旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

李小龍童年往時(七)『甜姐兒』 [2004年01月31日(土)]

李小龍童年往時(七)『甜姐兒』'57年製作、監督:呉回、主演:張瑛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー少年・李小龍ばグレていた。有名な話である。小学生くらいで既にグレていたというが、その理由は様々であろう。役者として早くから父に期待されていたため、兄弟姉妹の中でも特にチヤホヤされていたというし、映画にも出演していて一端のスター気取りでもあったろう。学業が追いつかず、グレ始めたため映画出演を制限されたりもしたが、一向に収まる気配はなかったという。彼の家は国共内戦を逃れて大陸からやって来た親戚も同居しており、常に大勢が一緒に暮らしていた。親類だけではない。粤劇の名優である父・李海泉には、住み込みの弟子も大勢いたため、李家は常に三十人以上が同居していたという。ちょっとした難民キャンプの様相でもあり、そんな中で育った李小龍少年は、チヤホヤもされる反面、親の目が完全には行き届かない環境にもあった。当初、九龍城に住んでいた李家だが、大人数になったため、彌敦道(ネイザン・ロード)二一八番地の油麻地にある粤劇の劇場近くに引っ越した。これにより旺角などの盛り場が近くなったことなども関係しているという。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー本当のところは誰にもわからない。思春期を向えた少年の心中など、実際のところは本人であっても不明であろう。ひとつ李小龍の生まれた頃まで遡ってみたい。直接的でないにせよ、相対的には"時代"が彼の"人生"を反映しているだろうから。なお李小龍生誕までについては04/1/14日記参照のこと。アメリカで生まれた李小龍は家族と共に帰港した、1941年3月のことであった。同年12月、香港は日本軍に占領される。この占領は戦争終結までの間3年8ヶ月続いた。つまり、少年・李小龍は4才と9ヶ月になるまで、日本軍占領下の香港を目の当たりにしていた、ということになる。占領軍による非道、経済・食糧難は勿論、戦闘や爆撃にもさらされた。同胞である中国人同士の争いも醜いものであった。占領軍に媚を売り、甘い汁を吸う連中がいる反面、せっかく大陸から逃れて来たのに、日本軍が内地の人口を調整するために強制的に送り返らされた人たちもいた。これらの事柄が、少年の目にどう映っていたか?『精武門/ドラゴン怒りの鉄拳』で彼が見せた日本軍への怒りは、少年時代に日の丸に向って振り上げた拳と同じでは無かったとは言い切れない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー第二次世界大戦は終わり、英国領に戻った香港だったが、平穏は訪れなかった。中国本土では対日本軍で協力し合っていた国民党と共産党は、再び覇権を巡って争い始めたのである。1946年に始まった第三次国共内戦は、共産党支配を嫌った上海映画人の、香港への大量流入という事態を生む。大量の難民も訪れ、製作、観客の両面で北京語映画の需要と供給が増大、広東語映画を脅かすという副次的要素が、粤劇の名優・李海泉を映画界へ参入させた。(結果的に李小龍も) 46年という年数は世界的にも意味のある年だ。戦後、西側諸国はヒステリックに共産主義への警戒を強めていったのだが、世に有名な「赤狩り」がアメリカの上院で開始されたのも46年のことである。アメリカの「赤狩り」は54年まで続くが、東西冷戦構造を国民の意識に植え付けるには十分な時間であったといえる。英国領香港は、国境線のこちらで大陸中国の動向を固唾を飲んで見守っていた。49年、内戦に勝利した共産党は社会主義国家「中華人民共和国」を建国。西側諸国の代表として、資本主義のモデルケースとして生きる道を宿命つけられた香港には、国境の向こうに翻る赤い旗は破滅への契約書にも見えたことであろう。当時の香港人民の恐怖は計り知れないものであったのだ。実にこの時、李小龍少年は9才のことである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー51年、国連は対中国への貿易を禁止。その反面で、香港は世界有数の貿易港として発展を遂げる。これも西側の思惑で東側国へのけん制として行われた措置だ。50〜53年には動乱により朝鮮半島が分断。東西の対立はこの後もベトナム、キューバ危機と世界を揺さぶり続ける。李小龍もそろそろティーンエイジャーになるわけだが、このティーンエイジャーというのは、実は戦後の産物なのだ。第二次大戦後というのは、世界的にそれなりの平和を手に入れた時代でもあった。(たとえそれが東西対立による緊張緩和であったとしても) 第二次大戦前の世界は、世界中どこかしらで戦争をしていたというのが人類の歴史なのである。若者の就学率は低く、早くに世間に出て、結婚・出産も若年齢であるため、子供から大人への段階は随分と短かった。よってティーンなどというジェネレーションが現出する余地は無かったのだが、平和の訪れと共に人々の社会生活も変化、就学率の増加は大人でも子供でもない「学生」という層を形成するに到った。これがティーンエイジャーである。世界で初めて生まれたティーンエイジャーという層は、"大人は判ってくれない"とばかりに、いわゆる"理由なき反抗"を繰り返した。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍少年の生まれ育った香港は、正に動乱の時代の香港であり、その後に訪れたティーン文化の洗礼をモロに通過して彼は大人になっていった。グレても仕方が無い、とは言わない。その時代に育った人間全員がグレていた訳ではないのだから。しかし、彼個人の家庭環境を加味しても、グレる要素だけは十二分にあったことも間違いではなかろう。映画『甜姐兒』は、不良少年真っ盛りの李小龍17才の作品だ。お馴染み張瑛の主演作で、粤劇の名優にして広東語映画のみならず、香港映画を代表する喜劇俳優である梁醒波が共演するコメディだ。李小龍はノンクレジットでのゲスト出演で、劇中「チャチャチャ」を踊るクラブの場面にのみ登場する。香港チャチャチャ・コンテストで優勝するだけあって、その踊りはさすがに大したものである。作品としてはモダンなラブコメで、現代の世でも再見に耐えうる出来である。李小龍は、翌年の『人海孤鴻』に主演した後、喧嘩三昧の日々が祟って単身渡米。その後の人生については触れるつもりはない。今回の特集では、「映画、文化、歴史」の側面から、李小龍の"童年"と"往時"を振り返ってみた。カリスマ・ヒーローの知られざる一面に、些かの光でも当てられていましたならば幸いと存じます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍童年往時(完)特集トップへ

李小龍童年往時(六)『雷雨』 [2004年01月27日(火)]

李小龍童年往時(六)『雷雨』'57年製作、監督:呉回、主演:張瑛、李小龍ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー子役時代の李小龍作品としては最も有名なものであろう。スチールも多く公開されているし、ブルース・リー関連の本では昔から紹介されてもきた。『死亡塔/死亡の塔』香港版や各種ドキュメント物では一番多くフィルムが使われている。子役とはいっても、この映画の撮影時、李小龍は16才。すっかり大人の顔を見せているのは皆もご存知のところであろう。この映画の大まかなストーリーは、存じている方も多いと思われるのでクドクドとは書かない。その後重要になる粗筋だけ紹介しておく。光緒年間から続く名家の当主・盧敦は、侍女・白燕に手を付け一子を儲ける。盧敦の妻はショックで自殺し、私生児の存在を知られた白燕は屋敷を追い出され、河に身を投げた。時は流れ、黄曼梨と再婚した盧敦、ふたりの間に生まれたのが李小龍である。白燕の子・張瑛が帰国、新たに雇い入れた侍女・梅綺を巡って三角関係が生まれる。問題はこの梅綺の存在だ。彼女は河に身を投げた白燕の娘で、張瑛とは兄妹、李小龍とも腹違いの姉弟になる。再び屋敷に現れた白燕から、全ての遠因を聞かされ、雷雨の晩に30年間の悲劇に決着がつく。この映画の紹介文には、必ずといっていいほど「『雷雨』は"五・四文学"を代表する・・・云々」という一文が書き添えられている。ではその"五・四文学"とはいったい何であるのか?ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「五・四文学」が「五・四運動」と関係あることは説明するまでもないだろう。「五・四運動」までの中国の流れは、今一度『千萬人家』の回を読み返して貰いたい。ここでは「五・四運動」そのものについて解説していく。毛沢東政権以前の文化大革命といわれる「五・四運動」は、孫文率いる国民党の力の無さから起こったといえる。辛亥革命を成功させた孫文だったが、旧清朝軍をそのまま自軍に引き入れる形を取った事が、袁世凱に軍閥を形成させる要因を生んだ。 東京に逃れた孫文は中華革命党を組織。真の革命成就に必要なのは、決死の覚悟を持った選び抜かれた人間のみであるとの認識を高める。中華革命党は多くの秘密結社と連絡を密にし同志を募ったが、秘密結社の構成員の多くは都市生活者である。孫文は、中国で多数派を占める農民の存在を忘れていた。ここら辺も誤算であったろう。第一次世界大戦が起こり、世界の目がヨーロッパを向いた隙に、日本がドイツの租借領土に進攻、これを占領し軍政を敷く。日英同盟を利用して、ドイツ領土に侵攻したというのが表向きの理由だが、日露戦争で得た旅順などの租借地返還期限の迫っていた日本は、何としても中国での利権の確保が必要だったのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの後の戦後処理で日本から突きつけられた理不尽な「二十一ヶ条の要求」を、袁世凱は自らの帝政実現と引き換えに受け入れてしまう。これに反対した農民層の愛国的蜂起が「五・四運動」へと流れていく。しかしその袁世凱も、夢を実現する前に病に倒れた。こうして軍閥混戦時代が始まりました。辛亥革命から、清朝崩壊〜国民党〜袁世凱〜軍閥混戦〜日帝の影と、これだけのことは僅か6年余りの間に起こった出来事です。この間"民衆"は全く置いてけぼりです。いえ、そもそもそれ以前に、中国という国は民意などというものが顧みられたことは一度もなかったのです。辛亥革命に期待をかけたのはブルジョア知識層です。封建時代の清朝政府では成しえない自由な民意の反映、それは主権在民と自由経済への道でありました。それは軍閥の台頭によって瓦解します。そこで知識階級がとった手段は国民性の改造であり、そのターゲットこそ孫文の視界に入らなかった農民層です。「論小説与群治之関係」を発表した梁啓超は、「一国の民を新しくせんと欲すれば、先ず一国の小説を新しくせざるべからず」という小説界革命を提唱。これが、抗日運動である「五・四運動」と「五・四文学」の関係だ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「阿Q正傳」の著者・魯迅は当時を述懐する。「辛亥革命を見、第二革命を見、袁世凱の帝政自称、張勲の復辟を見、見来たり、見去って疑い始めた。かくて失望し、落胆しきっていた・・・・・」これが当時の中国人民の全てを代弁している。しかしこの「五・四運動」は、後に続く抗日十五年戦争を戦い抜く基盤を為したもので、誰に強制された訳でもない中国人民による草の根運動であったことは見逃せない。「五・四文学」がもたらしたもの、それは封建時代には存在しなかった主観主義及び個人主義の開花だ。新文学運動は"浪漫主義文学"といわれ、それまでの古典派を退けて勃興した。"浪漫主義文学"の目指したもの、それは、模倣を駆逐し、創造を貴び、形式を打破し、感情を発露する。先述の梁啓超は、それを唯心派哲学および、政治的、経済的自由主義と同意語であったと述べているのだ。ここまで読んで改めて『雷雨』のストーリーを思い出して欲しい。いったい『雷雨』のどこが「五・四文学」なのか?実はその謎の解明のために、あえて他の『雷雨』紹介文と同等の内容しか書かなかったのだ。『雷雨』を実際に見た人間のほとんどが気づいていない部分、これなくして『雷雨』は「五・四文学」足り得ないのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『雷雨』の物語でキーになるのは、盧敦の後妻にして李小龍の母を演じた黄曼梨にある。彼女は帰国した張瑛にやたらきつく当たるのであるが、それは我が血を受けた次男の李小龍可愛さゆえであるように思われている。その後このドラマは、実の兄妹によるメロドラマに流れていくため多くの人が見過ごしてしまうのだろう。実は黄曼梨と張瑛は継母と長男という立場を超えて男女の関係にあったのだ。張瑛が家を出たのもそのためであり、帰国した張瑛が梅綺に思いを寄せるとヒステリーを起こすのである。当時の香港で直接的な近親相姦の描写は出来なかったためか、かなり遠まわしではあるが、ふたりの関係についてはちゃんと触れられている。ここを見逃すと『雷雨』は只の昼メロになってしまうのだ。黄曼梨の存在こそ「五・四文学」を象徴するものである。光緒年間から続く名家の盧敦は、旧弊な封建主義の象徴であり、彼の独裁的家父長振りは家族全体に屈辱的な忍従を強いる。全ての悲劇の遠因は彼にあるが、それを突き崩すのは、"形式を打破し、感情を発露"した"主観主義及び個人主義"の革命的女性・黄曼梨であった。これが本来の『雷雨』という物語である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「五・四運動」とその後の流れに少し触れておきたい。それは「五・四文学」の終焉についても語ることであろうと思う。「五・四運動」は農民の間に広がり、これにより共産党が少しづつ力をつけていった。日中戦争を共に戦った国民党と共産党だったが、戦後は袂を別ち、敗れた国民党は台湾へと逃れて行く。毛沢東を指導者と仰ぐ共産党により中華人民共和国の成立がなされたのは1949年。農村共同体第一主義の共産党は、ブルジョア・知識人階層に弾圧を加え始める。"文化大革命"の開始だ。かつて梁啓超らと共に"浪漫主義"を追求した郭沫若は、後にマルクス主義へと転向、こう述べている。「最初の時代に革命的であったものが、次の時代には非革命的になる。最初の時代に革命文学であったものが、次の時代には反革命の文学になってしまう。したがって革命文学という名詞は固定していても、革命文学の中身はつねに固定していない。」のだと。ブルジョア知識人階層によって始められた「五・四文学」は、個人・自由主義を核心とした資本主義をもたらした。資本主義はプロレタリアート(貧民)という新たな階層を生み、別の階級闘争を生み出したのである。『雷雨』の作者である曹禺は、「五・四文学」に影響を受けた作家だ。文化大革命中、彼はブルジョア反動権威として激しい攻撃にさらされ、人民芸術劇院寮の門番をさせられていたという。このような経緯を見れば、現代人の目に『雷雨』が読み難いのも致し方ないことであろう。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍童年往時(七)へ続く

李小龍童年往時(五)『孤星血涙』 [2004年01月25日(日)]

李小龍童年往時(五)『孤星血涙』'55年製作、監督:珠[王幾]、主演:李小龍、張活游ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイギリスの文豪チャールズ・ディケンズの代表作「大いなる遺産」を翻案した作品である。映画化されたものとしては64年に作られたデビッド・リーンによるものが有名だろう。ディケンズ自身、父親が投獄されたり、下働きに出ていた経歴があり、「大いなる遺産」は彼の実歴が最も反映された作品としても有名だ。貧困の現実と人間に潜む悪の追求を生涯のテーマとしたディケンズは、「クリスマス・キャロル」や「オリバー・ツイスト」など、世界文学史に残る作品をいくつも書いている。遺作となったのはディケンズ初のミステリーとなる予定であった「エドウィン・ドルードの謎」。世界初のミステリーといわれたウィルキー・コリンズの「月長石」に触発されて執筆したといわれているが、コリンズに注目し彼を世に出したのもディケンズであった。「エドウィン・ドルードの謎」執筆途中に他界したため、現在に至るもこの小説の結末は不明のままである。多くの研究者が残された謎に挑戦しているが、シャーロック・ホームズにその謎を解かせる、ピーター・ローランド作の「エドウィン・ドルードの失踪」がお薦め。ディケンズの小説共々一読されたし。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー映画は概ねディケンズの作品に沿っている。無実の罪で投獄された医者の呉楚帆は、逃亡途中で我が子・王群と出会う。この王群の少年時代を演じているのが李小龍で、映画の半分くらいは登場する。14才(映画の設定上は10才)になった李小龍は、随分と大人っぽい表情を見せており、得意気に力瘤を作ってみせる場面など、後のブルース・リーとしての主演作を思わせる。無医村に住む王群は、貧困ゆえに死んでいく村人のため医者になる決意を固める。呉楚帆を陥れたのは、大病院の院長で儲け主義の劉克宣。広東語映画を支えた大物俳優のひとりで、『A計劃/プロジェクトA』の海上警察署長役が遺作となった。逃亡を続ける呉楚帆は人知れず我が子・王群を援助し、医者になるための学資を送っていた。呉楚帆の逃亡後、恐れを抱いた劉克宣は、王群と呉楚帆に何らかの関係があると睨み王群に近づく。学資が無記名で送られていることから、善意の人として王群を騙し、父親と同じように破滅させる手筈を整えた。王群のピンチに姿を現した呉楚帆は、旧悪と最後の決着をつけるべく劉克宣の屋敷に乗り込んでいく・・・。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー成長した王群を演じるのは張活游、『苦海明燈』と同じく前半部が李小龍で、後半部が張活游となる。もとは粤劇の舞台俳優であったが、39年に映画界入りするやスターとして400本以上の作品に出演した。常に良心的な映画作りに務め、呉楚帆らと設立した「中聯」「山聯」という映画会社は、舞台経験者が持ち込んだ悪しき慣習を排除し、製作者側から規律の模範を示した。彼らが起こした「粤語電影清潔運動宣言」こそ、広東語映画の質を著しく向上させたもので、戦前の上海映画の流れをくむ北京語映画の潮流に対抗し、今に到る香港映画の文化的礎となったものである。この精神は張活游の息子にも受け継がれた。北京語映画の更盛に押された72年、香港では広東語映画の製作本数はゼロとなってしまう。ここで立ち上がったのが張活游の息子・楚原であった。彼が73年に発表した『七十二家房客』は、話し言葉としての広東語の面白さを追求し、再び広東語映画の流行を呼び込む作品として香港映画史にその名を残した。『七十二家房客』は当時の人気俳優が登場する娯楽作品であるが、「中聯」を代表とする良識派広東語映画製作者の良心をバックボーンとしているのだ。王群の幼馴染・貝兒の少女時代を演じているのは、少年・李小龍との顔合わせも嬉しい蕭芳芳(ジョセフィーン・シャオ)。ニューウエイブ時代に彼女が製作者として果たした役割りも、この子役時代に培われた賜物によるのであろうか。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍童年往時(六)へと続く

李小龍童年往時(四)『危樓春暁』 [2004年01月21日(水)]

李小龍童年往時(四)『危樓春暁』'53年製作、監督:李鐵、主演:張瑛、李小龍ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー香港返還が近づいた90年代、「借り物の時間、借り物の土地」を生きていた消費文化の香港人にもノスタルジーが生まれ、過去を振り返る作業が繰り返された。ブルース・リーの再評価が高まったのもその表れだったが、武侠片が復活したり、古い広東語映画が見直されたりしたのも、その同じノスタルジーによるものだ。93年に製作された『新難兄難弟/月夜の願い』は、そんな時代の風潮を最も反映した映画のひとつだった。60年に作られた謝賢主演の『難兄難弟』のリメイクであるが、実はこの『危樓春暁』に捧げられたオマージュでもあった。下町のボロ・アパートに住む住人たちの悲喜こもごもを、人情味豊に描いた『危樓春暁』は、50年代の広東語映画を代表する名画中の名画なのである。『新難兄難弟/月夜の願い』ばかりではなく、70年代に広東語映画復活の狼煙を掲げた『七十二家房客』や、『馬路小英雄』など、この映画から影響を受けた作品は数多く存在する。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『新難兄難弟/月夜の願い』は、主人公・梁朝偉(トニー・レオン)が、タイムスリップして若き日の両親と出会い、理解出来なかった父親の生き方を理解するようになるというものだった。この若き日の父親役を演じたのが梁家輝で、この時の彼の役名は呉楚帆である。もう既に何度もこの特集に登場したのでお馴染みの名前だろうが、仲間の俳優たちと「中聯」を主催し、広東語映画の向上を図った功労者だ。勿論この映画にも出演しており、『新難兄難弟/月夜の願い』における梁家輝の口癖「人々は我のため、我は人々ため"人人我為、我為人人"」というのは『危樓春暁』で呉楚帆が言うセリフなのだ。他にも『新難兄難弟/月夜の願い』で梁家輝らが住んでいる長屋は「春風街」だったり、そこには高魯泉、紫羅蓮といった『危樓春暁』の俳優たちが住んでいたり、劇中の子役が李小龍だったりするお遊びも満載で、本来はこの『危樓春暁』を見ていなければ解らない楽屋オチが満載だったのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『危樓春暁』における李小龍の登場場面は僅かで、黄楚山&黄曼梨夫妻の子供・華仔として4分ころに登場する。貧しい両親を気遣うナイーブな少年を演じ、天才子役の名に恥じない演技を見せてはいるが、やはりトータルしても5分と出番はない。この『危樓春暁』が公開されたのは53年11月27日で、それは李小龍13才の誕生日のことであった。当時、既にグレていたというが、映画からは微塵もそんな事を感じさせはしない。実年齢よりも幼く見えることもあってか、このような子役でキャスティングされているのであろう。それよりもこの時代の映画で珍しいのは、当時の香港の風景なのではあるまいか?古い香港映画を見る機会はあっても、そのほとんどが60年代以降の映画か、古くても時代劇になってしまうため、当時の町並みなどを写した現代劇の風景は非常に貴重なものであると言える。まず驚くのはビルが無いことだろう。香港といえば狭い土地に林立する高層ビル群というのが目に浮かぶが、耐震設計を盛り込まれた高層ビル計画のスタートは68年ころから。この映画の製作された53年には、まだ高層ビルなど存在してはいないのだ。戦後の復興からはまだ8年、いまだ大量消費社会になる前の香港の姿がそこにある。"人々は我のため、我は人々ため"・・・・今は失われた風景の中に、この言葉もいつしか消えていったのだろうか。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍童年往時(五)へと続く

李小龍童年往時(三)『千萬人家』 [2004年01月14日(水)]

李小龍童年往時(三)『千萬人家』'53年製作、監督:珠[王幾]、主演:盧敦ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『苦海明燈』と同年の映画で、李小龍12才の出演作だ。製作も同じ「中聯」によるもので、さすがに良く出来ている。悲劇性が強かった『苦海明燈』に比べれば、喜劇要素もある社会風刺劇で、ちょっとプレストン・スタージェスを思わせる作りである。終盤が道徳的である点については大同小異で、まだまだ社会に不安定要素の高かった時代であることを偲ばせる。李小龍は正味5分ほどの出演で、彼の童星としての演技面には語るものはない。中盤、祖父の誕生会で歌を披露する場面があるのだが、もうひとりの子役・欣欣と共に紅衛兵のような振付けで歌ってみせる。映画の内容がブルジョア批判であることからも、「中聯」は左寄りの映画会社であった可能性は高い。脚本を書いたのは程小東の父・程剛。映画監督としても有名だが、実は脚本家としての仕事の方が多い。李小龍作品には『孤星血涙』『雷雨』など数本に関わっている。ちなみに息子・程小東が生まれたのは、この映画の製作された53年、父の現場にはいつも遊びに来ていたらしい。『雷雨』撮影時には4才になっている訳で、李小龍と現場で会っていたのなら面白いのだが。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー他所で紹介されているこの映画のストーリーは支離滅裂です。ちゃんと紹介しておきますね。かつては羽振りの良かった盧敦も今は落ちぶれ、次女・紫羅蓮の嫁ぎ先を頼ってくる。久しぶりに再会する母・黄曼梨、三女・容小意と家族で喜び合う。夫・呉楚帆は会社を経営しているが資金繰りが悪く、義父の来訪を助け舟と喜んだ。紫羅蓮は夫に父の現状を打ち明けられずにいたものだが、何とかして義父から資金を引き出そうとする呉楚帆の様が可笑しい。一家は自動車修理工をしている李清に嫁いでいる長女・容玉意を尋ねるが、名士気分の消えない盧敦は呉楚帆の貴賓扱いに気を良くし、貧しい所帯の容玉意を訪ねる気がしない。貧しくとも誠実な李清の家では、苦しい家計を遣り繰りして暖かく一家を歓待した。李小龍はこの李清夫妻の息子として登場、子役らしい溌剌さを見せている。実は盧敦が破産状態だと知るや態度を一変させる呉楚帆、しかし資金援助をしてくれているプレイボーイ・馮應湘が、三女・容小意に一目惚れしたことからまた事情が変わった。いつまでも変わらない盧敦に愛想をつかした黄曼梨が長女の元へ去り、遊ばれていると知った容小意も母の後に続いた。家族を失った喪失感に幾分反省した盧敦だったが、呉楚帆の会社経営はいよいよ怪しくなってきたため、馮應湘と容小意の復縁に力を貸してしまう。だがそれが悲劇を生むとは知る由もなかった・・・・・。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー1953年頃の香港を取り巻く状況を考えるのは大事である。なにせその時代が李小龍の育った時代なのだから。と言う訳で、話は580年ほど遡るのだ。漢民族最後の王朝である明朝が建てられたのは1368年。後に反清復明運動など明朝擁護も起きるが、歴代王朝の中で明朝ほど政治腐敗の酷い王朝もなかったと云われている。民心を失い、潰れるべくして潰れた明朝であるが、漢民族というのは実に中国人の92%を占める多数派民族なのである。1616年、女真族のヌルハチが東北で興り、これが後に清朝になるのだが、少数民族である満州族の支配はおよそ300年は続くこととなる。これこそが明朝腐敗の反動の証であったろう。応仁の乱以来100年続いた戦国の世に嫌気が指し、その後の徳川幕府が300年続いたのも同じ理由による。しかし300年の平安は惰眠と同意語である。眠れる獅子と呼ばれていた清朝もすっかり眠り猫と化していたのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー世界に覇を唱えんとする大英帝国は、当時の中国に対し多大な貿易赤字を抱えていた。大航海時代以後、香料や絹を求めてアジアに進出した英国は、対アジア貿易の窓口「東インド会社」を設立。香港を貿易港に多大の中国産品を輸入していたが、これが完全に超過輸入となり、この借財を払うため「東インド会社」で栽培したケシの実を阿片に加工、この密貿易で得た金で借金を払おうとしたのだ。人民の阿片禍に頭を悩ませた清朝政府は、林則徐を派遣し阿片商人との折衝に当たらせた。これを英国側は契機とした。難癖をつけて戦争に持ち込めば、借金そのもの踏み倒せるが、中国を植民地支配におくことも可能であるからだ。世界戦争史上最も不名誉で破廉恥な戦争といわれる「阿片戦争」はこうして始まったのである。この戦争に勝利した英国は、1842年の南京条約で香港島を、1860年の北京条約で九龍半島を植民地とし、1898年には新界を永久租借地とするのである。これが、英国領香港の最初の成り立ちなのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー1911年に辛亥革命が起こり清朝が滅亡、孫文を臨時大統領とする中華民国が設立される。その孫文も病に倒れ、袁世凱が独裁政治を敷き始めると、自由貿易港として発展し始めていた香港に大量の本省人が流入。わずかに数年で40万人から80万人へと人口が膨れ上がり、これが新たな労働力としてさらなる発展を促した。日清戦争で大陸進出への足がかりを得た日本は、山東省のドイツ権益割譲関する「21ヶ条の要求」を突きつけ、これに屈服した政府に反対した労働者階級や学生が暴動を起こし「五・四運動」へと展開。この流れはやがて中国共産党の設立へと繋がっていく。1927年、第一次「国共内戦」が始まり、1932年には日本軍の後押しで「満州国」が建設される。日本軍の支配は次第に高まり、「盧溝橋事件」をきっかけに1937年から日中戦争が開始されるのだ。香港への人口流入は第一次のピークを向え、1940年には倍の160万人にまで登る。李小龍の父・李海泉が広州から香港に拠を移したのは1930年代のこととされている。「国共内戦」か日本軍の進出が間違いなく影響しているだろう。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー粤劇の名優として名を馳せた李海泉は、「粤劇四大名旦之一」とまでいわれた人物であった。そんな彼が香港に拠点を移したのには、戦乱の影響により大陸では芝居が続けられないこともあったろうが、広東の地方演劇である粤劇を支える観客のほとんどが、英国領となった香港に移り住んでいたことも理由のひとつだったろう。香港においてドイツ系中国人の何愛瑜という女性と知り合い結婚。1939年、李海泉は生まれた子供を連れ一座を率いてアメリカ公演に出かける。巡業途中で妻が妊娠、40年11月27日午前8時、サンフランシスコにある東華醫院で誕生した男の子が李振藩=李小龍であった。辰年の辰の刻に生まれたというのは有名で、彼は生まれながらのドラゴンであったのだ。アメリカ滞在中に華僑向け広東語映画が作られることとなり、女の赤ん坊役として映画に出演、それがデビュー作となる『金門女』だ。アメリカ公演を終えた李海泉一座は航路香港へと戻る、1941年3月のことだ。香港へと帰って来た李小龍を待ち受けていたのは、日本軍による香港占領であった。これは12月であったことから「ブラック・クリスマス」(この経緯については『等待黎明/風の輝く朝に』や『傾城之恋/傾城の恋』などで描かれている)と呼ばれ、戦争を体験した香港市民の心に暗い影を落としている。これはたかだか60年前のことであることを忘れてはならない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍童年往時(四)へと続く

李小龍童年往時(二)『苦海明燈』 [2004年01月11日(日)]

李小龍童年往時(二)『苦海明燈』'53年製作、監督:泰劍、主演:李小龍ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍12才の主演作。『細路祥』出演時は9才で、まだまだ幼児の面影を残していたが、この頃になるとさすがに青年時に近い顔つきに変貌している。後年の香港映画と違って、この頃の広東語映画は同時録音が主流であった。(広東語映画の変遷については01/9/1日記参照)ここで興味深いのは李小龍の喋りだろう。通常、我々がイメージする彼の喋りは、『龍争虎鬥/燃えよドラゴン』でのセリフや、インタビューでの物であろう。他の主演作が既に吹き替え全盛期のものであるため、本人の声として残されているのは、英語以外はこの子供時代の主演作ということになる。李小龍といえば、甲高く早口で、非常に強弱を強調して喋るというのが後年の我々にインプットされている。だがここでの彼はあの特徴ある喋りはしていないのだ。思うにあの喋りはアメリカ時代に身に付いたのではないのだろうか?凱旋帰国した李小龍は、当時の共演者たちから「ちょっと変な広東語」と言われもしたが、案外ワザとそう喋っていたのかもしれない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー監督の泰劍は後に『何日君再來』を監督する文芸映画の名匠。この『苦海明燈』は、広東語映画の質向上を目的として設立された「中聯電影」の作品だ。「中聯」設立には、当時の広東語映画のルーズな製作態度に反旗を翻した映画人らが多く参加、この運動は"伶影分家"と呼ばれたもので、舞台俳優の掛け持ち撮影による撮影の遅れなどを規制するものであった。「中聯」を設立したのは、この映画に出演している呉楚帆、張活游、張瑛、白燕、李清、容小意、黄曼梨、小燕飛、梅綺、紫羅蓮らで、彼ら自身名優として映画界に君臨したが、広東語映画の存続に多大な貢献を果たした人物たちでもである。呉楚帆は子役としての李小龍を非常に高く評価しており、そのほとんどの映画で共演している。中国五大俳優のひとりであり、"華南影帝"と呼ばれた彼は、戦後広東語映画最高の映画人であった。後に自ら主催した「新潮影業」では、香港初の本格的カラー映画といわれた『人海孤鴻』を製作。これは李小龍にとって渡米前に出演した子役時代最後の作品である。93年に移住先のカナダで死去、82才であった。彼の残した「呉楚帆自傳」は、サイレント期からの香港映画界について知りうる貴重な歴史の証言の書である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー金持ちのプレイボーイ・張瑛の家で働いていた容小意は、主人に手を付けられ私生児・阿生を生む。子供の出来ない焼餅焼きの妻・林妹妹に家を追い出され、親切な病院長・李清の好意で子供を預けた容小意は、働いてお金が出来たら迎えに来ると言い残し姿を消した。妻を亡くし独り者の李清は阿生を引き取り育てるが、再婚の妻に子供が出来ると邪険にされ、子供を亡くした乳母の黄曼梨が手元で育てる。黄曼梨にはヤクザなヒモ亭主・呉楚帆がおり、黄曼梨が働いている間、子供の阿生は奴隷同然のドメスティックバイオレンスな日々を送る。この阿生を演じるのが李小龍ということになるが、赤ん坊、幼年期、少年期、青年期(張活游)をそれぞれ別の俳優が演じており、李小龍は少年期担当。映画開始から37分くらいで登場し、100分強の映画でおよそ30分くらいは出番がある。阿生が心配で度々家に帰る黄曼梨はクビになり、裁縫の仕事で生計を支えるも、ヤクザな亭主に稼ぎを全て吸い取られる。こんな暮らしにもかかわらず、家の近くに住む盲目の少女を助けるなど、優しい一面を見せる阿生。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーヒモ亭主にはさらに立ちの悪い兄貴・周志誠がおり、今日も稼ぎを巻き上げふたりで博打に出かけようとした。止めようとした黄曼梨と揉み合いになり、突き飛ばされた黄曼梨は打ち所が悪く死んでしまう。博打から帰った呉楚帆はさすがに呵責の念から真面目に働こうと決意するが、周志誠の策略で借金を重ね、子供を欲しがる金持ちの夫人に阿生を売り飛ばしてしまう。売られた先で待っていたのは林妹妹、夫・張瑛は別の愛人に手をつけ生まれた子を育てていたため、子供の出来ない本妻は養子をとって対抗したのだ。実の親子とは知らずひとつ屋根の下で暮らす張瑛と阿生。愛人に泣きつかれた張瑛が、あんな子供は追い出してやるからと言っているのを聞き、夜の闇に飛び出して行った。あてもなくさすらう阿生、雨宿りをしていた家の住人が帰宅して問い詰めると、行く当ての無い孤児だと判った。家の主は眼科医の黄楚山とその夫人・白燕。眼科医だけでなく、盲目の孤児たちを引き取って暮らしている夫妻は、阿生が初めて出会った善人で暖かい人たちであった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー初めて触れる人の優しさに戸惑う阿生。かつての盲目の少女とも再会し、夫人は本当に優しい人だと聞かされるが、今まで散々傷ついてきた阿生は容易にそれを受け入れなかった。その夜、ボロを纏っている阿生に新しい服が用意されたが、反射的にそれを拒否してしまう。呉楚帆も、張瑛も、みんな新しい服を用意しては彼を捨てたのだった。「おばさんは嘘つきだ!そんな優しさは信じないぞ!どうせ僕を売り飛ばすんだろ?」再び飛び出す阿生だったが、空腹のあまり盗みを働き、警察に追われ逃げ込んだのが白燕のところ。盗みはいけないことだと諭す白燕は、やさしく迎え入れてくれるのだった。人の優しさに触れることで、本来の優しさを取り戻した阿生は、黄楚山の後を継いで眼科医となるべく勉強を始めた。ここから阿生役は張活游に。月日は流れ立派な医者となった阿生は、黄楚山のライフワークである角膜移植の研究に取り組む。角膜移植の研究は、1789年のフランスで始まったとされる。ペリエ・ド・ケンシーによるガラスの角膜の実験から注目され、1930年のロシアでフィラトゥ教授により、死体の角膜を代用することが効果的であると発表されたことから、実用化に向けて動き出した。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー少年時代に「いつか君の眼を治してあげる」、そう約束していた阿生は、成長した少女(小燕飛)のため日夜研究に励んでいた。寄る年波から病に倒れた黄楚山が死に、ひとり研究を引き継いだ。ついには研究の成果に満足のいく結果を得、小燕飛の手術に取り組み成功させる。苦学の孤児・阿生の名前は大々的に新聞に取り上げられ、李清を訪ねてきた実の母・容小意、破産して没落した張瑛らの知るところとなる。医学界の表彰式に現れた容小意は、阿生が孤児の自分にとって、恩人・白燕こそ母だと呼んでいるのを目撃、ショックを受ける。白燕は言う「母の役割りは三つあります。ひとつ目は生むこと、二つ目は育てること、そして三つ目は教えることです。私はそのうちの二つしかしていません、母だなんて・・・・」会に出席していた李清は自責の念にかられて告白する。「阿生、私を覚えているかね?私は君を育てようとしていたが、実の子供が出来たら君を捨ててしまったのだ。白燕夫人の言葉を聞いて恥ずかしい思いだ、許してくれ。」過去は忘れましょうという阿生に、実の母が来ている事を告げる李清。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー突然のことに戸惑っている阿生に、金をタカリに現れたのは張瑛。「あなたという人は!実の息子に恥ずかしくないの!」容小意の言葉で真実を知り、いたたまれず姿を消した。「・・・お母さんよ、あなたの顔を見に来ただけなの。白燕夫人の言うとおりね、私はあなたを生んだだけ、彼女をお母さんと呼んであげなさいね」涙ながらに立ち去ろうとする容小意を呼び止めたのは白燕であった。「どちらがお母さんでもいいじゃない、本当に大切なのはあなたのその愛情よ」こうして二十数年振りにふたりは親子の名乗りを果たすのであった。ご覧のように良く出来ている。名画であると言ってもいい。李小龍の出番が1/3ほどであることを問題にするファンもいるが、この時期の出演作品の多くが、この映画のように主人公の少年時代を演じたものである。これは彼が端役だったからではない。ラサールカレッジ(溂沙書院)に入学していた李小龍は、国語の成績が悪く、李海泉の方針で映画出演を春休みと夏休みに限定していたのである。出番が少ないのではなく、出ずっぱりの出演は出来なかったのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍童年往時(三)へ続く

李小龍童年往時(一)『細路祥』 [2004年01月07日(水)]

李小龍童年往時(一)『細路祥』'50年製作、監督:馮峯、主演:李小龍ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「うわぁすげぇや!」銀幕に登場した少年・李小龍(ブルース・リー)の第一声である。天才子役といわれた李小龍は、生後三ヶ月で出演した『金門女』を皮切りに、八歳からその俳優としてのキャリアをスタートさせた。数本の作品に出演後、タイトルロールである"細路祥"として初の主役を演じた。袁歩雲描く同名漫画の映画化である本作は、'99年に陳果(フルーツ・チャン)によって同作にインスパイアされたリメイクも生んでいる。貧民窟に生きる少年・阿祥の暮らしを生き生きと描いた本作は、当時の広東語映画としては十分に素晴らしいもので、『雷雨』『人海孤鴻』と並ぶ子役時代の代表作だ。監督の馮峯は、名女優・馮寶寶や、名悪役にして武術指導家の馮克安の父。『師弟出馬/ヤングマスター』における和威武館の道場主を演じていた人物といえば判り易いか。この映画でも監督の他、細路祥に多大な影響を与える"飛刀李"というチンピラを演じている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍の芸名が生まれたのも、この作品への出演時だった。もともとは李小龍の父親・李海泉が出演依頼を受けたものだが、主人公・細路祥を演じる少年役は決まらないまま撮影がスタートしていた。姉がふたり、兄がひとり、弟がひとりという李小龍だったが、父・李海泉は"無時停"(じっとしている時が無い)とあだ名されるやんちゃな次男坊を事のほか可愛がっていた。或る日、父に連れられて行った撮影現場で遊んでいた少年に目を留めたのは、監督の馮峯とも、原作者の袁歩雲ともいうが、その愛くるしい顔とやんちゃな仕草、そして名優の血を引く確かな表現力を見抜いた人物によって、主役に抜擢されることとなったのである。当時の李小龍には、本名の李振藩の他、李(金/金金)、新李海泉、小李海泉、李敏などの芸名があった。もっとも少年の李小龍にとってはどれもピンとこないもので、クレジットの便宜上そう呼ばれていたに過ぎないそうだ。出演の決まった主役の少年にはちゃんとした芸名がなかったのである。芸名を決めなければならない、なにせあの子は主役なのだ。そんな事を考えながら町を歩いていた袁歩雲の耳に、劇場の呼び子の口上が聞こえてきた。「大龍生小龍!簪花兼掛紅、真龍!」大きな龍とは名優・李海泉、その大きな龍が"小さな龍"・・・・すなわち小龍を生んだ、それは真の龍だ。その口上はいたく袁歩雲を感激させ、ここに李小龍というひとりの役者が誕生したのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの映画には当時の世相が色濃く反映させられている。第二次世界大戦が終わって五年、日本軍の占領下から解放され再び英国領に戻った香港だったが、戦争の傷跡は大きかったのである。敗戦国と戦勝国という違いこそあれど、戦争が庶民に残したものは同じであったろう。この時代の広東語映画には、戦後の復興に揺れる世相を鋭くえぐりだしたイタリアン・ネオレアリズモの影響を看て取ることが出来る。戦争で両親を亡くした細路祥(李小龍)は、路上で貸し本業をしている叔父(伊秋水)に引き取られて暮らしている。路上の現実と向き合って生きる細路祥は、幼いながらもたくましく健気だ。ところで、本文の冒頭で細路祥は何をそんなに驚いていたのか?いとこの阿牛がいじめられている(いじめている男は"二五仔"と呼ばれているが、占領当時日本軍に協力していた者の総称である)のを助けたチンピラ・飛刀李(馮峯)、飛刀と呼ばれるだけあって、この男ナイフ投げは百発百中である。細路祥が驚いていたのは、この飛刀李のナイフ投げであった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーところで、"飛刀李"という言葉から連想されるのは武侠小説家・古龍の代表作「多情剣客無情剣」(01/7/2602/2/21日記参照)に登場する主人公・李尋歓のことだろう。この李尋歓こそ、小刀を投げれば外すこと無し!の"小李飛刀"だ。しかし!古龍がこの小説を発表したのは1970年のことなのだ。今は亡き古龍に確かめるすべとて無いが、この映画の"飛刀李"という役柄から李尋歓の異名を思いついたのではないのだろうか?36年生まれの古龍がこの映画を見ているとしたら当時は14才、有り得ない話では無いと思うが。劇中ではこの"飛刀李"の異名の由来は、細路祥の口から"白玉堂"であると語られる。"白玉堂"は、清朝時代に書かれた侠義小説の代表作「三侠五義」(作:石玉混)に登場する人物だ。作中登場人物でもNo.1人気を誇るキャラクターで、礫(つぶて)の名人である。「三侠五義」から李小龍映画を経て古龍へ、そうであったとしたら実に楽しいではないか!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの"飛刀李"に憧れた細路祥(あの鼻をこする仕草も元は"飛刀李"の仕草で、それを細路祥が真似たものだ。この初主演作の仕草を成人後の主演作でやっていたのは、昔からの観客に成長した"細路祥"の姿を見せたかったからなんでしょうか)は、やがていっぱしのチンピラ小僧へと変貌していく。この細路祥と叔父家族の描写に、紡績工場を巡る資本家と女工の対立が織り込まれ、資本家は女工のストライキを阻止するためチンピラの"飛刀李"を雇う。(部下に馮敬文が!若い!)"飛刀李"に着いて工場にやってきたが、そこはかつて細路祥が働いていたところだった。女工たちの訴えに侠義心を芽生えさせた"飛刀李"は、資本家の裏切りもあってこれを殺してしまう。「師父、僕どこまでも一緒に行くよ!」あくまでも"飛刀李"を慕う細路祥に、「もう着いてくるんじゃない・・・俺は英雄なんかじゃないよ、ただのチンピラさ。」そう言い残して自首の覚悟を決める。事件は決着し、叔父のところに戻った細路祥は、女工たちに見送られて香港を後にする。仲良くなった女の子に「また会える?」と聞かれたが、「もう会うことはないよ・・・」と答えるのだった。細路祥たちは何処へと行くのか?共産党軍が北京に入城、蒋介石は台湾に逃れ、中華人民共和国が成立。境界線が封鎖され、国連が対中国への貿易を禁止するのは、この映画の翌年である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍童年往時(二)へ続く

『永遠英雄 李小龍』 [2001年10月22日(月)]

『永遠英雄 李小龍』'01年製作ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー2001年に香港のTV局が製作したブルース・リーのドキュメントである。この手のドキュメントが登場する度にファンが色めきたつ理由は"お宝映像"の有無だ。この度のドキュメントでは自宅でのイノサントとのスパーリング映像や、ホームパーティか何かでブランドンを背負っている姿など少なからず貴重な映像が見る事が出来るが、今回の"ウリ"は「ロングビーチ・トーナメント」の極めてクリアな映像だ。今までにも他のドキュメント作品(『ドラゴンと呼ばれた男』『最強格闘技ジークンドー』『ドラゴン伝説』等)でも細切れの形で見る事が出来たのだが、今回はかなりクリアな映像の上に5分ほどの通し映像として見れる。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーブルース・リー・ファンでは無い方の為に一応「ロングビーチ・トーナメント」について紹介しておきますと、このトーナメントはカリフォルニア州ロングビーチにおいてエド・パーカー(故人:アメリカ空手界の父と呼ばれる存在。「拳法空手」の主宰者。フランク・シナトラ、エルビス・プレスリー、ウォーレン・ビーティなどにも空手を教えた。)の手で開催された。当時他流派の格闘技を一堂に会してのオープントーナメントはアメリカでは行われておらず、党派を越えての武術大会を実現させたのがエド・パーカーなのであった。さらにE・パーカーはただトーナメントを催したのではなく、いくつかの新興の武術や伝統武術の模範演武も盛り込み、武術・格闘技の発展に努めたのだ。正式名称は「国際空手トーナメント/インターナショナル・カラテ・チャンピオンシップ」で、ブルース・リー・ファンの間では通称「ロングビーチ・トーナメント」と呼ばれている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーブルース・リーはこの大会の第一回と第四回のゲストとして呼ばれ、模範演武やスパーリングを披露、その模様はE・パーカーその他の手によって8ミリ映像として残されており、ファンの間ではその全貌の公開が望まれているのだ。先にも述べたようにこの大会の映像は各種ドキュメント作品で数多く使われているが、今回の映像は第一回('64/8/2)大会の模様である。「振藩功夫」の始祖(ブルース・リーが「JKD」を名乗るのは'66年頃からで、この大会が開催された頃はまだ「振藩功夫」である。「振藩功夫」とは、ブルース・リーが学んだ「詠春拳」を基に独自の改良・解釈を加えたもので、リーの本名"李振藩"にちなんでそう呼ばれていた。)として招待され、弟子のターキー木村と共に基本テクニックや"チーサオ"(「詠春拳」独自の練習方法。狭い手合いで攻防の技を磨く。)を使ったスパーリングを披露、この時アップになったブルース・リーの顔から、彼が目を瞑っている(!)ことが判る。(それほどクリアな映像なのだ。)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの時の演武を会場で見ていてド肝を抜かれたひとりに、ハリウッドの有名スターを専属で手がける"カリスマ"美容師・ジェイ・セブリングがいた。彼の口から、凄い技(有名な"ワンインチパンチ"もこの時に披露。)を持った無名の東洋人の話題は瞬く間にハリウッド関係者の間へと広まった。この話に一番興味を持ったのがTVシリーズ『バットマン』のプロデューサー・ウィリアム・ドジャーで、さっそくこの時の映像を取り寄せて確認すると、ブルース・リーに20世紀FOXのスクリーンテストを受けさせた。こうして"映画スター"ブルース・リーは誕生したのだ。であるから、この時の「ロングビーチ・トーナメント」の映像は"お宝"扱いなのです。なおブルース・リーはこの時の会場で、生涯の友であり「JKD」を今に伝える後継者・ダニー・イノサントと出会っている。彼にとっても思い出深い大会であったに違いない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『永遠英雄 李小龍』のドキュメント作品としての出来は、可もなく不可もなくといったところであるが、これが欧米ではなく(過去のドキュメント作品はほとんど欧米で作られたもの。)香港で作られたというところに意義があるのだ。意外に思われるかもしれないが、李小龍の香港での再評価が高まったのは'90年代に入ってからである。生前のマスコミ受けの悪さが死後のスキャンダルに拍車をかけ、香港や台湾では人気はガタ落ちしていたのだ。(身近なデータとしては、'81年に香港のビデオショップ30件以上で李小龍について訪ねたところ、鼻で笑われることがほとんどであったというのがある。曰く「日本人は未だに李小龍が好きなのか?」と。) '90年代に再評価されたのには幾つかの要因があるのだが、一番大きな要因は当時まだ子供('60年代生まれくらいが相当)で、スキャンダルなんか関係なく、単純に李小龍を英雄視していた世代が社会で発言権を持つようになった事が挙げられる。そしてこの世代の代弁者が'90年代を代表する映画スターの周星馳だった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー自他共に認める李小龍ファンの周星馳は'62年生まれで、李小龍人気に涌いた'7173年当時は10才前後であった。ほとんどの映画で何らかの李小龍パロディ(オマージュ)を見せている周星馳は、TVのトークショーに出演した際に切々と李小龍への思いを訴えたことがある。「みんなどうしたんだ!もう李小龍は英雄じゃないのか?子供の時はあんなに熱狂していただろう、忘れてしまったのかよ!」"香港李小龍会"の名誉会長をも勤める彼の発言は大きく取り上げられ、彼の映画を支持する同世代の人間から喝采を浴びた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー'97年の返還を間近に控えた香港では、香港が香港であった時代を再確認する作業が人々の心の中で始まりだしていた。そして人々の心の中で"李小龍"の名が次第に大きくなり、香港が生み出し、香港が世界に送り出した英雄として再確認されだしたのだ。李小龍・・それは、もはや返る事のない英国領・香港時代の生み出したたったひとりの英雄の名前だ。"永遠英雄"それは不滅の称号なのである・・・・。
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