本人がハッキリと答えているが、89年の『群龍戯鳳/ペディ・キャブ・ドライバー/帰って来たデブゴン昇龍拳』まで、ふたりは一緒に仕事をしたことは無い!と。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー未見の『死角』をこの目で確認していない以上、100%のことは言えないが、サモが狄龍作品に出ている可能性は限りなく低い。(狄龍監督の75年作品『後生』にノンクレジットでカメオ出演しているが狄龍との絡みはない)サモだけではなくジャッキーもその可能性は著しく低いと言わざるを得ない。当HPでは端役時代の知られざるジャッキー映画を多く発掘してきたが、独立志向の強いジャッキーは他の"七小福"仲間のようにサモに頼る様な事もなく、大手ショウブラの作品にもほとんど出演していない。ショウブラには『梁山伯興祝英台』『大酔侠』『香港過客』『四王一后』『金瓶雙艶/金瓶梅』『北地[月因]脂』など数本にしか出演していないのだ。彼が端役時代に出演した作品はほとんどが独立プロ作品であった。第一、当の元奎からしてショウブラ作品にはあまり出演していないのだ。彼もまたジャッキーと同じく独立志向が強かったのである。では元奎は嘘を言っているのか?これはそうは思わない。元奎の言っている"七小福"が、先に挙げた面子と異なれば良いだけのことだ。そこで改めて"七小福"を定義つけたいと思う。(続く)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<追加情報>サモが『後生』に出ているという情報は「亞洲影帝 姜大衛☆陽中帯陰」管理人DHSさんより。同映画の武術指導:陳全との付き合いから出演したと思われるが、ハーベストとの契約以降は異例の出演である。

「劉玉玲」 [2003年10月01日(水)]

「劉玉玲」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー劉玉玲って誰や?!そんなこと言わないで下さいよ、ルーシー・リュウでございます。しかしまあなんですなぁ・・・日本ではルーシーさんは人気がありませんやね。日本でルーシーのファンというのはTV『アリーMYラブ』から入った人がほとんどで、それ以外だと『チャーリーズ・エンジェル』とかのハリウッド映画から、ということになります。んで、こーいう人たちはそもそも香港映画は見ないんですよね。(全部じゃないんだろうけど、さ) そこへ持ってきて従来の香港映画ファンからの人気というものは一切無いに等しいんであります。人気が無いだけならまだいいです。香港映画系のHPに載るルーシー・バッシングといったらそりゃー酷いもので、ブサイク、イタチ、ヒラメ等々の罵りから、「あぁー、こいつさえエンジェルに出てなかったらな」系の嘆き節まで・・・・。おい、おまいらちょっと待て!状態なのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーールーシー・リュウ(劉玉玲)は、1968年アメリカ・ニューヨークで生まれた。技師の父と科学者である母は、恐らく文革を逃れてきたものだろう。インテリの両親の移民の娘として、アメリカに生まれ、アメリカで育ったルーシー、中国人街よりもイタリア人街の近くに住んでいたためか、中国語は全く話せなかった。思春期を向える頃の彼女は、自分の持つ中国人としての容貌にコンプレックスを抱いていたという。しかしそのコンプレックスも、自分のルーツと向き合うことで克服、現在では中国人としての自分を大切にしている。大学時代に中国語も修得、ネイティブと変わらない発音を身に付けるまでに至った。乗馬やダンスなどが趣味だったルーシーはダンサー志望であったが、ダンサーとしては目が出なかった。いくつかのオーディションを受けていく中に『アリーMYラブ』があった。当初彼女はレギュラーメンバーとしてのネル役を受けたのだが、ネル役は逃したものの、彼女の演技に惚れ込んだプロデューサーは、番組の設定を変えてまで彼女の役柄を用意した。この時期はまだ本名のルーシー・アレクシス・リュウで活動していたが、現在はミドルネームのアレクシスを削っている。『ペイバック』での怪演で映画界でもブレイクした後は、ハリウッドNo.1のアジア人女優に駆け上がったのはご存知の通りであります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーところで、みなさん何で彼女が『シャンハイ・ヌーン』でジャッキーの相手役に選ばれたかご存知?英語の出来るハリウッドの東洋人だったから、それもありますけどね。ジャッキーは共演者の条件に「アクションの出来る女優であること」というのを入れていたんですよ。その割にはルーシーのアクションは少なかったじゃんか!・・・・そりゃーね、楊紫瓊が目立ちすぎるから切れって怒っちゃう"オレが主義"の大哥ですから、仕方ない部分もあります。重要なのは彼女がアクション・スターとしてキャスティングされた点にあるんですな。しからば彼女はアクション・スターなのか?話は10年前に遡ります。ダンサーを志していたルーシーは、食べるためにエアロビの講師なんかもしていたんですが、ダンサーとしての動きをよりシャープにするため格闘技を習うことを思いつく。(映画のために始めたんじゃないんですな) そこで彼女が門を叩いたのが「イノサント・アカデミー」だったのです。ダン・イノサント・・・・ブルース・リーの生涯の親友にして忠実な門弟でもあった男。そして振藩功夫とJKDを今に伝える伝説の男。ここでフィリピン棒術・カリを修得したルーシー、正真正銘、本物の"女ドラゴン"だったのです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイノサントを師父と仰ぐ彼女は、現在に至るも「イノサント・アカデミー」での修行を続けており、イノサント門下のロベルタ・ブラウンを専属トレーナーにつけて撮影現場に臨んでいるのだ。こうなれば『チャーリーズ・エンジェル』シリーズへの出演も必然であったことが分かるだろう。アントニオ・バンデラスを追い詰める『バリスティック』での雙鞭の舞を見よ!共演の千葉真一も絶賛した『Kill Bill』の立ち回りを見よ!そして『グリーン・ホーネット』以前にブルース・リー主演で話が進んでいた企画『ナンバー・ワンの息子』を、現在蘇らせる話がルーシー主演で進められているのだ。(ルーシー主演ですから"孫娘"ということらしいですが) ルーシー・リュウの本領発揮はまだまだこれからだっ。彼女もまた"ドラゴンの末裔"のひとりなのである。刮目せよ!

協利電影特集(1)「協利電影とは?」 [2003年07月05日(土)]

協利電影特集(1)「協利電影とは?」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今回はこの会社の作品を特集で取り上げるが、実際の作品紹介は二回目以降にして、まずは「協利電影とは?」を追求してみたいと思います。功夫映画ファンにとって信頼を寄せる映画会社のブランドは、まずショウブラ、続いてハーベストだろうが、他に思遠影業、恒生、宏華、第一、そして協利電影といったところが当たりハズレの少ない会社として挙げられるか。中でも協利電影は、功夫・武侠片史の大きな歴史の中には位置付けされないながらも良質な作品を多く残していてる。この場合の"良質"という意味は、アクションはもちろんのことながら、ストーリー展開にも気を配っている、ということだ。大きくない会社の低予算作品でありながら、常にストーリーありきで功夫片を製作していたのは、当時の香港映画界では珍しい存在だ。TV界から転進した周潤發(チョウ・ユンファ)が、映画スターとして最初に契約した映画会社がこの「協利電影」だったのも頷けることだろう。(契約内容は4年で12作の予定だったが、実際は2年で6作しか遂行されていない)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー'60年代の後半に海外映画の配給等を受け持つ会社としてスタート、呉協建によって製作部門が立ち上げられ'71年『色字頭上一把刀』が第一作として製作される。以後、'83年まで158本の映画を製作・配給し、現在は「協利集団」という会社名で映画の分野に関っている。'83年で映画製作は停止したが、その間同社が自社製作した作品は57本といわれているが、一部のリストには載っていない作品も発見したので、実際には60本はあると思われる。そのうち功夫・武侠片として製作されたのは21本、過去にこのHPで紹介したことのある作品の内、『龍家将』『鷹爪鬼手/拝借師父叩錯頭』『盲拳、怪招、神經刀』も「協利電影」作品である。この三作品を見てもわかるが、特訓復讐という流れだけでも一本出来てしまう功夫片というジャンルで、従来の定型をちょっとでも捻ることで映画に深みを加え、商品ではない作品としての功夫片を製作している点が特筆されるだろう。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー実際のところこの「協利電影」作品は一本も日本では公開されていないのだが、古くから未公開映画ファンには高い評価を受けていた。ストーリー的に練れていることもあるが、やはり功夫片の命はアクションだ。とりわけ'70年代の後半からは張午郎、高飛、唐偉成という面子を揃え、地味ながらも実力者集団の彼らによってマニアをも唸らせるアクションを構築した。スタッフ的には潰れたキャセイ・オーガニゼーション(國泰機構)の人材を多く受け入れており、台湾に本拠のある名ばかりの香港映画に対する、純香港ローカルの映画会社として名を馳せた。ハーベストやシネマシティなどの大躍進によって'80年代の初めに香港映画界は戦後第二の(そして最後の)黄金時代を向かえる。その時代の波と入れ替わるようにして「協利電影」は映画製作を停止、『鷹爪鬼手/拝借師父叩錯頭』が最後の作品であった。次へ

「アメリカン・マーシャルアーツ・ムービー史・9」 [2003年05月31日(土)]

「アメリカン・マーシャルアーツ・ムービー史・9」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー['90年代]『リーサル・ウエポン』はマーシャルアーツ・ムービー史だけでなく、現実の格闘技界にも影響を与えている。この映画の武術指導が"グレイシー柔術"であったことは、'93年11月21日に開催された「第一回アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(以下UFC)」で彼らが世界的に有名になってから改めて注目された。この"グレイシー柔術"をブラジルからアメリカへと引っ張ってきたのが、誰あろうチャック・ノリスなのである。ノリスの手引きによってロスに居を構え、同時に芸能界に食い込んだグレイシーは、ブルース・リーと同じように芸能人への個人教授で名を売った。その後「UFC」を開催、これにより世界に広まった"ヴァーリトゥード"という競技は、ルールを整備されて現在の総合格闘技に姿を変え定着した。格闘技界が、"ブルース・リー⇒チャック・ノリス⇒グレイシー柔術⇒総合格闘技"という流れで『燃えよドラゴン』の世界をこの世に誕生させてしまったように、マーシャルアーツ・ムービーも、"ドラゴン・ブーム⇒ノリスの奮闘⇒『リーサル・ウエポン』によるメジャー化⇒1億総香港状態"へと展開したのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『リーサル・ウエポン』の登場した'87年頃と言えば、香港映画にとっても全盛期であり、その面白さは映画人の口コミや輸入ビデオ、やがて訪れるインターネットの普及によって世界に広まっていった時期でもある。映画ファンにとって国境は無くなりつつあった、日本と共産圏の国以外は。香港映画界から最初にハリウッド入りした呉字森(ジョン・ウー)の映画もそうやって注目を受けていたのだ。'90年代ともなるとアメリカ・アクション映画の世界は、銃撃戦はウー・タッチ、闘いは功夫というのが当たり前になってくる。ジャン=クロード・ヴァン・ダムという男はこの点で最も敏感であったといえる。自分の映画を支持する層と、ビデオで香港映画を見ている層は被っていることを認識していたに違いない。呉字森に続いて次々と海を渡ってくる香港の監督たちに自作を監督させることで、ファンが食い合いすることを巧みに回避していた。この保身の技は見事であったが、『レッドブロンクス』の全米大ヒットによりジャッキーが、『リーサル・ウエポン4』でジェット・リーが登場するに及び、ラングレン、セガール共にマーシャルアーツ・ムービーのスターの地位を香港勢に譲り渡してしまうことになった。(アメリカ人俳優で唯一独自の路線を築き生き残ったのは、現代のブラック・ドラゴン、ウエズリー・スナイプスだけ)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[そして現在へ]格闘技界も含め、ブルース・リーの悲願が形を変えて実現したと見ることも出来るが、香港映画ファンは今の現状を喜んでばかりはいられないのだ。ハリウッドというところはアメリカそのものの縮図だ。世界中どこへでも出かけアメリカ式を押し付ける、意に染まないとあらば攻撃して屈服させる。ハリウッド映画がヒットしている地域(日本のように)はいいが、他国で才能ある人間がハリウッド映画の利益を損なう様な活躍をしている場合、旨い餌をちらつかせてその映画人はハリウッドに取り込んでしまうのだ。他国で活躍されるよりは自国で潰れてくれる方が都合が良く、成功したところでハリウッド映画を撮っている場合は利益は損なわれない。これがハリウッドの真実だ。フリッツ・ラングが、アルフレッド・ヒッチコックが、近年でもヴォルフガング・ペーターゼンなど、多くの人材がハリウッドに取り込まれた。向こうがそう考えているならそれはそれでもいい、一面で成功しさえしていればチャンスをくれ続けるところがハリウッドでもあるのだから。今は"我が世の春"、というやつだ。香港映画人の命運は非常に危ういものであるかもしれないが、要は天下を取ればいいのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『マトリックス』を皮切りに、『チャーリーズエンジェル』『ヤングブラッド』、『ブレイド』『X-MEN』『デアデビル』のアメコミもの、『ハムナプトラ』『クィーン・オブ・ザ・ヴァンパイア』・・・・etc、マーシャルアーツ・ムービーというカテゴリーではなくてもこうである。紆余曲折はあったにせよ、ブルース・リーが志半ばにして倒れた後を見事に引き継いだではないか。香港映画は実質上'97年で終了したが、アメリカン・マーシャルアーツ・ムービーの歴史はまだ始まったばかりなのである。(The End)特集トップへ

「アメリカン・マーシャルアーツ・ムービー史・8」 [2003年05月30日(金)]

「アメリカン・マーシャルアーツ・ムービー史・8」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー['80年代・4]'80年代最大の出来事は『リーサル・ウエポン』('87)という映画の登場だ。マーシャルアーツ三羽烏(ジャン=クロード・ヴァン・ダム、スティーブン・セガール、ドルフ・ラングレン)は?という向きもあるだろうが、彼らはマーシャルアーツ・ムービーの発展に寄与こそしたが、彼ら自身が歴史を動かしたことは一度もないのだ。チャック・ノリスが孤軍奮闘をした'70年代、ノリスは苦労の果てにスターダムに上りマーシャルアーツ・ムービーの地位を向上させた。後発のヴァン・ダムらは、ただノリスの引いた道を歩んだに過ぎず、彼らの映画もノリス作品の拡大再生産でしかなかった。これは批判ではない。ノリスの打ちたてたマーシャルアーツ・ムービーの地位も、引き継ぐものがいなくては現在に繋がらないのだから。ただ彼らの役割りが"中継ぎエース"だった、というだけだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー映画の誕生以来、娯楽アクションの王様だった西部劇の衣鉢を引き継いだのは刑事アクションである。その転機はドラゴン・ブームの訪れる少し前の'71年、クリント・イーストウッドの『ダーティ・ハリー』によってもたらされた。現在に至る刑事アクションの礎を築いたのは、この『ダーティ・ハリー』と、『フレンチ・コネクション』('71)、『ブリット』('68)、『夜の大捜査線』('67)の四本だ。この四本を以ってして"近代刑事アクションの夜明け"と呼ぶ。これ以前の刑事モノといえば、どちらかというと地味な犯罪捜査ものが基本であった。厳密には『夜の大捜査線』はアクション映画ではないし、『ブリット』もアクション場面を除けば旧来の作品に近い。だが、『夜の大捜査線』は異人種間でコンビを組んだ刑事が偏見を乗り越えて事件を解決するという"バディ"ものの元祖として、『ブリット』はそのカーチェイス・シーンで後の映画に多大な影響を与えたのだ。『フレンチ・コネクション』は地道な捜査模様をドキュメント・タッチで描くという演出方法で影響を与えているが、主人公の設定やアクション・シーンは既に『ハリー』を含む三作品から影響を受けているのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーアメリカ・アクション映画史上に革命をもたらした『ダーティ・ハリー』は、その反体制的な主人公の性格設定に西部劇の後継者としての姿を見ることが出来る。主人公の持つ銃器へのこだわりは、それがその主人公の性格をも表す描写として機能し、一斉に世界中の後発作品によって模倣された。『リーサル・ウエポン』という映画は、成長、成熟を重ねてきた刑事アクションの集大成的作品として'80年代後半に登場した。何故この映画の登場がそれほどの重大事であるのか?それは、長らく西部劇の代価アクションとして成立していた伝統を破壊したからに他ならない。メル・ギブソン扮する主人公は、ありとあらゆる重火器の取り扱いや格闘術にたけた究極兵器(リーサル・ウエポン)と渾名される男だ。これまでの刑事アクションであるなら最後の敵は銃で倒しただろうし、よしんば素手であったとしてもアイルランド型で闘ったはずだ。ところがこの映画は、メル・ギブソンとゲーリー・ビジーがマーシャルアーツ・スタイルで闘うのだ。マーシャルアーツであることが重要なのではない、空手を使う刑事モノというのは既にチャック・ノリス映画にも見られるものである。重要なのはメジャーの製作した作品で、マーシャルアーツ・スターではない俳優によって演じられたという点だ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれ以後、西部劇以来の伝統であるアイルランド型は駆逐され、アクション映画のファイト・スタイルが急激に香港化されていくのである。『リーサル・ウエポン』と並ぶ刑事アクションのヒット作『ダイハード』('89)でも、ブルース・ウィリスがアレクサンダー・ゴドノフとマーシャルアーツで死闘を展開、ブルース・ウィリスは続編でもウイリアム・サドラーと飛行機の上で闘っている。マーシャルアーツ映画以外で、当たり前の様にマーシャルアーツが使われ始めたという現実、『リーサル・ウエポン』の公開された'87こそ歴史の転換点であった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー多分?次で最後だ。

「アメリカン・マーシャルアーツ・ムービー史・7」 [2003年05月29日(木)]

「アメリカン・マーシャルアーツ・ムービー史・7」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー['80年代・3]全米が『将軍』(ジェームス・クラベルの小説を元にしたTVドラマ)ブームに沸く80年代初頭、日本を題材にしたふたつの小説がベストセラーとなっていた。ひとつはトレバニアンの「シブミ」で、もうひとつはエリック・バン・ラストベーダの「ザ・ニンジャ」であった。宮本武蔵の「五輪書」ですら売れてしまうほど高まった日本への関心は、ハリウッドにこのふたつの小説の映画化へと向かわせるには十分であった。20世紀FOXは「ザ・ニンジャ」の映画化権を獲得するや、監督のアービン・カーシュナーらに日本でのロケハンを敢行させた。「ザ・ニンジャ」の映画化は諸般の事情により中止となったが、それに便乗して企画されたのがキャノン・フィルムの『燃えよNINJA』('81)であったのだ。この企画をそもそも持ち込んだのはマイク・ストーンである。(「シブミ」の方も何度も企画は上がりながらその都度ポシャっている。近年ではスティーブン・セガールが念願の企画として一度発表された。)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーブルース・リーと親交もあった全米屈指の空手家のひとりであるストーンは、アメリカ映画の武術指導や著名人(エルビス・プレスリーへの指導が有名か、彼の妻を寝取ったことも含めて)への空手指導などをしていた。ストーンは折からの日本ブームに目をつけ、自分の主演映画としてこの企画を売り込んだのだったが、キャノン側はマイク・ストーンの容姿と演技力を問題にし、主演をフランコ・ネロに変更。企画を乗っ取られたストーンだったが、ネロのスタントと映画の武術指導は彼が担当した。我々日本人の目から見るととんでもないことこの上ない"ニンジャ"映画だったが、アメリカ人には新鮮だったらしく次々とニンジャ映画が作られていくのである。この映画は思わぬヒットをもたらした。日本への関心が高まっていた(この頃は自動車輸出など貿易・ビジネスの分野でも注目されていた)こと、小説の影響などもあったろうが、ヒットの要因は単純にいっても"ニンジャ"そのものの魅力であったのは間違いない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー"ニンジャ"映画はひとりの日本人に幸運をもたらす。'69年、大学進学に失敗した小杉正一は貿易商を目指して単身渡米、アルバイト感覚で始めた空手のインストラクターはやがて本業となった。空前のブルース・リー・ブームに刺激を受けた小杉は、映画俳優を目指すようになるが、小杉が映画界入りを決意したころにはブームは既に下火となっていたのである。端役などで食いつないでいた小杉を"ニンジャ"映画に誘ったのもマイク・ストーンだ。小杉がまだ空手の大会などに出場していたころからの繋がりで、ニンジャのスタントとして雇われたのだが、肝心のストーンはひどい演技を披露して降ろされてしまう。キャノン・フィルムのメナヘム・ゴーランは小杉のアクションを気に入り脚本を大幅に変更、フランコ・ネロの相手役として大抜擢をした。この時の実績が認められた小杉は、キャノンが次々と製作した"ニンジャ"映画の主役へと踊り出るのであった。"正一"という名前は欧米人には発音しにくいというアドバイスに従い、"正一"改め"ショー"となった小杉は、日本人初の100万ドル・スター、ショー・コスギとしてその名を高めた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー"ニンジャ"映画の実態は形を変えた功夫映画に他ならないのだが、主役はあくまで"ニンジャ"であった。その証拠に、コスギが"ニンジャ"映画以外のアクションものに出演し始めると求心力を失ったのに対し、マイケル・ダディコフの白人"ニンジャ"は"ニンジャ"の格好をしてさえいればヒットした。(『アメリカン忍者』シリーズ) ショー・コスギの人気のピークは、お茶の間に"ニンジャ"映画を持ち込んだ'84年のTVシリーズ『忍者ジョン&マックス』(ビデオ題『ザ・ニンジャ・マスター』)ころまでであったろう。三大ネットワークのひとつNBCによって放送されたこのシリーズは、ワン・クールしか放送されなかったとはいえ、時代のあだ花的"ニンジャ"映画にとっても、ショー・コスギにとっても快挙であったといえる。"ニンジャ"映画ブームはそのうち収束の方向に向かうが、その間に無数の作品を世界中で生んだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー香港映画界が最もこの現象に反応したことは有名だ。羅鋭(アレクサンダー・ルー)らの"ニンジャ"スターを数多く生んだが、鄒文懐(レイモンド・チョウ)が製作に関った『ミュータント・タートルズ』('91)がその白眉であろう。この映画、原題は『Teenage Mutant Ninja Turtles』というれっきとした"ニンジャ"映画の一本なのだ。もとはコミックのヒーロー(原作はケビン・イーストマンとピーター・レアド)だったこの亀たちが誕生したのは、まさに"ニンジャ"映画ブーム真っ只中の'83年のこと。当時のブームがいかにアメリカ人社会に浸透していたかがこの事象からでも伺える。'88年にはTVアニメとなり、映画化作品も大ヒット、後にシリーズ化もなされている。ところでこの映画、着ぐるみ亀のスタントを手がけたのは袁家班だったのですが、当時はあまり話題になりませんでしたな。(メインの武術指導は『ベストキッド』などを手がけたパット・E・ジョンソン)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今月中に終わるのか?!不安いっぱいでもまだ続くのだ!

「アメリカン・マーシャルアーツ・ムービー史・6」 [2003年05月27日(火)]

「アメリカン・マーシャルアーツ・ムービー史・6」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[80年代・2]シルベスター・スタローンは売れない俳優だった。『ロッキー』('76)以前のことではない、少なくとも'84年ころまでは『ロッキー』シリーズ以外の作品はさっぱり売れなかったのである。『ロッキー』がスタローンの代表作で、名実共に彼をスターダムに押し上げた作品であることは事実であるが、'80年代までのスタローンにはアクションスターとして生きるよりも、まだまだ役者として認められたいという意識の方がはるかに強かった。組合活動に邁進するリーダーを描いたノーマン・ジュイソンの社会派ドラマ『フィスト』('78)、賭けプロレスに生きる下町のチンピラを演じた『パラダイス・アレイ』('78)、決して悪い映画ではないが、観客は誰もそんなものを望んではいなかった。せっぱ詰まったスタローンは『ロッキー2』('78)を撮り、その後は序々にアクション系に活動をシフトしていくが、それでもさっぱり売れなかったのである。今では『ロッキー』と並んでスタローンのもう一方の代名詞である『ランボー』('82)ですらが最初はヒットしなかったなんて、当時のことを知らない人には信じられないのではなかろうか。(この作品は日本での興行は健闘し、それにあやかったスタローンは二作目の公開時『First Blood』だった原題をアメリカでも『Rambo』に統一した)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーースタローンは別にマーシャルアーツ・ムービーのスターではない。だが『ロッキー』シリーズで彼が演じてみせた、スターが生身の体でアクションをするという事実が肉体派アクションの全盛を促し、今日のマーシャルアーツ・ブームの下地を作ったとはいえる。それに、スタローンはハリウッド俳優の中では最も早くジャッキー・チェンに注目したことを公言した人物である。『ランボー2』('85)製作時には早くもジャッキーに出演依頼を打診、ジャッキーの出演は流れたがその後も『同3』製作時にも出演を依頼した。『デッドフォール』('89)では『警察故事/ポリスストーリー』('85)のスタントをパクってみせたし、『デモリッションマン』('93)では、劇中、未来警官のサンドラ・ブロックにジャッキーの名前を言わせている。これはいずれも『紅蕃區/レッド・ブロンクス』('95)でジャッキーが全米ブレイクする以前の出来事だ。スタローンの例を見るまでもなく、'80年代に入るとハリウッド映画には有形無形に関らず香港映画の影響がダイレクトに見え始めてくる。ジョージ・ルーカスは認めないだろうが、『SW/帝国の逆襲』('80)におけるヨーダとルークの関係など、ヨーダの風貌も含めてまるで蘇化子と黄飛鴻であったし、少年空手版ロッキーといわれた『ベスト・キッド』('84)など老師匠の特訓風景からいっても、これが『アメリカンモンキー鶴拳』というタイトルで公開されていても違和感のないものだった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれは一体どうしたことだったのだろうか?理由はもちろん、ある。'80年代はビデオ時代の到来でもあった、日本で本格的に普及するのは'84年以降のことだが、欧米では'70年代の終わりころには既にビデオ時代が訪れていた。私も含めてですが、熱心なファンは'79年ころには海外ビデオに未公開映画の活路を求めていたものです、当然のことながら欧米ではもっと盛んであったろう。もうひとつは国際ファンタスティック映画祭の存在である。アボリアッツやパリでのそれが有名だが、お堅い映画しか取り上げてもらえない他の映画祭とは違い、カンヌやオスカーでは日の当たらないホラー、SF、サスペンスなどの分野に光を当てたのがファンタスティック映画祭である。'72年、第一回のアボリアッツでスティーブン・スピルバーグがグランプリを受賞(『激突!』)、このことからファンタスティック映画祭では若い未知の人材の発掘という側面も生まれた。ブライアン・デパルマ、トビー・フーパーが、デビット・リンチ、ジェームス・キャメロン、サム・ライミといった人材の多くがここから脚光を浴びた。そしてこの手の映画祭の特徴は、人的交流と情報交換の場でもあったことだ。'79年、'80年と連続して批評家賞を受賞(『ハロウィン』『ザ・フォッグ』)したジョン・カーペンターも、そんな仲間のひとりだった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー'84年、パリ国際ファンタにおいて『蜀山・新蜀山劍侠/蜀山奇傳 天空の剣』という映画が特撮賞を受賞した。'80年代に入って急速に力をつけてきた香港映画を象徴する出来事だったが、この作品に注目したのが前述のジョン・カーペンターであった。『蜀山』に影響を受けたカーペンターは自分でも同様の作品を製作する企画を立て、'86年に発表したのが『ゴーストハンターズ』である。香港映画ファンには黄家達(カーター・ワン)が出演した作品として知られているが、『蜀山』無くしてはこの作品は生まれなかったのである。製作にあたってカーペンターは『蜀山』を作ったゴールデン・ハーベストに連絡を取り、『蜀山』の武術指導を担当した人間を派遣するよう要請している。連絡を受けた鄒文懐(レイモンド・チョウ)は、この話を元彪に持ちかけたのだが、ジョン・カーペンターが何者か知らなかった元彪は(香港での仕事を優先したにせよ)これを断っている。実現していればデニス・ダンが演じたパートも元彪のものだったかもしれないというのに、何とも勿体ない話である。結果、黄家達以外はアメリカで活躍している中国系俳優ばかりになってしまったが、この『ゴーストハンターズ』こそ『マトリックス』以前に香港映画と融合した最初のアメリカ映画だったのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー当然つづくのだ。
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