格闘技大戦争 [2008年10月02日(木)]

 佐藤戦における魔裟斗のダウンは、そのラウンドが始まった直前のローキックが効いていたからでしょう。丁度、前からのローが入った時、魔裟斗は思わず脚を後ろに引いてましたから。
 これで魔裟斗の出足が止まり、打ち合いで足が揃ったところからダウンになったというのが本当のところでしょう。

 それにしてもここからの盛り返しは凄かった。とにかくリーチのある相手に対して、最初からパンチは伸びていましたけど、足が出なくなってからでもよく前に出ましたよ。
 決勝のキシェンコ戦と合わせれば8Rの激戦を闘い抜いたのですから、今回に限っては魔裟斗にケチを付ける人もいないのでは?

 そのキシェンコ戦ですが、キシェンコ自身が準決勝のサワー戦でローキックのダメージを相当に貰っていました。これがあったから、佐藤戦での激闘というハンデが、魔裟斗にとって深刻なものにならなかったのは幸いでした。
 キシェンコ戦でも魔裟斗はダウンをしてしまいましたが、正直に言ってあそこまで無理して打ち合いをしなくても、ロー主体にいけばもう少し楽に勝てたと思います。
 何が魔裟斗をあそこまでの打ち合いに駆り立てたのか、それは魔裟斗本人しか知る由もないことですけど、とにかくこの準決勝・決勝の二試合は、格闘技史上に残る素晴らしい闘いでした。

 K-1が行っている子供の大会には私は反対です。体も出来上がっていない選手に、二ヶ月に一回試合をさせ、準決勝からはワン・デイ・トーナメントで二試合もするなんて、将来的に傷害の残る子供でも出たらどうするつもりなんでしょうか。
 たしかに、2KO制で5カウントと、ある程度の配慮はされていますが、本来ならヘッドギアくらいは付けさせるべきですよ!
 スター候補のHIROYA選手は、タイへ留学して修行付けの毎日ですから、ある程度体が出来ていましたが、そうなると他の選手との差があり過ぎて、こんなマッチメイクは世界基準なら絶対に通らないものだということは、ファンも理解しておくべきです。

 こんなの放送するべきではありませんよ。

 しかしこの秋は正に“格闘技大戦争”と呼ぶに相応しいほどの興行ラッシュでした。

 9月に入って大相撲の秋場所、23日にはDREAM.6、9月27日にK-1ソウル大会、9月28日には戦國.5、昨日がk-1 MAXで、アマですが10月5日には世界柔道団体戦もあります。

 実は大相撲とDREAM.6は実際に現地で観ました。相撲はDREAM.6の前日、朝青龍の休場前になった取組です。このまま引退ということはないのでしょうが、もしかするともしかするので、貴重な取組を観れて良かったですよ。

 旧PRIDEの流れを色濃く残すDREAMですけど、かつてのPRIDE全盛期の会場の熱気を知る者から見れば、やっぱり別モノなんだという確認をした大会でもありました。
 昔はあんなに観客の集中力が途切れるようなことはありませんでしたけどね。PRIDE崩壊から2年以上が経過し、ブームのファンと様変わりがしてしまったというのが現実のようです。

 ちょうど2年前のPRIDE無差別級GP決勝は、同じさいたまスーパー・アリーナでの観戦でした。一試合も見逃すまいとする観客の視線に支配された会場は、嫌が上でもリング上の熱気を高めたものですよ。
 それがどうです、たしかにミドル級GPのベスト4に残った選手は知名度が低かった、しかしメルヴィン・マヌーフ、ゲガール・ムサシ、ホナウド・ジャカレイ、ゼルグ・弁慶・ガレシックの四選手は、いずれも劣らぬ素晴らしい選手ですよ。

 当日はGPのトーナメント三試合に、リザーブマッチを含む全12試合というラインナップで、実際のところこれも集中力が途切れる原因でもありました。主催者側としては知名度の劣るGPの参加選手をカバーするため、スーパーマッチを並べてサービスしたつもりなんでしょうけど、興行のベストは絶対に8〜9試合までです。事実、2年前のPRIDEミドル級GPでは9試合しか行われませんでした。

 昔のPRIDEファンは随分と減ってしまったという現実を突き付けられたのが、11試合目のアリスターVSミルコが終わった直後でした。
 このカードが知名度のあるカードであることは否定しませんが、旬の過ぎたミルコの試合にそもそも多くは望めません。結果はご存じのようにアリスターの急所攻撃により、ミルコが試合不能となったためノーコンテスト。
 さあ、ここから決勝戦が始まるという段になって、ぞろぞろと帰り支度を始める観客たち。かなりの人数がミルコの試合が終わった後、決勝戦も観ずに帰ってしまうなんて、興行としては失敗でしょう。

 戦國は回を重ねる毎に良くなってはいるのですが、目玉のホジャー・グレイシーが来日中止でボルテージを落としてしまったのは残念です。K-1ソウル大会も、MAXに比べて低調だったヘビー級戦線にしては好勝負の連続で楽しめました。

 本来ならばこの10月にもアメリカでジュシュ・バーネットとアンドレイ・アロフスキーの試合が行われる予定でしたが、主催者側の都合により興行がキャンセル。
 実は私、この8月にアロフスキーが来日した折に本人と会ってるんですよ。その時にはジョシュ戦のことや、予定されているヒョードルとの試合(アロフスキーはヒョードルに最も近い男と呼ばれている)、そして年末にも日本で試合する交渉をしているとの極秘情報を本人の口から聞いていたのですが、どうやら全ての計画が狂ってしまいそうで残念です。
 
 体形こそ大柄なアロフスキーでしたが、握手した手が随分と小ぶりだったのがちょっと気に掛かりました。せっかくだからヒョードルを倒してくれるよう願っているのですけどね・・・。

 視聴率も客入りも、興行の数ほど人気が無いというのが現状の格闘技界。つくづくPRIDEショックが尾を引いていると言わざるを得ない。石井館長も出所したし、年末に向けて仕掛けていくのでしょうけど、03年頃のピーク時の熱気は当分戻ってこないんでしょうね。昨日の魔裟斗の試合なんか、格闘技ファンとしては視聴率20%を上げたい位の熱戦だったんだけど。

キネマ旬報 [2008年09月14日(日)]

 ちょいと古い話題で恐縮なのですが、「キネマ旬報」8月下旬号は、“ブルース・リー没後35年の今、クンフー映画が熱い!!”と題して、功夫片の特集を組んでおりました。

 表紙も『燃えよドラゴン』の李小龍、特集の第一部が“再考ブルース・リー”、第二部が“クンフー映画再熱”となっていて、日本における功夫片の歴史を辿りつつ、新作映画を取り上げて現在のクンフー映画ブームを検証している構成となっています。

 特集で取り上げられた作品は、

 『ドラゴン・キングダム』
 『カンフー・パンダ』
 『インビジブル・ターゲット』
 『カンフー・ダンク!』
 『ハムナプトラ3』の五本。

 先に公開された『少林少女』から『カンフーくん』にまで範囲を広げて、今回のブームが、世界的な流れであることを強調しています。

 だが、ちよっと待てよ、と。

 まあ、執筆陣の方々は解っていて書いたんだろうと思います。恐らくはそういう論調で書いてくれと、編集側から依頼があって、その要請に従って書いたのであろうことは、私も大人ですから想像はつきます。

 ブーム(今回のがブームだとは思わないけれど)にならなければ功夫片が語られないというのが、日本における功夫片の問題点のひとつで、今回以前だと『マトリックス』『グリーン・デスティニー』の時をブームと呼んで以来のことになりますか。

 実際のところ、欧米で最後にブームだったのは80年代のことで、それ以降は確実に文化として定着したものが、『マトリックス』へと花開いたというのが現実で、いつまでたってもアクション映画が正当に評価されないまま、いつまでもブーム頼りになってしまっている問題点を指摘されることがないまま、今回の特集本が出てしまった感があります。

 今年、各国で功夫を題材にしたり中国を取り上げた映画が多かったのは、単に北京オリンピックがあったから、中国ブーム(功夫ブームではない)がくるかもと思って足並みを揃えたにすぎない。
 そんなことは各ライター陣もお解りだったのでしょうけどね・・・。ちょっと残念な仕上がりの特集でした。

 今回ちょっと気になったのは、映画のタイトル以外“クンフー”と統一で表記されていたこと。

 手元にキネマ旬報'85年3月下旬号の功夫特集があるのですが、この頃はまだ“クンフー”と“カンフー”の表記が両方使われていて、当時の映画雑誌はみんなそうだったのですが、むしろ“カンフー”の方が多いくらいでした。

 最近は映画雑誌なんて見ることすらしなくなったため、いつ頃から“クンフー”表記で統一され始めたのか解りませんが、外国語の発音なんて絶対日本語化不可能なんだから、漢字表記出来るものは漢字にすればいいと思うのですけどね。同じ漢字文化圏なんだし。

 それにしても、かつてキネマ旬報といえば、1980年に關徳興の『黄飛鴻』シリーズや、胡金銓、劉家良の映画を紹介した香港映画特集を組んだこともあったのですが、同じ雑誌とは思えない、それほど低レベルの特集だったな。

 '80年の特集時(80年ですよ!、同じ号で『拳精』の公開情報が載っている時期!)には、“功夫映画”として統一表記、香港における『黄飛鴻』シリーズの意味や、“功夫映画”の武術指導の重要性について取り上げたことすらあるというのに!

 嗚呼、あのキネマ旬報は何処へ行ってしまったんでしょうね?

四次元殺法 [2008年09月07日(日)]

 9月3日にポニーキャニオンより「初代タイガーマスク大全集」というDVD-BOXが発売されました。

 ttp://www.ponycanyon.co.jp/tigermask/

 昭和56年4月23日のデヴュー戦から、昭和58年8月4日の最後の試合までおよそ2年4ヶ月、総試合数385試合、うちTV収録された試合は89試合。

 以前にも「猛虎伝説」というBOXが出ていて、初代タイガーの有名な試合はほとんど全部これに入っているんですよ(56試合収録)。
 今回発売のBOXは、残り33試合のうちの31試合が収録されていますが、まあ名勝負の残りみたいなもんですから、消化試合みたいなタッグマッチばっかり。

 とはいえ、いくつかの試合はマニア心をくすぐる顔合わせの試合もあり、その辺を見所として紹介しておきます。

 お薦めの試合第一位は、昭和57年1月8日に行われた“タイガーマスク&藤波辰巳&アントニオ猪木VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&ダイナマイト・キッド&ベビーフェイス”。
 実はこの試合、fake的にはもう一度観たくて観たくてしょうがなかった試合。以前のBOXには収録されていなくて、随分とがっかりしたもんです。

 当時の背景を話しますと、この試合がタイガーのメインイベント初登場試合となります。当時の新日本プロレス(以下、新日)には、絶対的メインの猪木、No.2の藤波(長州力のかませ犬発言は昭和58年10月8日)がいましたし、タイガーの試合は視聴者を引き付けるため、番組開始時に合わせて組まれていましたから、メインに登場することはなかった。
 初のメイン、猪木とのタッグも初、ましてや相手はヘビー級のブッチャーという状況は今観ても新鮮なはず。

 プロレスはショーなのですが、やはり人間がやっている以上、感情が先走ってしまうことが多々あります。行き過ぎると、俗に言うセメント・マッチとかに発展するのですが、そこまでは行かなくても、時折見え隠れする選手の感情が爆発する瞬間に、プロレスの醍醐味があると思っています。なまじなガチの試合なんかより、こっちの方が面白い場合がありますからね。

 今回の注目点はやはりタイガーとブッチャーの絡みでしょう。実はブッチャーは新日移籍後初の猪木とのシングルマッチを28日に控えており、子ども騙しのJrの選手になんか構っていられないという態度がアリアリなんですよ。ドロップキックは片手で払いのけるは、フライング・クロスチョップはまともに受けないは、場外乱闘ではタイガーをボコボコ。タイガー側から見ればいいとこなしの試合なんですが、ちょいと緊張感の漂ういい場面満載の試合。一瞬だけど猪木とキッドという珍しい絡みも実現するし、この試合だけで“買い”なんですよこのDVD。

 同様のタッグでタイガーがメインに登場した例は他にもありますが、以前のBOXに収録されていた“タイガー&藤波&猪木VSスティーブ・ライト&ドン・ムラコ&マスクド・スーパースター”や、惜しくもTV収録されなかった“タイガー&長州(!)&猪木VSブレット・ハート&ビリー・グラハム&ワフー・マクダニエル”なんて試合も記録に残っています。

 お薦めの試合第二位は、昭和57年3月4日のスティーブ・ライト戦。

 ライトとの試合は同年4月1日のものが以前のBOXに収録済みでしたが、今回は前哨戦の試合。
 タイガーマスクといえば、メキシコのレスラーと派手な空中戦ばっかりしていたようなイメージもあるかもしれませんが、現役時代から「メキシカンとはもう試合したくない・・・」とこぼしていたものです。
 タイガーが手が合ったのは実はヨーロッパ系の選手が多く、小林邦明や寺西勇などの日本人対決を除けば、ヨーロッパ系の選手との間に名勝負が多い。

 そもそも最大のライバルであった爆弾小僧ダイナマイト・キッド、暗闇の虎ブラックタイガー(“ローラー・ボール”マーク・ロコ)は共に英国系ですし、ピート・ロバーツ、クリス・アダムス、デイブ・フィンレー、マーティ・ジョーンズらも英国マット組。
 ドイツ圏からの刺客、カズウェル・マーチン、ボビー・ガエタノ(出身はバハマ)なんかもタイガーと好勝負を繰り広げました。

 そんな中、タイガーと合わなかったヨーロッパ系レスラーが三人(もう二人は後述)いるのですが、それがスティーブ・ライトなんですね。
 スティーブ・ライトといえば、“蛇の穴(スネーク・ピット)”出身で、ランカシャー・スタイルのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの申し子みたいな存在。同じく“蛇の穴”出身のピート・ロバーツはタイガーの好ライバルだったのに、どこがどう違ったのか?

 “蛇の穴”というのは、イギリス北部はランカシャー州ウィガンにあるキャッチの道場。炭鉱夫の集まる街ウィガンで、坑道のような狭い道場はいつしか“蛇の穴(スネーク・ピット)”と呼ばれるようになったという。
 創設者のビリー・ライレーによるこの地獄の道場からは、ジョー・ロビンソン、ビリー・ジョイス、カール・ゴッチ、ビル・ロビンソンから、バート・アズラティ、ブルーノ・アーリントン、ロイ・ウッドなどの欧州名レスラーを排出。タイガーのライバル達、キッド、ロコ、ロバーツ、そしてスティーブ・ライトもここの出身だ。

 この“蛇の穴”という語感が、後に梶原一騎によって漫画「タイガーマスク」の修行場“虎の穴”に使われた訳だから、本家本元の“蛇の穴”からの刺客はタイガーマスクにとって必要不可欠な存在だった。

 なのに何故かスティーブ・ライトに対するタイガー本人の評価は低くて、試合がし難かったものか、凡戦に終わっています。当時のTV放送でもこの試合はダイジェスト放送でした。その辺を今回のBOXでは確認したい。

 お薦めの第三位は、昭和57年5月21日の“タイガー&木戸修VSカルロス・ホセ・エストラーダ&ホセ・ゴンサレス戰”。

 これはもう顔合わせの妙に尽きます。栄光のディファジオ・メモリアル&ブルーザー・ブロディ刺殺犯というタッグは、二度と観れない組み合わせ。
 エストラーダがいなければ、日本におけるJrヘビー級の歴史はなかった訳ですから、タイガーとの対決は歴史の結点だったな。

 お薦め第四位は、昭和57年10月15日の“タイガー&木戸VSレス・ソントン&ジョニー・ロンドス戰”。マニア的にはこれが一番観たいのではないか?

 レス・ソントンといえば、タイガー曰くワースト試合の相手。何も出来ないしょっぱいレスラーの代表格で、タイガーにNWA.Jrのタイトルを渡しにきただけの人物といわれています。以前のBOXにその時のタイトル戦が収録されていました。
 一説には、試合前にかなりゴネてタイガーに負けるブックを嫌がった為、タイガーの中の人が随分とキレたなんて話もありますが・・・。こいつがタイガーと合わなかったもう一人の欧州系レスラー。タイガーにタイトルを奪われた後も、勝手にチャンピオンとして防衛戦を行っていた不届き者。

 ソントンなんてどうでもいいんですが、今回の目玉はジョニー・ロンドス。カール・ゴッチのライバルとして名を馳せた伝説のシューターは、外人選手が手薄な旗揚げ期の新日プロにゴッチの引きで来日。無名の外人ばっかりのシリーズで猪木がシリーズ・ノーフォール宣言をしたところ、これに怒ったロンドスは見事に猪木をフォールしてみせた。
 タイガーとの対戦時はもう50歳近い大ベテランなんですが、そのグラウンドの動きの凄さといったら・・・!必見!

 長くなったんだけど、もうひとつだけどうしても取り上げておきたいのが、昭和58年3月4日の“タイガー&星野勘太郎VSアブドーラ・タンバ&ミレ・ツルノ戰”。

 タイガーが合わなかった欧州系レスラー最後の一人が、“ユーゴの鷹”ミレ・ツルノ。
 WWU世界ジュニア王座として、国際プロレスで繰り広げられた阿修羅原との試合は、国際末期に残された永遠の名勝負のひとつ。
 この実力者が何故かタイガーとは手が合わなかった。シングルでも五回くらい闘っているんですが、タイガーが怪我で不調だったこともあって、タイトル戦はTV放映されなかったんじゃないかな?
 BOXには新旧を通じてもこの試合しか対ツルノ戰は収録されておらず、貴重な絡みとなっています。

 初代タイガーマスクの凄さは、何といっても技の安定感だった。今では、タイガー以上の難易度の技をする選手ならいくらでもいますが、みんな失敗が多い。難易度が高いから失敗するというのでは技としては失格ですよ。
 今観返しても、初代はほとんど技の失敗をしなかったし、たとえ若干のミスがあったとしても、その後のリカバリーで帳消しにしてしまえる動きが出来た。だから今観ても初代タイガーマスクの試合は綺麗なんですよ。

 後はアクロバティックな動きの後の、タイガーの目線に注目して欲しいです。回転系や飛び技の後に着地後、タイガーは必ずすぐに相手を視認しているんですよね。いくらショーといっても、プロレスは戦いを演出しているのですから、戦う相手から目を離してはいけないんですよ。今の選手はここが出来ていない。

 日本のプロレスの歴史の中で、スーパースターだったのは、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木と、初代タイガーマスクだけ。

 今回のBOXはそれを証明する、貴重な歴史の資料だと思います。

殺人狂 [2008年09月03日(水)]

 “殺人狂”・・・プロレスラーの異名は数あれど、これほどインパクトのあるものも、ちょっと珍しい。

 この異名を頂戴したのは、昭和のプロレス・ファンには懐かしいキラー・コワルスキー。ユーコン・エリックの耳をニードロップで削いだことで有名で、コワルスキーといえば“耳削ぎ”なのだ。

 野暮を承知で書かせて貰うが、このニードロップによる耳削ぎというのは伝説である。これに付随する尾鰭も含めて、コワルスキーには素晴らしい伝説が多々あったのだ。そのいくつかを紹介したい。

 '59年10月15日、モントリオールで事件は起きた。試合開始から16分21秒、ロープに足の絡まったユーコン・エリックに、コワルスキーが得意のニードロップ。身動きの取れない状態のエリックに対し落とされたニードロップは左耳を直撃。コワルスキーには即座に反則負けが宣告され、エリックは担架で運ばれた。リング上には削げ落ちたエリックの耳が残り、リングサイドのカメラマンがカメラを向けた時には、まだピクピクと動いていたという。それを見たコワルスキーは以後、肉が全く食べれなくなり、菜食主義者へと転向したという・・・。

 これが昭和のプロレスファンが聞かされてきた伝説である。

 実際はこうだ。そもそも日付からして違う(笑)。実はこの伝説、'63年に39歳で初来日の決まったコワルスキーを売り出すため、日本プロレス(当時)側が考えた売り出しのストーリーだった。そのため、来日時期の近年ということで'59年に変更されていたのである。
 耳削ぎ事件そのものは実際にあったことだが、それはコワルスキーもデヴュー間もない'52年のこと。ニードロップを落とすまでの経緯は同じだが、受身のヘタなユーコン・エリックが、不用意に顔を動かしてしまったため、リングシューズのエッジで削げてしまったという、全くのアクシデントだった。

 アクシデントとはいえ、耳が削げ落ちてしまったことは事実で、それまで本名のウォルター・コワルスキー、もしくはウォルディック・コワルスキー、ターザン・コワルスキーなどのリングネームを使っていたコワルスキーは、一夜にして“キラー”コワルスキーという大ヒールへと変貌したのである。

 このリングネーム変更にも面白い逸話がある。試合の翌日にエリックの病室へ見舞に行ったコワルスキーは、逆にエリックから「今回は俺のミスだ、だから気にするなよ」と慰められる。それを聞いて気が楽になったコワルスキーは、エリックと二人で笑い合ったのだが、たまたま病室を覗いた看護婦は、耳を削いだ当の相手がヘラヘラ笑っているのを見て、「何て冷血漢!」と翌日の新聞にコメントを載せてしまった。これによりウォルター・コワルスキーは“殺人狂”としてのプロレス人生を歩むことになったのだ。

 話はまだ続く、コワルスキーが菜食主義だったのも本当だ。それはあくまで本人独自の健康法とコンディショニング調整のためだったのだが、時期が丁度耳削ぎ事件の後だったため、これも事件と関連付けられて先の伝説に加えられたのだ。
 話はまだまだ続く、その相手のユーコン・エリックは事件から10年後、離婚問題等で精神的に追い詰められ自殺してしまったのである。これも当然のように“殺人狂”伝説を彩ることにひと役を買ってしまう。「エリックは耳削ぎ事件のトラウマから立ち直れず自殺してしまった・・・」と。

 死んだのがエリックひとりなら“殺人狂”とまでは呼ばれなかったかもしれない。インディアン・デスロックの元祖・ドン・イーグルというレスラーも、コワルスキーのニードロップで背骨を負傷させられたことがあったが、彼も自殺し、その理由がコワルスキーの“殺人狂”伝説の勲章に加えられてしまった。実際はドン・イーグルは自殺ですらなかったのだが・・・。

 初来日が39歳と、ピークを過ぎた状態であったため、私の世代ではコワルスキーの全盛期はリアルタイムでは見たことがない。初めて見たのは日本プロレスのNWAタッグリーグ戦('71)における、バディ・キラー・オースチンとのコンビだった。このバディ・キラー・オースチンというレスラーこそ、試合中にパイルドライバーで二人もレスラーを殺している本当の“キラー”だったのだが、彼の異名は“殺人狂”ではなく“狂犬”だった。

 シュートにも強かったといわれるコワルスキーは、若い時のアントニオ猪木の憧れの存在であり、ブルーザー・ブロディはそのファイトスタイルに影響を受けたと語る。彼が得意としたキングコング・ニードロップは、コワルスキーの得意技を盗んだものだった。
 猪木はコワルスキーの恐ろしさを何度も語っており、「我を忘れた時のコワルスキーは、何をしでかすか解らない恐ろしさがあった。それはシンなど足元にも及ばない迫力だった」とまで述懐している。

 コワルスキーはこの'71年の来日で猪木とシングルであたっており、インタヴューでは、「猪木にシュートを仕掛けられたので、やり返したら猪木は逃げてしまった。控え室にまで行ったがそこにもいなかった。あいつはチキンだ!」とボロクソにコキ下ろしている。猪木自身コワルスキーの恐ろしさを何度も語るくらいだから、よほど怖かったんでしょうね。

 晩年は全日本プロレスに来日、若いころから薄くなり始めた頭を随分と気にしていたそうで、この全日来日時にはマスクマンとして登場。マスクを被った理由が、「カツラが試合中にズレるから」というものだったらしく、プロレス界一の変人と呼ばれたのも肯ける。

 同じカツラ・レスラーのブルーノ・サンマルチノが、ニューヨークでチャンピオン(当時WWWF、現WWE)として売り出した頃、サンマルチノの壁として立ちはだかったのがコワルスキーだった。実はサンマルチノの師匠はあのユーコン・エリックで、かつて全米屈指の遺恨試合として鳴らしたライバルの弟子に胸を貸してやることで、コワルスキー本人はあの試合に落し前をつけたかったのかもしれない。

 サンマルチノとの抗争('74頃)がプロレスラーとしてのコワルスキー最後の花道で、'77年に引退を表明して以降は、マサチューセッツ州でレスリング・スクールを開校。現在WWEで活躍するHHHや、新日に来ているジャイアント・バーナードなどを育て上げた。

 ずっと未婚で、生涯独身を貫くかと思われたコワルスキーだったが、'06年に80歳で初婚。相手は二度も夫を亡くした未亡人という、ご婦人だったとか。
 新婚ホヤホヤといってもいいコワルスキーだったが、'08年8月30日に心不全のため帰らぬ人となった。奥さんはこれでまた未亡人となった訳だが、最後の最後まで逸話にはことかかないのが、“殺人狂”キラー・コワルスキーの生涯であった。

 ご冥福をお祈りいたします。合掌。

ロードショー休刊 [2008年09月02日(火)]

 ロードショーが休刊 11月発売の1月号で集英社は1日、月刊の映画専門誌「ロードショー」について、11月に発売する平成21年1月号をもって出版を終了すると発表した。

 同誌は昭和47年3月に創刊。国内外の映画スターのグラビアやインタビューで人気を集めた。

 発行部数は昭和50年代に一時35万5000部に達したが、最近の平均発行部数は5万部で推移していた。
 集英社は「映画情報におけるインターネットやモバイルの比重が高まるにつれ、映画雑誌が置かれた状況は年々厳しくなり、部数、広告売り上げが減少傾向にあった」としている。


ttp://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080901/tnr0809011139002-n1.htm

 だそうです。

 初めて読んだのは74年だったなぁ・・・。創刊が72年というのは驚きですが。

 当時は第一次功夫映画ブームの真っ只中、特に李小龍関連の特集記事はライバル誌に差を付けていたせいか、私はどちらかというとロードショー派でした。
 初めて自分で買ったのは78年、『未知との遭遇』公開を特集した号だった。それまでは、親戚や近所のお兄さんのお下がりを読んでいたものです。

 80年代の集英社は、これもジャッキー人気に乗っかって商売をしていたせいか、毎号欠かさず読んでいたのはロードショー誌の方。最もこの頃になると、発刊されている映画雑誌には全部目を通していましたけど。

 80年代も後半になってくると、海外アイドルのグラビア誌的側面が強くなり、90年代には目を通すことすらしなくなりましたね。

 ジャッキーの日本における人気のバックアップには、東宝東和宣伝部とロードショー誌の力がかなり関係してくるのですが、ある時期からロードショー誌はパッタリとジャッキーを取りあげなくなりましたね。これには随分とドロドロした裏事情が絡んでいます。あまりに酷い内容なんで、ちょっと書けないですけどね。
 ちょうどジャッキー人気も落ち始めていた頃だったとはいえ、この件が無ければどうだったんでしょうか?気になるところではあります。

 時代の流れとはいえ、まさかの休刊に驚かされましたよ。ライバル誌の方はどうなるんかなぁ・・・?

北京閉幕 [2008年08月25日(月)]

 オリンピック会場や、選手村でのテロとかこそ起きなかったものの、オリンピック期間中に、チベットでは虐殺が続いているとダライ・ラマが会見を開き、その他の自治区でも同様のことが起こり続けた。
 ロシアとグルジアは一応の停戦をみたが、イスラエルによるイラン空爆が大会中に開始されるとの風評が飛び、現に米軍はイスラエル支援のためペルシャ湾へと船を進めた。

 IOCはこれらの事態に何らアクションを起こすでもないばかりか、取材規制問題や、各国からの判定に対する抗議も一切無視、体操選手の年齢詐称疑惑にも沈黙したままだ。

 何が平和の祭典だったのか?

 どこがひとつの世界だったのか?

 ベルリン、ミュンヘン、モスクワ、ロス以来、最も政治的な大会で、IOCが金儲けにしか興味がないことを露呈した大会であったことだけは間違いない。

 野球の五輪種目復帰問題に関してIOCの見解が発表されたが、それはもう酷いものであった。
 「メジャーリーグが選手を派遣しないので金にならない、だからメジャーが選手を出すなら考える」
 もはや開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 その野球だが、以前の回で星野ジャパンは応援する気になれないと書いた。大会も終わったことだし、その理由だけは書いておく。敗戦に関して選手を責める気は、無い。

 '88年10月19日、近鉄バファローズ(現・オリックス・バファローズ)は、川崎球場でロッテ・オリオンズ(現・千葉ロッテ・マリーンズ)とダブル・ヘッダー(一日に二試合戦うこと)を行った。

 この年、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)とのペナント争いは熾烈を極め、一時期最大でも8ゲーム開いていたゲーム差は、近鉄が残り三試合となったところでゲーム差無しとなり、先に日程を終えた西武は、ロッテ戦の結果待ちで優勝が決まることとなった。

 近鉄側は一敗も許されず、引き分けがあっても西武の勝ちが決まってしまう展開の中、ロッテとのダブルヘッダーに臨んだのだ。

 第一試合から川崎球場は満員となり、会場に入れず溢れたファンが、近所のビルやマンションに登って観戦するという異常事態。マスコミも注目し、TVでも特番放送が組まれた。

 第一試合、一点差で負けている近鉄を救ったのは、既に引退を決めていた梨田昌孝。九回二死からの逆転タイムリーという劇的な勝利で優勝へ望みを繋ぐ。

 続く第二試合、八回まで4対3と近鉄のリード。エース阿波野秀幸を投入し、必勝の体勢に入った近鉄の前に立ちはだかったのは、首位打者のかかったロッテの高沢秀昭。
 ここで高沢に無情の一発が出て同点。近鉄ファン怒号の中、淡々とベースを回る高沢。

 引き分けでは近鉄の優勝はない。当時のパ・リーグ規定では、四時間を超える試合は引き分けとなることが決まっており、近鉄の敵はロッテよりも時間になってきた。
 九回に阿波野の二塁への牽制を巡り、ロッテの有藤道世監督(当時)が猛抗議、試合は実に九分間に渡って中断してしまう。
 試合はなんとか延長戦へともつれ込んだが、10回表の近鉄の攻撃はゼロに終わり、この時点で近鉄の優勝は消えた。

 時間切れまでは残り三分、ロッテの攻撃が三分以内に終了すればもう一回だが、物理的にはほぼ不可能、それでも10回裏の守備につかなくてはいけない。ファンはもちろんだが、選手もみんな泣いていた・・・。

 この試合は、後に“涙の10.19”として永遠に語り継がれる名勝負となった。看板番組の「ニュース・ステーション」(当時)を素っ飛ばしてまで特番放送をしたTV朝日の視聴率は、関東で30.9%、関西では46.7%、瞬間最高視聴率60%を叩きだしたのである。

 翌日はこの試合が一面のはずだった。これをプチ壊した男さえ現れなければ。
 
 近鉄と西武が優勝争いをしていたその頃、水面下で球団買収を仕掛けていたのがオリックス会長の宮内義彦。低迷する阪急ブレーブス(後のオリックス・ブルーウェーブ、現・オリックス・バファローズ)を買い取り、劇的な近鉄ダブルヘッダーの日に発表すれば誰もがオリックスの社名を覚えるだろうとの目論みを実行。
 事実、「球団を持っていれば、あのNHKまでもが連日スポーツニュース等でオリックスの名を出してくれる。それだけで球団を所有する意味がある」と、この買収発表が確信犯であったことを裏付ける発言をしているのだ。

 この、くそったれ野郎が日本の野球界に行った悪行はこれだけではない。

 2004年、突如として噴き出した球界再編問題、低迷するパ・リーグ人気の中でも最低人気のオリックスは、球団経営がお荷物となり、西武オーナー・堤義明、読売オーナー・渡辺恒雄(いずれも当時)と謀り1リーグ構想を進め、1リーグありきで近鉄との合併を発表。

 ライブドアが球団の救済に名乗り出るが、あくまで1リーグが基本であったオーナーたちによって阻まれる。最も企業としてのライブドアには政財界でも疑問符がついており、後のホリエモン騒動をみても、彼の参入を断固として阻んだのは正解だったが。

 ファンや選手会の反発を喰らい、この1リーグ構想は頓挫。それでも合併は推進されオリックスと近鉄は合併、両球団のファンを悲しませた。

 この時、選手会代表としてヤクルト・スワローズの古田敦也(当時)が、渡辺恒雄との会見を希望、それに対して「無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が!」と発言。渡辺恒雄の人間性が垣間見えたこの場面は、ファンの更なるヒートを買った。

 くそったれ宮内と組んで球界を思うがままに操ろうとしたCock Sucker渡辺が、実は星野ジャパンの裏で暗躍しているのだ。

 くそったれも相当だが、Cock Suckerに至っては更にタチが悪いのだ。

 パ・リーグはオリックスを除いて(当たり前だとは思うが)、地域密着型経営が成功し、人気も球団経営も上向いてきた。
 むしろ巨人人気にだけ頼ってきたセ・リーグの方が深刻で、交流戦によって巨人戦放映権の減ったセ・リーグからは、第二、第三の合併球団が出てもおかしくはない。

 巨人の人気低迷(これも当たり前だとは思うが)も深刻だ。

 96年にCock Suckerがオーナーに就任して以降、資金力に物を言わせた大型補強は、生え抜きの台頭を阻み、そのなりふり構わない姿勢は他球団のファンはおろか、巨人ファンからもそっぽを向かれつつある。

 今でこそ保守派の大物のように言われているが、元々共産党員だったCock Suckerは、自民党の大物・大野伴睦の番記者時代に保守派と親交を深め、右翼の児玉誉士夫との付き合いから、数々の事件で暗躍。また中曽根康弘の参謀として保守派を取りまとめてきたが、近年にまた共産党に鞍替えしたという変節漢。だから北京にご執心だったのかは不明だが、こんなやつ欠片も信じられん。

 Cock Suckerが巨人の視聴率テコ入れのために、星野仙一を巨人の監督に招へいしようとしたのは2005年。03年に原辰徳監督を解任、堀内恒夫を監督に就任させるが、これも不振で星野に頼った訳だが、これも内外からの批判にさらされた揚句、星野からもやんわり断られ頓挫。

 現在の第二次・原政権が不振に終わった場合、再び星野に監督要請をするべく、その実績作りとして選ばれた場が星野ジャパンだった。連日、日本テレビのニュース番組で、巨人戦以上の枠を取り、星野ジャパンを取り上げてきた理由がこれで解っていただけるだろうか?

 結果が残せなかった星野ジャパンだが、Cock Suckerとくそったれは次なる手を打ってくるはず。この二人、いまだ1リーグ構想を諦めてはいない。

 一部マスコミ(テレビでは絶対出ない内容だが)は、Cock Suckerとくそったれがジャイアンツを中心とした一部人気球団でメジャー・リーグ極東地区として加盟申請、その際の放映権料を独占しようと企んでいると指摘する。

 その第一歩がWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、オリンピック終了後、早々と星野の監督就任が発表されるという手回しの良さ。

 彼らの影がチラつく限り、野球ファンとしては素直に日本代表を応援出来ないというジレンマは続くのである。

鉄腕投手 [2008年08月22日(金)]

 昭和三十三年、西鉄ライオンズ(埼玉西武ライオンズの前身)は、日本シリーズで宿敵・読売ジャイアンツと対戦。第一戦から第三戦までを落としたが、絶対に負けられない第四戦、エース・稲尾和久の登板で勝利すると、そのまま波に乗り四連勝で逆転優勝。

 この試合が今に至るまで語り継がれているのは理由がある。

 第一戦、第三戦にも登板し、ジャイアンツに苦杯を嘗めた稲尾は、四戦以降、第七戦までひとりで投げ抜き、西鉄ライオンズに奇跡の優勝をもたらしたのである。
 十日間で六試合に登板、投球回数は実に四十七回、投球数五百七十八球は、日本野球史はおろか、世界の野球史に残る、空前絶後の大記録だ。

 「神様、仏様、稲尾様」とは、その時の西鉄ファンが残した言葉だが、全ての野球ファンが、この偉大なる投手に対し、敬愛の念を込めて“鉄腕”と呼んだ。

 時は平成の世に移り、もうひとりの“鉄腕”が誕生した。

 北京オリンピック、日本女子ソフトボール・チームのエース・上野由岐子選手その人だ。

 日本チームは毎回金メダルを期待されながら四位、銀、銅と常にあと一歩のところで優勝を逃し、シドニーでは全勝で決勝に進みながらも、ページシステム(三位決定戦を勝ち上がったチームと決勝を争う)をクリアしてきたアメリカに敗れた。
 アテネではエース・上野がオリンピック史上初の完全試合も達成したが、チームは銅メダルと涙を飲んだ。
 
 今大会以降、ソフトボールは競技種目から外れる、これが最後のチャンスだった。

 予選二位の日本は、初戦に負けたアメリカと準決勝で対戦。ここでもアメリカに敗れ、ダブルヘッダーでオーストラリアと三位決定戦を迎える。死闘と呼ぶにふさわしい戦いは、延長の末に日本が勝利、これでページシステムにより決勝へと進む。

 上野はこの二試合を投げ抜き、決勝のアメリカ戦でも先発完投。日本はついに念願の金メダルを獲得した。優勝の立役者である上野は、三試合連続登板、投球回数二十八回、投球数四百十三球という大活躍で、日本ソフト悲願の金メダルに大きく貢献した。
 
 稲尾の快投からちょうど五十年、日本球界は、二人目の“鉄腕”を歴史に刻んだ。

中間総括 [2008年08月18日(月)]

 塚田真希選手は宿敵・[イ冬]文選手に敗れて銀メダルだったとはいえ、決勝の試合は今大会屈指の名勝負だった。特に塚田選手が負傷したという寝技の攻防は見ごたえ抜群で、塚田の抑え込みを腋固めで切り返す[イ冬]文は、あの巨体からは信じられない体の柔らかさだった。
 あそこで勝機を逸したように思うが、果敢に攻め続けた塚田選手の姿は、結果として一本負けだったにせよ、観る者の胸を打つ素晴らしい戦いぶりだった。試合後は泣いて悔しさを顕わにしていたが、胸を張っていい銀メダルです。

 石井慧選手も見事に金メダルで、男子柔道は正しく土壇場で踏みとどまった感はある。これで男女ともに金二つ(他に女子は銀1、銅2)ずつ、帳尻だけは何とか合った。
 アテネ(金8、銀2)よりは悪い結果になるだろうとの予想通りとなってしまったが、石井選手や中村選手など、若い世代は総合柔道に対応出来ていたのが今後への期待を持たせてくれるか。

 石井選手は全日本の王者だが、国内では低い評価を下す向きもあった。彼は積極的にレスリングにも出稽古にも行き、ブラジリアン柔術も茶帯を修得しており、負けを許さない国士舘スタイルの柔道であるため、ともすればポイント柔道とも揶揄されていたからだ。
 だが実際にはこのスタイルでなければ、ルールが著しく改正されない限り、今後の日本選手は海外では戦えないのではないか?

 レスリングも柔道と同じく女高男低という結果で、男子代表の笹本選手、松本選手はともに予選敗退。
 女子は吉田沙保理選手が金、伊調千春選手が銀、伊調馨選手が金、浜口京子選手が銅メダルと、アテネ大会と同じ結果に。

 結果は同じだったとはいえ、各選手とも内容はかなりの苦戦を強いられていた。日本の女子レスリングは、競技自体に早くから取り組んでいたため、各国選手との間に差があったのだが、これで随分と縮まったことが判る。

 それにしても浜口選手を破って決勝進出、金メダルを獲得とした王嬌選手は強かったでかね!あの浜口選手が、力で返されてのフォール負けですから。
 世界の徹底マークの中、世界大会では常に誤審に泣かされてきた浜口選手ですが、屈辱の敗戦にも気落ちすることなく、素晴らしい内容の試合で獲得した銅メダルは、結果こそアテネと同じでも、価値ある銅メダルだと思います。

 競泳陣のがんばりも特筆すべきものでした。

 絶対に金を期待されている中での北島選手、100m平泳ぎ決勝での涙に、今大会における彼のプレッシャーが集約されていた。水泳最終種目となった男子4x100mメドレーリレー、最後まで世界と競い合っての銅メダルは日本競泳陣全体に対するご褒美だった。

 中国がいる以上、表演競技で金は無いと思っていましたが、それでも体操は男女ともよくがんばりましたよ。今日からシンクロ、新体操などが始まりますが、中国絶対有利の中、日本選手団の活躍を見守りたいです。

 なでしこに比べてサッカー男子は・・・・。ワールドカップもそうだったんだけど、日本は世界と争う実力は無い三流チームであるという事実に、ファンもマスコミもまず目を向けないと。その上でどうすべきかを論じあうのが筋で、いたずらに“○○ジャパン”と煽るのはもう止めにして欲しい。

 釜本とラモスが別々の媒体にそれぞれ書いていましたが、Jリーグ発足以降、日本サッカー界はFWを育ててこなかった。それは少年サッカーに至るまで徹底されているのだと。
 これはどうしてかというと、優秀なFWが一人で活躍して目立つことを全ての指導者が嫌うんだそうです。パス回しで面を上げて、ゴール前のどさくさで得点した場合、指導者の戦術といって褒められるが、得点力のあるFWひとりに活躍されてはそうもいかない。おまけに負けた場合は指導者が真っ先に首を斬られるでは、FWを育てる気にならないと釜本たちは言っているんですよね。

 これが本当ならサッカーの未来は果てしなく暗いですよ。

 今現在、星野ジャパンはカナダと試合中でして、今日落としてしまうと決勝進出が難しくなるんですな。実は今回の星野ジャパンは色々な理由(野球の日程が終了したら書きます)で応援する気が薄いのですが、野球好きとしてはやはり、出ている以上勝って欲しい!
 私は30年来のヤクルト・スワローズ・ファンなんですが、今のチーム状態で、チームNo.1打者の青木選手と、チームのまとめ役にして守備の要である宮本選手を持っていかれているんですよ。

 各チームのファンも同じような気持ちを抱いているでしょうが、代表選手が発表された時に、楽天ゴールデン・イーグルスの野村監督が言った「これだけ連れて行くんなら金は獲って貰わんと・・・」っていうのが、全ての野球ファンの本音です。

 

男子壊滅 [2008年08月15日(金)]

 鈴木桂治も負けた。

 全ての選手が谷本選手のように勝つことが柔道の理想ではある。だが、現実はどんどん総合柔道の方向に流れており、内柴選手のようにグレイシー柔術へ出稽古に出向く選手だけが世界で生き残っていくようになるだろう。

 金メダルを獲得したモンゴルのナイタン・ツブシンヤバル選手の試合は、まるでレスリングであったが、柔道がオリンピック種目として、「武道」ではなく「競技」の道を選択した時から、競技の中で最善の勝ちを目指す方向性が生まれるのは仕方がないことなのだ。相手が柔道をやらないから・・・は言い訳でしかない。

 武道としての道を選択して、オリンピック競技としての参加申請を行わない剣道のような選択肢もあるにはあったが、もはや競技化された柔道において、それは望むべくも無いではないか。

 ナイタンは最初からタックル(諸手刈りや朽木倒しとは呼びたくない)だけを狙っていた。鈴木もそれは判っていたろうが、最後の一本を決めたタックルだけは、フェイントだった。いや、フェイントのタックルを決めるための布石を打ってタックルを仕掛けていたというべきか。
 VTRで確認して欲しい。最後のタックルに行く瞬間、ナイタンは一瞬背筋を伸ばし鈴木の目を見る、これに釣られて鈴木も背筋を伸ばして組む反応をしてしまう。
 これは打撃系の格闘技でいう目のフェイントってやつ。実際に蹴る方向と違う方を一瞬見ることで、意識を散らしてしまう高度なフェイント技。

 今回の惨敗は、日本男子柔道の、総合柔道への軽視がこの結果を生んだのは間違いない。

 中間距離の間合いから、組まないで戦う選手がいるなら、当然、打撃系格闘技のような、目のフェイントも含む仕掛けもあるのが総合柔道ということだ。
 
 今日、石井慧選手が金メダルを取ってもチャラには出来ないが、せめて将来に期待の出来る柔道を見せて欲しい。

 明るい話題で締めくくろう。
 
 上野雅恵選手も、谷本選手同様怪我を乗り越えて復活、見事に金メダルを獲得。彼女が怪我で出場出来なかったシーズンは、柔道一家の家族が対戦相手のデータを収集してサポート。父の経営する町道場出身からオリンピック二大会連覇は、素晴らしい偉業である。おめでとう!

日本柔道 [2008年08月13日(水)]

 「一本を取る柔道を教えられた、私はそれを貫いた」

 アテネに続いて、オール一本勝ちで金メダルを獲得した谷本歩美選手は、試合後のインタヴューで誇らしげに語った。

 決勝の相手は因縁のルーシー・デコス(仏)。ジュニア時代からの谷本のライバルで、01年の福岡国際で勝って以降、谷本はデコスに負け続けた。アテネではデコスが先に負けたため対戦は無かったが、ドイツ国際、世界柔道、ワールドカップと、ことごとく勝てなかったのである。

 福岡ではポイント勝ちだった。

 試合後、そのデコスに「一本を狙いに来い」と叱咤される。谷本の一本を狙う柔道はこの時から始まったのだ。
 
 デコスだけではなかった。今回、谷本が対戦した相手(孔慈英、ゴンザレス)は、いずれも過去に谷本が敗れた相手。彼女はその全てに、一本を取る柔道で勝ちを収めたのである。

 デコスとの対戦は今回がラストチャンスになるかもしれない・・・。次回大会からは階級を上げてくるだろうと言われているデコスには、どうしてもリベンジしておく必要があった。

 攻め合うことが信条の二人の戦いは、デコスが大内刈りを仕掛け、それを谷本が内股で返すことで決着がついた。

 「日本の柔道は一本を取る柔道だから・・・、将来柔道を始める子どもたちにも一本を取る柔道を目指して欲しい」

 総合柔道に屈することなく、柔の道を全うした谷本は、柔道における“強さ”とは何かを、身をもって後進に示したのだ。

 「一本を取る柔道」

 それは、非常に美しい柔道であった。

 願わくば、この美しい柔道が世界のスタンダードと成らんことを!
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