旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

お久しぶりです。 [2001年09月01日(土)]

Name:伊東かんふー
Email:kungfubaka@hotmail.com
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どうも、またもお久しぶりの伊東かんふーでございます。前の書き込みでは失礼致しました。遅れましたが、引き続きfakeさんへのお答えを続けたく思います。
>一日にという統計は出しにくいのですが、月に最低5本は未公開作や旧作が届くので最低でも5本は見ます。(中略)公開される映画で見れるものはほとんどチェックします。近年劇場で見れなかったのは『ブエノスアイレス』と『楽園の瑕』『メイド・イン・ホンコン』くらいでしょうか?

 月に最低“初モノ”を5本は御覧になると言う事は、既にお持ちのソフトを再見されることも当然あるでしょうから、やはりお家では月10本以上実際は見てらっしゃるのでは? ま、fakeさんほどの方なら当然でしょう。私もつい最近までは、1日1本は香港モノを中心に映画のソフトを見てましたのでね。よくわかります。『ブエノスアイレス』と『楽園の瑕』をお見逃しになったということですが、これは単にタイミングが合わなかったのですか? それとも王家衛モノにはあまり惹かれなかったということですか?…
>現在の私の入手ルートは…(中略)。このルートで頼んだものが同時期に到着すると、昨年末の様に一挙に60本ということにも。
>えー、500本以上はあるかなぁ。実家にあるのを含めればそれ以上になるかも。今年も既に60本以上は買いましたが、私の趣味はコレだけでは無いので消化するのが大変です。しかし60本とは本当にスゴイ(すべてカンフーなのですか!?)。で、そのなかでコレは貴重だよというfakeさんのなかでおもわず自慢したくなる1作はありますか?…(映画の出来不出来に関わらず、です)

 私は中国語圏映画関連のVTRは300本強ほど所有してます。fakeさんと違うのは、私のはそのほとんどが国内版のダビングや、TV放送から録ったモノであることです。しかしVTRは基本的に私一人が楽しむモノなので、すべて3倍速で録画してます。だから実際の収録ソフト数はその1.5倍くらいはあるでしょう。ピークの時は週2、3度はレンタルビデオ店へ出向き、一気に10本位ダビングしてまして、その時は“日本で出たすべての香港映画ソフトを見る!”と意気込んでましたが…。現在はスカパーに加入してますんで、そこからの録画が主ですね。でも見てないソフトがだいぶたまっている今日この頃です。
>「ZIP」は良かったですね。あれは日本で初めて香港映画を体系付けた本ではないですか?
おっしゃる通り「ZIP!香港映画特集号」は李小龍から当時のニンジャ映画ブームまで差別せず体系付けて紹介した点で画期的な1冊だったと思います。またジミー・ウォングをキチンとし取り上げたのも特筆すべき点でしたね(私が『アジアン・ムービー・ジャンキーズ!!』で書いたジミーさんの文章は「ZIP!」の真琴荘八先生の文の影響をかなり受けてます)。「ザ・香港ムービー」上下巻も良かったですけど、さりげなく李小龍批判をしてたのはなんだか複雑な気分でした。
後は「ビデオでーた(現DVD&ビデオでーた)」の登場も当時はうれしかったです。私は創刊2号以来93年位までほぼ毎号のように買ってました。ビデオソフトやTV放送未公開洋画の情報はコレと「月間ビデオコレクション」からかなり吸収しました。絶対fakeさんなら目に留めてると思ってましたよ。最近久し振りにリニューアルされた「でーた」を読んだんですけど、スパイクという会社から狂った様に90年代香港映画のDVDが連発で発売されてますね…。ところでfakeさんは「キネ旬」で連載されてた望月美寿さんの『アジアのピンキリ』はお読みになってましたか? あれって今でも続いてるんですかねー? というわけで今回は軽めにこの辺で。またお邪魔しますね(hyjkdさんの掲示板にもfakeさんに向けたレスを書き込みましたので、そちらも御覧下さい)。

naoさんへ [2001年09月01日(土)]

Name:伊東かんふー
Email:kungfubaka@hotmail.com
URL:

>これは大分前の書き込みへのご意見に対するレスです。
naoさん、始めまして。伊東かんふーでございます。その節は、私ごときの書き込みに御意見、誠にありがとうございました。前の八本足麒麟のHNでは、いくつかの香港映画関係サイトの掲示板にお邪魔させて頂いておりました。ところが、こちらの言動が少々過激に聞こえるのでしょうか(本人はまったくその気はないのですが)、私の書き込みが削除されたり、書き込んだサイトに突如迷惑メールが大量に届いたり、あげくに書き込みをしたサイトが突如閉鎖されたりと、なんだか各所に騒動と迷惑を巻き起こしている不埒者でございます。最近では“香港映画サイトの破壊王”と呼ばれている様でして(妄想)。で、naoさんは伊東かんふーという名前に、何もピンとこなかった、と。そうですか…。えー、実は私2年前に『激辛!!アジアン・ムービー・ジャンキーズ』(水声社)という80年代香港映画に関するエッセイ本を企画し、現在のHNで執筆させて頂いた者でございます。あ、まったくご存じないですか…。うーん確かにまったく売れなかったからねー、あの本は…。で、ですね、私の書き込みに興味を示して頂いたのは大変有難いですけども、ならば『激辛!!アジアン・ムービー…』を入手して頂き御一読願いたい。私がなぜfakeさんという人物に注目し、熱く語ろうと試みるかが解って頂けると思います。その上で私とfakeさんとのやり取りに遠慮なく割り込んで頂きたい。YAHOO!のオンラインショップでも購入できるようでございます。1500円です。傲慢な物言いなのは重々承知、でもあえて言います、まずは『激辛!!アジアン・ムービー・ジャンキーズ』をお読み下さい、話はそれからです!!(あーあ、こういうことばかり言うから私は嫌われる…。あのー、自分の履歴をひけらかすつもりは毛頭ないんで。ただね、fakeさんほどの方のHPに遊びにこられる方なら、拙著くらいは当然目にしてるだろうなあと、そんな思いも米粒くらいはあったりするわけですよ。そういうわけでゴメンね、fakeさん。)

レスです。 [2001年09月01日(土)]

Name:fake
Email:episodo1@iris.dricas.com
URL:

 ジョン・レスリーさん、
>Expect the Unexpected
 『非常突然』ですね。って、実はまだ見たことは
無いのですが、'98年の作品の中では『野獣刑警』
と並んで批評家には評価の高い作品でした。
 しかし、香港の観客にはそっぽを向かれたらしく
一週間で打ち切りの憂き目にあったという噂もあり
ます。
 監督の游達志と製作のジョニー・トゥは『ロンゲ
ストナイト/暗花』でも組んでいるので その作品が
指針になるのではないでしょうか?

>映画観ないで帰った人が・・・
 明星ファンなんだろうけど失礼なやつらだ。

 亜紀さん、
 いらっしゃいませ!(^o^)/
 屋形船の時はもちろんお呼びしますよー。ぜひ参
加して下さいね。
 あとでたまきさんとゆっくり話が出来たみたいで
すね。よかった!
 ここは香港メインのアジアンなページですが、よ
ろしかったら御贔屓に。

「広東語映画と北京語映画」 [2001年09月01日(土)]

「広東語映画と北京語映画」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー香港という土地は広東省にあるので、使用言語は広東語であるのはいうまでもないことだ。香港で映画製作が開始されて以来、常に付きまとってきた問題のひとつに"言語"の問題がある。ご存じのように中国の第一公用語は北京語で、文字としての書き表すことの出来る「国家」の言葉としての北京語と、広東省の一地方の方言でしかなく、話し言葉で文字にならない広東語とでは随分と差があるのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー香港で映画の撮影が開始されたのは(諸説あるが)1901年のこと。もっとも当時は上海映画の香港ロケという形であり、香港で本格的な映画製作が開始されたのは1922年のことである。この時代はサイレント映画の時代であるので、現場では何語を使用していようと上映にはさしたる問題も無かったのだ。むしろ問題が起こるのはトーキー以後のことだ。ワーナーブラザースがトーキー映画第一作『ジャズシンガー』を公開したのは1927年、この映画の成功により世界の映画界は雪崩をうってトーキー映画の製作に入るのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー1933年に香港で始まったトーキー映画の製作は、大陸の映画人が主導をとっている現状では、当然のごとく北京語で製作されていた。同年に製作された中国初の(そして香港初の)広東語映画『白金龍』によって広東語映画ブームが起こる。この映画は粤劇(広東語劇)を翻案したものであるので、広東語映画として製作する必要があったからなのだが、広東省の人達(とりわけ香港人)にとって自分達の言葉で話す広東語映画は広く受け入れられたのだった。1937年中国政府によって広東語映画の撮影上映を禁止、国語である北京語に統一するようにとの触れが出される。この年は盧溝橋事件により日本が中国に侵略(この表現はいけませんかね?)を開始した年だ。国威発揚のために取られた措置であったが、広東語の文化に誇りを持つ一部の映画人の必死の嘆願により、北京政府も全面禁止とはしなかった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー19411945年までの香港は日本軍の占領下であるので、本格的な映画製作は1946年まで待たねばならない。(その間製作が無かった訳ではない。)占領期間から1940年代のいっぱいに渡って、そして'50年代も実は広東語映画の全盛期であるのだが、北京語映画も徐々に製作本数を増やし始めていた。それは戦争とそれに続く内戦、そして共産党政権の確立により多くの上海映画人が香港に渡ってきたからというのと無縁ではないのだが、映画人だけではなく北京語を国語とする観客もまた香港に流れてきていたのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそうはいっても'50年代1966年までは香港映画の繁栄期であり広東語映画が衰えることは無かったのだが、1966年に全てが一変する、文化大革命である。このことは大いに香港の社会を混乱させ映画製作そのものを衰退させた。'66年以前には広東語映画に対して北京語映画の製作本数は三分の一ほどであったのだが、この混乱期に減少したのは主に広東語映画であり、北京語映画は減少していないのだ。(ここで広東語映画と北京語映画の割合はほぼ同数になったといわれている。)これには色々な要因が考えられるが、その内のひとつにはやはり、大躍進を掲げる中国共産党の革命を信じた人がいたことだ。香港でも'67年には毛沢東を指示する若者達による大規模な暴動(俗にいう香港暴動。同年に起きた労働闘争による反英暴動にも影響。)が起きているが、これは世界中でそうだったのだ。今となっては文化大革命は、革命などではなく粛正の方便だったことが解っているが、当時は真剣に共産主義革命が人々を幸せにするものだと思っていたのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー北京語映画の攻勢が始まった'66年、それまでは国語映画(北京語映画)と広東語映画のスターは別れていたのだが、北京語映画の需要が増えると共に広東語映画のスター達の北京語映画への出演も増えてきた。そこで別々の言語の問題を解決するためそれまでの同時録音から、後からアフレコで二ヶ国分製作するという製作方式が主流となっていくのである。そこではスターは自分の声をアテることはなく、この状態はごく最近まで続いていたのであるが、一部のスター(自分でアテていたのはホイ兄弟や周潤發などTV出身のスターが多かった。TVは地声なので皆が耳に馴染んでいるため。)を除き、ブルース・リーもジャッキー・チェンも吹き替えだったのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー北京語映画の発展はついに'72年には一本の広東語映画も作られないという事態を生むのであるが、これには当時、北京語圏への大規模な配給網を敷いていたショウブラザースの影響が大であると考えられている。さすがにその反動はすぐに訪れ、'73年にTVのコメディアンを総動員して作られたコメディ『七十二家房客』が大ヒット。'67年から本格化していたテレビの広東語放送の人気も手伝ってではあったのだが、やはり自分達の言葉で話す身近なネタのコメディというのが受けたのだろう、同じくテレビで人気を博していたホイ兄弟らによる広東語コメディによって広東語映画は息を吹き返し、以後の香港映画界の主流となっていくのだ。
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