旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

『カラテ大戦争』 [2006年09月17日(日)]

『カラテ大戦争』'78年製作、監督:南部英夫、主演:真樹日佐夫

 原作は'74年11月から'79年12月まで、足掛け5年に渡って、月刊少年マガジン誌に連載された「空手戦争」。作画は守谷哲巳だったが、原作は梶原一騎と大山倍達。
 原作ファンでも誤解している人が多いのだが、これは大山倍達その人についての漫画なのだ。ようするに、かの有名な「空手バカ一代」のバリエーションなのである。決して、極真会館を思わせる団体をモデルにした“極限流”の大神達也(漫画の主人公)が、大山倍達をモデルにした師匠の東坊徹源の元を飛び出し、世界空手旅に出かける物語ではないのである。あくまで大神=大山なのだ。

 原作漫画「空手戦争」には副題があり、「世界ケンカ旅行〜空手戦争」というのが正式のタイトルで、これこそ、大山倍達初期の自伝「世界ケンカ旅行」の漫画版であるという証である。ちなみに、この「世界ケンカ旅行」も、「けんか空手・世界に勝つ」のバリエーションなのだが・・・。

 今ではこの“自伝”なるものが、ほとんどゴーストライターによってでっち上げられた“嘘八百”の物語りであったことは、極真信者以外の方(←ここ、重要!)ならご存知であろう。
 その大山のゴーストであった人物が、誰あろう、映画『カラテ大戦争』で主役を務めた真樹日佐夫その人なのだ。

 昭和16年6月、東京に生まれた高森真士(真樹の本名)は、「巨人の星」「あしたのジョー」の原作者・梶原一騎の弟としても有名だろう。極真本部道場師範を務めた実績もさることながら、早大卒であるという点を大山に買われ、兄・梶原一騎と共に“大山伝説”を作り上げた張本人として、その名を残したといえるだろう。極真ファンにとっての名著「けんか空手・世界に勝つ」は、全くゼロから真樹が書き上げたもので、大山本人より“何でもいいから、とにかく面白くしてくれたまえよ、キミィ〜”とお墨付きを貰った。その「けんか空手・世界に勝つ」が「世界ケンカ旅行」となり、漫画「世界ケンカ旅行〜空手戦争」を経て、映画『カラテ大戦争』となった訳だから、その主演を務めたことは、真樹日佐夫本人にとっても本望であったろう。

 原作が開始された'74年といえば、世は第一次ドラゴン・ブームの真っ只中である。映画の公開された'78年3月4日といえば、『死亡遊戯』の公開(78/4/15)を1ヵ月後に控えた時期であり、この作品が、最後であろう第一次ドラゴン・ブームの総決算に便乗して製作されたことは間違いない。原作の終焉が'79年12月だったというのも面白い。ジャッキーが『酔拳』で登場するのは'79/7/21。続いて同年12月には『蛇拳』も公開され、やがて時代は軽薄短小の80年代へと移り変わっていく。

 アントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムスが行われたのが'80年2月であり、やはり梶原が原作で仕掛けた漫画「四角いジャングル」が、現実と漫画の世界が同時進行でリンクするという、壮大な仕掛けのグランド・フィナーレとなった。これを最後に、汗にまみれた男臭さがウリの梶原イズムも、80年代の風景にそぐわないものとして急速にその求心力を失っていったような気がしてならない。映画『カラテ大戦争』も、そんな時代の徒花として見事に散ってみせたのだと、今は思いたい。

 ところで、真樹日佐夫の実力に関しては、昔から極真ファンの間でも論争のタネとなっている。仮にも本部道場の師範代を務めた人物である。いくら大山が金に汚くとも、真樹に何の実力もないとしたら、本部の師範代など任せるものだろうか?極真にとっての最大のセールス・ポイントは実力主義であったことで、これこそが極真の心臓部であることは、利に長けた大山なればこそ分かっていたことのはずだ。

 真樹の実力判定にも関連するが、この映画には製作途中に面白いエピソードがある。

 映画撮影途中、ロケ先のタイでクーデターが起こり、撮影スタッフの元に日本からの送金が届かなくなってしまったのだ。当然、映画製作は中止、空港も閉鎖で出国も出来ず、金の尽きた日本側を救ったのが真樹日佐夫だったといわれている。
 映画では真樹扮する大神のライバル・キング・コブラを演じたダーム・ダサコーンは、実際にムエタイ経験があり、当地の興行主と真樹が懇意だったこともあって、真樹に草ムエタイを持ちかけたという。
 真樹はその草ムエタイに出場し、自分に掛け金を賭ける事で、日本側スタッフの滞在費や製作費を捻出したという。その時、真樹がとった必勝の策は“金的攻撃!”であったそうで、まあ草ムエタイならではであろうが、それにしても期待を裏切らない素晴らしいエピソードである(笑)。

 旧政府の文化庁に没収されかかった撮影フィルムは、真樹と撮影スタッフで夜明け前の空港に忍び込み、先にフィルムだけ隠しておいてから改めて搭乗手続きをしてタイを脱出。この決死のエピソードだけでも、ごはんおかわり出来そうだが、完成した映画にその情熱は届かなかった・・・・。

 この賭け試合に連勝したからといって、真樹の実力か測れる訳ではない。それに真樹本人も田舎の草ムエタイと認めている。ただ、問題はその決まり手が“金的攻撃”であった点だ。
 ある極真の古老はこう証言する。

 「真樹さんの空手の実力はさておき(笑)、確かに彼はケンカには強かったよ」

 競技としての格闘技の実力と、路上のケンカにはあまり相関関係がないことは、普段ケンカはしない人や、格闘技経験のない人でも聞いたことがあるだろう。ケンカはケンカ、格闘技は格闘技なのだ。

 別の古老はこうも証言する。

 「真樹さんの得意技は、鎖骨への手刀、喉輪、“金的”だった・・・」

 “金的”!まさにタイの草ムエタイで真樹に勝利をもたらした技ではないか!

 もちろん、これらの証言があったとしても、やはりその実力は、当時の極真会館で真樹日佐夫と汗を流しあった人間にしか判らないだろう。
 そもそも、タイのエピソード自体が本当であるという保証はないのだから。そこはそれ、やはり“極真イズム”の源流を作った張本人でありますから(笑)。

 最後に、映画『カラテ大戦争』は'78年3月4日、松竹系列の映画館で公開されたのですが、その時の同時上映はショウブラザース作品にして世界のカルト映画『猩猩王/北京原人の逆襲』であったことは、是非にも付け加えておきたい。

 極真ミーツ、ショウブラ!・・・嗚呼、これぞ素晴らしき哉、昭和のいち風景。

「斬る 続柳生一族の陰謀」(2) [2006年02月27日(月)]

「斬る 続柳生一族の陰謀」(2)

 備前池田家の家臣・河合又五郎は、藩主・池田忠雄の寵愛深い渡辺源太夫を斬って後、逐電。又五郎の父・河合半左衛門もかつて、高崎安藤家の家臣でりながら、同僚を斬って出奔した過去があった。
 河合半左衛門が池田家の庇護を受けたのは、高崎安藤家の追手から逃げる途中、池田家の大名行列に飛び込み助けを求めたからであった。

 これが何故事件になるのか?それは徳川家康の戦後処理に禍根の始まりがあったからだ。家康は、三河以来の譜代の家臣や旗本には名誉を、外様大名(伊達とか前田とか)には禄高を持って応えた。
 家康が生きているうちは良かった。だかこれも家光の代(戦国時代が終わったことを宣言した)になると、旗本と大名の対立が表面化。旗本は旗本で、“誰が血を流して勝ち取った天下だ・・・”という思いはあるし、大名は大名で“何かといえば三河以来の・・・”とうるさい旗本には手を焼いていたのだ。

 逐電した河合又五郎が逃げ込んだのが旗本・安藤次左衛門のところ、これがかつて父・河合半左衛門が逃げ出してきた高崎安藤家の親戚にあたり、かつて高崎で受けた恥辱(高崎安藤家では再三に渡って半左衛門を引き渡すよう池田家に頼んで断られた)に対する仕返しで、他の旗本たちと結集して河合又五郎を庇護。
 寵愛の源太夫を斬られた池田忠雄は激怒したが、又五郎は旗本に守られて手が出せない。それでも死の間際(事件のもつれから毒殺説あり、ちなみに池田忠雄は家康の娘・督子と輝政の子)に“河合又五郎の首を墓前に据えよ”なんて言い残してしまう。こうなっては家臣は何が何でも又五郎を討たなくてはいけない。

 斬られた渡辺源太夫には兄・数馬がいた。江戸の法律で、息子が父の、弟が兄の仇討ちをすることは出来ても、その逆は認められていなかった。そういう訳で数馬は我慢していたのだけど、主君の上意討ちという形で河合又五郎を討つことが認められる。又五郎には旗本が意地で守り抜く為、相当の助っ人がいるんだけど、数馬は剣はからきしダメ。そこで数馬が頼ったのが、姉の夫で大和郡山藩士・荒木又右衛門。で、これが有名な“伊賀越えの仇討ち”に繋がってくるんだけど、そこに至るまでに旗本と大名の対立は相当深い確執になってしまう。これが“河合又五郎事件”の顛末で、小説は更に彼らを影武者家光派と保科正之派に分けて争わせていく。

 保科派が正面切って影武者家光の正体を暴けないのは何故かというと、一度そのような先例を作ってしまうと、徳川家と幕府の屋台骨そのものが揺らいでしまうから。今後も何らかの形で後継者争いは続くだろうし、その都度、反対派から影武者説を言い立てられることになってしまうからだ。この辺り小説に隙はない。政治の上で、将軍が傀儡であっても不都合は無い、その点では保科派も同意見ではあるが、やはり正統の血筋を言い立てて、影武者家光派との政権争いに決着をつけようとするのである。

 柳生家で一番劣る宗冬は、一体この危機をどう乗り越えるのか?兄・十兵衛との対決は?河合又五郎を追う荒木又右衛門は?
 全ての決着をつけんと立ち上がった保科正之が、江戸城総登城を契機に、反対派を糾合して総決起するクライマックス。宗冬が放った最後の逆転技は、キリシタン一揆を煽動して騒動の火種をかわすという秘策。それがやがて、宗冬の思惑も超えて“島原の乱”となっていくまで、息をつかせぬ面白さだ。

 映画『柳生一族の陰謀』が出来る時、現代的な時代劇を狙った深作欣二は、あえて時代劇のイメージのないキャスティング(千葉真一、高橋悦史、西郷輝彦等)を集めた。萬屋錦之介をキャスティングしたのは製作の日下部五郎で、実は“萬屋”の後援会に切符を捌いて貰うのが目的のひとつだった。
 が、それをそのまま錦之介に伝えるわけにはいかず、“時代劇復興は錦之介にかかっている!”と口説き落としたのだった。

 名門“中村”の血をひく錦之助は、父・時蔵の悲願だった“萬屋”の名跡を復活させ、萬屋錦之介となった。時代劇黄金時代を支えたスターだったが、東映とは晩年ゴタゴタ続きだった。
 伊藤大輔、内田吐夢ら巨匠の演出に触れた中村錦之助は、急速に演技者としての深みを増し、それまでのアイドル扱いに不満を洩らすようになる。映画産業も斜陽になり、東映は'66年に時代劇はもう作らないと決定。路線を任侠映画へとシフト、“ここに俺の居場所はない・・・”'66年の『丹下左膳飛燕居合斬り』を最後に東映から離れたのだ。

 独立した錦之助は、先述したように萬屋錦之介となったが、中村プロの旗揚げと倒産、度重なる病との闘いなど、映画界そのものとも疎遠になっていた。その錦之介に、“時代劇復興を!”と口説き落としたことから話はややこしいことになるのだ。錦之介は『柳生一族の陰謀』の脚本を恩師・伊藤大輔に見せ、いくつかの改善点(この時点で製作に口を出している)を持って出演を了承。
 萬屋となってからの映画出演はこの映画が始めてとなることから、周囲が考えている以上の気合で撮影に臨んでいたのだ。

 東映撮影所に帰ってきた錦之介は、撮影所スタッフ全員が待ち構える拍手の中スタジオ入りした。この時、錦之介は“この映画はいける!”と確信したという。
 いざ撮影が始まると、現代劇の時代劇バージョンのつもりで演出している深作との間に確執が芽生え始める。錦之介の芝居は、ひとりだけ完全に浮いてしまっていたのだ。他のスタッフとも協議し、さすがに見かねた深作が注意したところ、“皆さんはそれでいいかもしれませんが、私はこの演技しか出来ない”と深作演出を拒否。東映育ちの松方や千葉が合わせることで何とか統一を保った。

 出来上がりの映画を見てもらえば分かると思うが、この映画における錦之介の演技は異様であり、異質である。深作欣二は“ダメだ”と思ったが、結果的にはこの異質な演技が、柳生宗矩という人間を生き生きと作り上げてしまった。映画を観終った後全ての人に残るのは、異様な錦之介の演技ではなかったか?

 映画はヒットし、東映は時代劇路線を続行。深作には続いてメガホンが任された。そのとき東映の岡田茂社長が出した企画が「忠臣蔵」で、当初は錦之介に吉良上野介をやらせる予定だった。企画を聞いた深作は、まともな「忠臣蔵」なんか自分は撮れないと監督を固辞、「四谷怪談」と絡ませた「忠臣蔵外伝」の原案を提示('94に『忠臣蔵外伝 四谷怪談』として日の目をみる)。
 意外な反対があった。錦之介が吉良上野介は出来ないという。これは時代劇役者としてのアイデンティティの問題だ。若き日の中村錦之助は、東映の“忠臣蔵”もので、岡野金右衛門、浅野内匠頭、脇坂淡路守などを演じている。これは時代劇役者の典型であり、義士や脇の人物を演じ、浅野内匠頭になって、大石内蔵助をやるのが筋なのだ。もし吉良上野介を演じるとしたら、大石の後である。錦之介はこれにこだわった。

 撮影が開始されると、錦之介は自分でカメラマンを引き連れ現場に介入。今度は深作演出にも全く耳を貸さなかった。映画『赤穂城断絶』の構成は、普通の“忠臣蔵”ものではなく、突然主家が断絶した赤穂家の家臣が、幕府の決定にテロを起こすという実録ヤクザ路線に近いものである。にもかかわらず錦之介はオーソドックスな大石像にこだわり、現場を混乱させた。

 錦之介の気持ちも分からないではない。大石内蔵助という役は、時代劇を志した役者にとって頂点の役だからだ。

 撮影が三分の一を進んだところで、深作は現場を降りると言い出し、これは岡田茂の説得で取りやめたものの、『赤穂城断絶』に続く時代劇路線第三弾『真田幸村の謀略』('79)は監督しなかった(監督は中島貞夫)。深作が時代劇に帰ってくるのは、錦之介の出ない角川映画『魔界転生』('81)から。一方の錦之介はこの映画以降もこの路線の作品に出演し続け、束の間のブームながら時代劇復興をその双肩に担ったのだ。

 これで何故「斬る 続柳生一族の陰謀」が映画化されなかったか理解していただけるだろう。見せ場満載の傑作になりうる題材であったにも関わらず、映画完成後の人間関係のゴタゴタに企画が黙殺されてしまったのが原因だ。せめてここに書き留めることで、映画のファンにも知っておいて欲しいと思う次第であります。特集トップへ

「斬る 続柳生一族の陰謀」(1) [2006年02月26日(日)]

「斬る 続柳生一族の陰謀」(1)

 *当たり前ですが、こんな映画はこの世には存在しません。このコラムは、作られなかった幻の続編について書いたものです。( )内は映画『柳生一族の陰謀』時のキャスティング。
 
 映画『柳生一族の陰謀』は大ヒット。東映の思惑通り、大型時代劇が脚光を浴び、束の間のブームを呼んだ。
 映画の脚本を担当したのは野上龍雄、松田寛夫、深作欣二だ。それを小説化したのが作家の松永義弘で、映画公開当時('78)に出版されていたことがある。(小説の原著者には野上らの名前も共同で載せられた)
 筆の乗った松永義弘は、早くも同年には小説版の続編「斬る 続柳生一族の陰謀」を執筆した。

 これが実に面白いのだ!!

 これほどのアィディアを映画公開後すぐに持ちながら、映画化し得なかったとは!東映にとっても痛恨事であろうが、ファンにとっても大いなる損失である。元々が大手の出版社から出されなかったため、小説版続編の存在自体があまり知られていないし、現在では出版社そのものも存在しないため入手も困難だ。
 この不遇の続編にスポットをあてつつ、何故?続編は作られなかったのか?に迫りたいと思います。

 映画『柳生一族の陰謀』ラスト、徳川家光(松方弘樹)の天下を実現させた柳生但馬守宗矩(萬屋錦之介)だったが、その過程で多くの犠牲を強いた。根来忍者の使い捨てなどがその好例で、宗矩の長男・柳生十兵衛(千葉真一)は、大事な仲間を無残に殺された憤りを家光、宗矩に向ける。

 「これは夢じゃ!」十兵衛に斬られた家光の首を抱えて叫ぶ宗矩。この印象的な場面で映画は幕を閉じた。小説「斬る 続柳生一族の陰謀」は正にこの直後から幕を開けるのだ。

 十兵衛の家光暗殺現場には、小姓や奥女中などがいた。自らも十兵衛の刃に傷つきながら、家光の首を抱えて現場の混乱を鎮める宗矩。「皆々落ち着かれい!これは夢でござる、徳川の天下は御安泰なるぞ!」これは柳生宗矩決死の時間稼ぎで、注進を受けた松平伊豆守信綱(高橋悦史)の到着を待っていたのだ。
 信綱が到着、「ご案じめさるな!上様ならここにおわす、十兵衛が斬ったのは影武者なるぞ!」と、その場を完全に掌握した。

 実はこの家光こそ影武者であったのだが、これにより徳川の天下は何事もなく続くかに思えた・・・・。

 宗矩、信綱が、いかに事を納めようとしても、人の口に戸は立てられぬの喩えが示すように、家光暗殺の噂は江戸城内外で囁かれる。一方、かつての主君・家光、父・宗矩を斬った十兵衛はそのまま出奔。宗矩はその時の手傷が元で、瀕死の状態だった。

 柳生家には長男・十兵衛三厳の他、次男・左門友矩(矢吹二郎)、三男・又十郎宗冬(工藤堅太郎)、女子ふたり(映画では“茜”として志穂美悦子が演じてるが、“茜”という名前は伝わっていない)、最後に側室の子・六丸義仙(後の柳生烈堂、「子連れ狼」でお馴染み!)がいる。
 宗矩自身、父・石舟斎の五男なのだが、長兄・厳勝は戦争の傷が元で跛に、次兄・久斎、三兄・徳斎は出家。四兄・五郎右衛門は戦死と、柳生宗家を継ぐ羽目になった。
 柳生家の剣法は長兄・厳勝の子・兵庫助に受け継がれ、これが徳川御三家のひとつ尾張に仕える。剣の導統は継げなかった宗矩(腕は兵庫助の方が上)だが、将軍家ご指南役&大目付として幕閣で辣腕を揮うのだ。

 で、十兵衛が出奔、左門友矩は前作で死亡(実際に早逝)、宗矩が危篤状態で本筋がスタートする「斬る 続柳生一族の陰謀」の設定にまず舌を巻く!

 柳生家唯一の生き残り(このとき六丸はまだ子供)である又十郎宗冬(後の飛騨守)は、剣の技量においては一族でも一番下で有名なのだ。これも後のことだが、尾張柳生兵庫助の息子で、天才と謳われた連也斎と将軍家の前で御前試合を行い、その腕前の違いを露呈した(一説には指を折られたとも)。

 作品は相変わらずの群像劇だが、タイトルにある“柳生一族の陰謀”を担う人物が、今回は又十郎宗冬である点が、どれほど歴史マニアを刺激するか、これでお解りであろう。

 家光影武者説は真実味を帯び、反・柳生、反・信綱派は何とか一矢報いようと試みる。しかし、駿河大納言忠長は切腹、一体誰が幕閣と戦うのか?

 実はひとりだけいる!それが今回のもう一方の主役・保科正之なのだ!

 二代将軍・秀忠は、妻・於江代(山田五十鈴)の嫉妬が深く側室を持たなかった。確かに決まった側室は置かなかったが、ただの一度も浮気しなかったか、といわれればそうではない。
 それが秀忠乳母・神尾氏の娘・お静で、これが懐妊して生んだのが保科正之。つまり、秀忠直系のもうひとりの男子である。 

 だが、保科正之の存在は無いものとされた。於江代の嫉妬が恐ろしかったからで、正之の存在は土井大炊頭利勝(芦田伸介)他、数人にしか知らされず、人知れず信州高遠藩主・保科正光の子として育てられ、18才になるまで父や異母兄とも会えなかった。
 歴史上の保科正之は、その人物においても、殿様としても名君中の名君である。弟・忠長を切腹に追い込んだことを悔やんでいた家光は、ことのほか正之を可愛がったという。正之は加増され肥後守を拝受。会津松平23万石の礎となるが、終生松平の姓は名乗らなかった。自分を養育してくれた保科の家に恩義を感じていたからで、会津藩主が松平姓を名乗るのは三代・正容からである。

 死に臨んだ家光は、正之を呼び寄せ、四代将軍・家綱の補佐役として正之を指名。これに感激した正之は、「会津家訓十五箇条」を定め、その第一条には「会津藩は、将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば、家臣は従ってはならない」と苛烈に定めた。これ以降、歴代の会津藩主・藩士は共々にこれを守り通し、幕末の会津藩主・松平容保は最後の最後まで徳川将軍家に忠節を尽くした。

 これほどの人物が、影武者家光の対抗馬として浮上してくる物語が、面白くない訳ないではないか!

 家光を斬って出奔した十兵衛は、記念に家光の印籠を拾っていったのだが、これが影武者家光の存在を証明する重要な証拠となってしまう。もはや幕閣の勢力争いに巻き込まれたくない十兵衛、生き残りの根来忍者・ハヤテ(真田広之)、マン(浅野真弓)を連れ、ひたすら平穏を求めて流離う。
 しかし家光の印籠は、影武者家光派、保科派双方にとっても、やはり漁夫の利を狙う朝廷にとっても垂涎の品である。

 このメインストーリーに、寛永時代の歴史的代表事件がサブプロットとして絡んでくる。それが“河合又五郎事件”だ!・・・続く

『柳生一族の陰謀』(3) [2006年02月21日(火)]

『柳生一族の陰謀』(3)'78年製作、監督:深作欣二、主演:松方弘樹 他オールスター

 ( )内は映画の配役です。

 別木正左衛門(夏八木勲)という人物が出てきますが、これは実在の人物なんですけど、彼が歴史に登場するのは1652年。忠長の切腹が1633年でありますから、この辺はもうパラレル。本物の別木正左衛門は、松平伊豆守襲撃計画を立てた浪人のひとりで、通称この事件は“承応事件”と呼ばれている。その時の相棒は、武田信玄の軍師・山本勘助の子孫・山本兵部だった。

 大名家の改易・廃絶は相次ぎ、ちまたには浪人衆が溢れ出しました。これが戦国の世ならまだしも、槍一筋の功名で出世も仕官も思いのまま。ところが、家光の時代は戦国時代の終りを宣言したことから始まっていますね。彼らにはもはや働き口というものが無かったんです。有名な由比正雪事件なども同じ時期に起こっていますが、反徳川、反幕閣という雰囲気が濃厚な時代でもあったのです。

 だからこそ家光は「武断政治」を断行しなければならなかったんです。忠長の悲劇も、根本はここにあるのだ。

 別木正左衛門と同じくパラレルな登場人物が名護屋山三郎(原田芳雄)と出雲の阿国(大原麗子)。名護屋山三郎は生年不明ながら、没年は1603年とはっきりしている。関ヶ原の戦いが1600年ですからねぇ・・・・。忠長とは会うこともなかったでしょうけど。美男として有名だった人で、阿国とのロマンスも伝えられてはいます。
 その阿国の歌舞伎踊りが流行したのも1603年。これも忠長とは会うことなかったでしょうな。ロマンスの噂の多い人で、山三郎以外にも、徳川秀忠と噂になったりしています。ちなみに歌舞伎の原点は阿国の歌舞伎踊りだといわれていますね。

 小笠原源信斎(丹波哲郎)が力を借りに行く刺客・猿若雪之丞(中村米吉)。その雪之丞を預かっているのが、猿若勘三郎(中村富十郎)というのも渋い配役です。
 小笠原源信斎というのも実在の人物なんですが、彼は後回しにして、まずは猿若勘三郎です。もとは能の狂言師だった勘三郎は、新興都市の江戸で若衆歌舞伎の上演許可を得ます。いわば都会で一旗揚げようのベンチャー起業家タイプ。初代・勘三郎が猿若の名乗りだったのは、彼が「茶屋あそび」という演目の“猿若”という役を持ち役にしていたから。

 で、その猿若一門が江戸で歌舞伎を成功させて、三代目勘三郎から“中村”を名乗るんです。だから“中村”の名前は江戸歌舞伎で最も重きをなすんですな。ということは歌舞伎の発展形からフィルム娯楽へと定着した映画時代劇(最初は歌舞伎の実演から始まったのだよ)においても、“中村”の名前がどういう意味を持つかも解かろうというもの。この映画で、その猿若勘三郎を五代目・天王寺屋こと、中村富十郎が演じているのは当然過ぎる配役。こういう配役にこそ“東映イズム”があるんです!

 小笠原源信斎の登場こそ、私がこの映画にのめり込む原因となった人物です。柳生の相手として、よくぞこの人物をピックアップしてくれた!

 源信斎の流儀は真陰流といいます。この流派の源流は柳生新陰流と同じなんです。そもそもは、愛洲移香斎という人物が始めた“陰流”を基礎とし、その弟子・上泉伊勢守信綱が新陰流に発展させました。この上泉伊勢守信綱が“陰流”という流儀を爆発的に広めた人物で、柳生但馬守宗矩(萬屋錦之介)の父・柳生石舟斎、奥山休賀斎(神影流)、疋田豐五郎(疋田陰流、その弟子が「柳生武藝帖」に登場する山田浮月斎)など錚々たる人物が揃っているのです。

 その源信斎は当時の江戸で道場を開き、門弟三千人を有する大道場主で、若き日には中国に渡って“八寸の延矩”という秘技を、張良の子孫と称する男より持ち帰って連戦連勝だった。が、片や将軍家指南役を得た柳生家と、流派の源流を同じくしながら世間に埋もれる小笠原源信斎。この差は大きい! 丹波哲郎でなくとも、ちょっとやっちゃろうかい!くらいには考えたくなるはずだ。私のような剣豪マニアには堪らん人物なんです。

 この映画のタイトルからして、やはり柳生は説明しておかねばなるまい。

 流派の源流は上の通り。太閤検地で同門の松田織部より隠し田を通報された柳生は一家離散の憂き目に遭う。そのせいもあって徳川の知遇を得て後は徳川家一筋。兵法好きの家康より、秀忠指南役を仰せつかると、続いて家光の指南役も。幕藩体制の固まってきた当時、将軍家と直に接することの出来る人間は、限られた存在になりつつあった。
 その中でも指南役は密接な関係を保てる役職で、柳生宗矩が特別な地位に昇っていったのにはそういう事情もある。

 宗矩の地位があがると、彼と懇意にしようとして近づくものも増えてくる。基本的には剣術屋でありますから、しからば門弟の何某を御家の指南役に・・・・そういわれれば断る大名家はなかった訳です。もちろん進んで門弟を欲しがった家もあるくらいで。

 そうなると、宗矩は江戸にいながらにして大名衆のお家の事情がわかる訳です。そこで柳生宗矩に与えられた役職が大目付。江戸の政治は、老中・若年寄を筆頭に、「三奉行」と呼ばれる勘定・寺社・南北町奉行で司法と行政を司る。宗矩の大目付だけは、独自に大名や幕政を監察できる職で、全国の大名家に門弟を派遣している宗矩にはうってつけの仕事。

 長くなったのでまだ続くのだが、実は今回の特集の目玉は、映画『柳生一族の陰謀』幻の続編について!なのだ!・・・ということで次回もお楽しみに!

『柳生一族の陰謀』(2) [2006年02月19日(日)]

『柳生一族の陰謀』(2)'78年製作、監督:深作欣二、主演:千葉真一 他オールスター

 ( )内は映画の配役です。

 徳川家光(松方弘樹)は、徳川家三代将軍の座(1623年)についた時「余は生まれながらの将軍である」と言ったといわれている。これは、“応仁の乱(1477年)”から続いた戦国時代が、完全に終結したことを意味する重要な宣言であった。

 戦国大名の多くにとって、徳川家康・秀忠の親子は、共に戦って戦国の世を勝ち抜いた同志である。武家の頭領として徳川家は将軍の座にはついたが、同じ釜の飯を食い、共に血を流した同士的連帯感は存在していた。

 家光は違う。生まれこそ1604年であるが、元服したのは1620年、大阪夏の陣から5年後のことである。つまり、最早戦争は起こらない、平和な時代が訪れたことを家光自身が象徴しているのだ。これからは正しく徳川家の天下であり、大名衆は否が応でもその時代が訪れたことを知らされた訳だ。

 今日から徳川の天下だ・・・・そう言われても、昨日まで戦争をやっていた連中や、社会の雰囲気というものは、おいそれとは変わらない。家光の時代は戦国の余燼をいち早く終わらせ、新時代を構築していく過渡期にあたり、江戸時代でも最も大事な時期なのであった。

 家光は幼少より吃音あり、顔に疱瘡があった。これを母・於江代(山田五十鈴)に嫌われ、弟・忠長(西郷輝彦)の方が寵愛を受けた。自然、家光派と忠長派が出来上がり、忠長が駿河に領地を得ると、西国大名の多くも江戸へ行く前に駿河へと立ち寄る様になっていった。
 乳母・春日局(中原早苗)の奔走によって、家光が家康より将軍職を継ぐことが決まると、忠長は大阪城を望み、これが受け入れられないと鬱屈した日々を送るようになる。当時、細川忠興、忠利親子の書簡に「忠長は松平忠輝(家康六男・謀反の噂により改易)のようになるのではないか・・・」と記されるほどで、細川家の予感は遠からず当ることに。

 ここまでが正史。

 映画は、この部分をベースに膨らませてあるのだが、一番正史と違う立場に置かれたのが老中・土井大炊頭利勝(芦田伸介)。幼少より家康の下で帝王学を学び、秀忠・家光に側近として使え、徳川家300年の磐石を築いた功労者である。映画では家光派の“知恵伊豆”こと松平伊豆守信綱(高橋悦史)対抗馬として忠長派を統括するが、本来なら家光側近中の側近なのだ。

 土井利勝は若い頃の家康そっくりであったそうで、家康の実子なのでは?という説がある。徳川家の正史「徳川実記」にも載せられていることから、かなり信憑性が高い説だが、これを元に書かれた小説が、先頃TV化もされた池宮彰一郎の「天下騒乱」。

 家光時代の政治を俗に「武断政治」というが、参勤交代の制度を確立、武家諸法度と共に大名や旗本たちを強烈な支配化に置いた。外様大名の改易・廃絶は相次ぎ、実弟・忠長とて容赦はしないことを見せ付けた。
 その一方で、禁中並公家諸法度の施行は公家たちを、慶安のお触書で農民たちを封建制度の枠に押さえ込んでいき、キリシタン禁教や鎖国令を敷くことで、外国からの影響(これが封建制度を根底から揺るがすことは、幕末に証明される)を遮断。

 家光&忠長の母・於江代は、織田信長の妹・お市と浅井長政の間に生まれた。姉は有名な淀君であるが、於江代も豊臣秀吉の元で幼女時代を過ごした。プライドが高いことは、姉に負けじと劣らずで、恐妻家で知られる秀忠が浮気した時など、相手の子を井戸に投げ込んだとも。それが原因で、秀忠は生涯側室は持たなかったといわれている。

 於江代は最初から徳川家の嫁だった訳ではない。秀吉の元で成長した於江代は、秀吉の命で配下の佐治一成というマイナー武将のところへ嫁ぐ。続いて秀吉の甥(姉・日秀の子、“殺生関白”秀次の弟)・秀勝のところへ嫁がされるのだ。
 この辺り、秀吉の寵愛を一身に受ける淀君とは雲泥の扱いなのが面白い。

 続いて九条道房(金子信雄)に嫁いだともいわれているが、それは秀勝との間に生まれた完子が嫁いだとも、道房はその完子の子であるともいわれていて定かではない。
 この映画で面白いのは、公家代表で陰謀を巡らせる人物に、その九条道房を選んでいる点で、家光VS忠長の争いで漁夫の利を得ようと暗躍するのが、於江代と関係あった人物という設定は旨い。
 公家側では烏丸光広(成田三樹夫)、三条実条(梅津栄)らが、道房と共に少ない出番ながら強烈な印象を残すが、その烏丸光広は実は家光派だった。家光連歌師として江戸城に滞在。室(夫人)は家康次男・結城秀康未亡人という体制ベッタリの人物でした。

 以下、第三回

『柳生一族の陰謀』(1) [2006年02月16日(木)]

『柳生一族の陰謀』(1)'78年製作、監督:深作欣二、主演:萬屋錦之介 他オールスター

 東映が社運を賭け、11年降りに製作した時代劇だ('67年の『十一人の侍』以来となる)。

 ヤクザ映画も下火になり、カラテ・ブーム、ポルノ路線もひと段落した東映は、映画産業の斜陽化にカツを入れるべく、かつて一世を風靡した時代劇に活路を求めた。その時代劇だが、'78年当時はTVの世界で花形番組として君臨しており、かつての時代劇スターたちや、映画黄金期を支えた監督以下スタッフたちは、TVでもうひと花咲かせていたのである。

 そのTVでも新しい芽が現れ始めていた。

 '72年にフジ系列で放送が開始された「木枯し紋次郎」は、股旅ヤクザのリアルな生活描写や、剣を知らない渡世人の滅茶苦茶な剣法が話題を呼び、ニュー時代劇として抜群の人気を誇っていたのである。その「木枯し紋次郎」を打倒すべく、主演の中村敦夫が怪我でシリーズ休止中に生まれた作品が「必殺仕掛人」(元々は池波正太郎の人気小説「仕掛人・藤枝梅安」から)で、影を基調とした陰影のコントラストで魅せる独自の映像や、ユニークな仕掛の殺陣に人気が集まり、これも大ヒット。映画から続く従来の時代劇路線に、一大改革を持ち込んだ。

 TV時代劇にリアルな殺陣を持ち込んだ最初の作品「三匹の侍」('63)の演出を担当した五社英雄、「木枯し紋次郎」は市川崑、「必殺」シリーズは深作欣二や工藤栄一と、TVから映画へ、映画からTVへと人材の交流も盛んになり、時代劇というジャンルの幅も、その質も随分と変化していたのだった。

 東映が時代劇を再開するに当って、白羽の矢を立てたのが、実録ヤクザ路線で東映の屋台骨を支えたエース監督・深作欣二。

 『仁義なき戦い』シリーズで任侠映画に止めを刺し、TVで「必殺」シリーズを成功させていた深作は、東映の目指すニュー時代劇にピッタリの人選であった。映画で時代劇を手掛けるのは初挑戦となる深作は、監督を引き受ける条件として、従来の時代劇的展開や約束事は、必ずしも守らなくても良いかどうか、確認して後引き受けた。

 完成した作品は“仁義なき徳川家の戦い”と揶揄され、従来の時代劇ファンの一部や、年配のファンからは嘲笑されたが、TV時代劇世代の圧倒的支持を受け大ヒットを記録。この路線に自信を持った東映は、以後数年の間に渡って大型時代劇を製作したのである。

 徳川家二代将軍・秀忠が死んだ。その息子・家光と、弟である駿河大納言忠長の確執から、それぞれの陣営が三代将軍の座を巡って合い争う。その間で暗躍する公家の存在や、将軍家兵法指南役を賭けた柳生の争い、戦乱に乗じて復興を企む根来忍者など、多彩な人物群像による“仁義なき戦い”が展開されるのだ。

 徳川幕府創成期に、実際に起きた将軍継承問題をモチーフに、虚実入り混じる人物像を、縦横に駆使した娯楽巨編である。この“虚実入り混じる”という点が、伝奇時代劇のミソで、時代劇ファン=歴史ファンとは必ずしも限らないであろうが、“虚実”の配分が絶妙であればあるほど、作品の成功度も高まるのだ。

 この映画は、その時代性と歴史的背景を知れば知るほど面白いものであります。次回はその辺りについてお送りします。
trackback Blog by isao.net