旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

「RKFM」のビデオ・クリップについて [2004年01月31日(土)]

Name:白扇仔
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「Rare Kung-Fu Movies」のビデオ・クリップについてですが、NEWSのページをスクロールして、下線付き青字のタイトルをクリックすると見られます。いつまでやっているかわからないので、緊急でこの件に関してだけとりあえずレスしておきます。
他のレスについては後日とゆー事で。

更新 [2004年01月31日(土)]

Name:fake
Email:episodo1@iris.dricas.com
URL:http://myroom.isao.net/room164/0000001000019164

 1/31日記更新。本日は、李小龍童年往時(七)『甜
姐兒』。今回でこの特集もおしまいです。

李小龍童年往時(七)『甜姐兒』 [2004年01月31日(土)]

李小龍童年往時(七)『甜姐兒』'57年製作、監督:呉回、主演:張瑛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー少年・李小龍ばグレていた。有名な話である。小学生くらいで既にグレていたというが、その理由は様々であろう。役者として早くから父に期待されていたため、兄弟姉妹の中でも特にチヤホヤされていたというし、映画にも出演していて一端のスター気取りでもあったろう。学業が追いつかず、グレ始めたため映画出演を制限されたりもしたが、一向に収まる気配はなかったという。彼の家は国共内戦を逃れて大陸からやって来た親戚も同居しており、常に大勢が一緒に暮らしていた。親類だけではない。粤劇の名優である父・李海泉には、住み込みの弟子も大勢いたため、李家は常に三十人以上が同居していたという。ちょっとした難民キャンプの様相でもあり、そんな中で育った李小龍少年は、チヤホヤもされる反面、親の目が完全には行き届かない環境にもあった。当初、九龍城に住んでいた李家だが、大人数になったため、彌敦道(ネイザン・ロード)二一八番地の油麻地にある粤劇の劇場近くに引っ越した。これにより旺角などの盛り場が近くなったことなども関係しているという。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー本当のところは誰にもわからない。思春期を向えた少年の心中など、実際のところは本人であっても不明であろう。ひとつ李小龍の生まれた頃まで遡ってみたい。直接的でないにせよ、相対的には"時代"が彼の"人生"を反映しているだろうから。なお李小龍生誕までについては04/1/14日記参照のこと。アメリカで生まれた李小龍は家族と共に帰港した、1941年3月のことであった。同年12月、香港は日本軍に占領される。この占領は戦争終結までの間3年8ヶ月続いた。つまり、少年・李小龍は4才と9ヶ月になるまで、日本軍占領下の香港を目の当たりにしていた、ということになる。占領軍による非道、経済・食糧難は勿論、戦闘や爆撃にもさらされた。同胞である中国人同士の争いも醜いものであった。占領軍に媚を売り、甘い汁を吸う連中がいる反面、せっかく大陸から逃れて来たのに、日本軍が内地の人口を調整するために強制的に送り返らされた人たちもいた。これらの事柄が、少年の目にどう映っていたか?『精武門/ドラゴン怒りの鉄拳』で彼が見せた日本軍への怒りは、少年時代に日の丸に向って振り上げた拳と同じでは無かったとは言い切れない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー第二次世界大戦は終わり、英国領に戻った香港だったが、平穏は訪れなかった。中国本土では対日本軍で協力し合っていた国民党と共産党は、再び覇権を巡って争い始めたのである。1946年に始まった第三次国共内戦は、共産党支配を嫌った上海映画人の、香港への大量流入という事態を生む。大量の難民も訪れ、製作、観客の両面で北京語映画の需要と供給が増大、広東語映画を脅かすという副次的要素が、粤劇の名優・李海泉を映画界へ参入させた。(結果的に李小龍も) 46年という年数は世界的にも意味のある年だ。戦後、西側諸国はヒステリックに共産主義への警戒を強めていったのだが、世に有名な「赤狩り」がアメリカの上院で開始されたのも46年のことである。アメリカの「赤狩り」は54年まで続くが、東西冷戦構造を国民の意識に植え付けるには十分な時間であったといえる。英国領香港は、国境線のこちらで大陸中国の動向を固唾を飲んで見守っていた。49年、内戦に勝利した共産党は社会主義国家「中華人民共和国」を建国。西側諸国の代表として、資本主義のモデルケースとして生きる道を宿命つけられた香港には、国境の向こうに翻る赤い旗は破滅への契約書にも見えたことであろう。当時の香港人民の恐怖は計り知れないものであったのだ。実にこの時、李小龍少年は9才のことである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー51年、国連は対中国への貿易を禁止。その反面で、香港は世界有数の貿易港として発展を遂げる。これも西側の思惑で東側国へのけん制として行われた措置だ。50〜53年には動乱により朝鮮半島が分断。東西の対立はこの後もベトナム、キューバ危機と世界を揺さぶり続ける。李小龍もそろそろティーンエイジャーになるわけだが、このティーンエイジャーというのは、実は戦後の産物なのだ。第二次大戦後というのは、世界的にそれなりの平和を手に入れた時代でもあった。(たとえそれが東西対立による緊張緩和であったとしても) 第二次大戦前の世界は、世界中どこかしらで戦争をしていたというのが人類の歴史なのである。若者の就学率は低く、早くに世間に出て、結婚・出産も若年齢であるため、子供から大人への段階は随分と短かった。よってティーンなどというジェネレーションが現出する余地は無かったのだが、平和の訪れと共に人々の社会生活も変化、就学率の増加は大人でも子供でもない「学生」という層を形成するに到った。これがティーンエイジャーである。世界で初めて生まれたティーンエイジャーという層は、"大人は判ってくれない"とばかりに、いわゆる"理由なき反抗"を繰り返した。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍少年の生まれ育った香港は、正に動乱の時代の香港であり、その後に訪れたティーン文化の洗礼をモロに通過して彼は大人になっていった。グレても仕方が無い、とは言わない。その時代に育った人間全員がグレていた訳ではないのだから。しかし、彼個人の家庭環境を加味しても、グレる要素だけは十二分にあったことも間違いではなかろう。映画『甜姐兒』は、不良少年真っ盛りの李小龍17才の作品だ。お馴染み張瑛の主演作で、粤劇の名優にして広東語映画のみならず、香港映画を代表する喜劇俳優である梁醒波が共演するコメディだ。李小龍はノンクレジットでのゲスト出演で、劇中「チャチャチャ」を踊るクラブの場面にのみ登場する。香港チャチャチャ・コンテストで優勝するだけあって、その踊りはさすがに大したものである。作品としてはモダンなラブコメで、現代の世でも再見に耐えうる出来である。李小龍は、翌年の『人海孤鴻』に主演した後、喧嘩三昧の日々が祟って単身渡米。その後の人生については触れるつもりはない。今回の特集では、「映画、文化、歴史」の側面から、李小龍の"童年"と"往時"を振り返ってみた。カリスマ・ヒーローの知られざる一面に、些かの光でも当てられていましたならば幸いと存じます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー李小龍童年往時(完)特集トップへ
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