片腕ドラゴンズ・8thイニングス『獨臂雙雄』 [2004年05月30日(日)]
片腕ドラゴンズ・8thイニングス『獨臂雙雄』'76年製作、監督・主演:王羽、姜大衛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー話は『新獨臂刀』まで遡る。この映画の誕生はハーベストのジミー引き抜きに端を発しており、ジミーがハーベストで作った『獨臂刀大戦盲侠/新座頭市破れ!唐人剣』に対抗する手段として、邵逸夫(ランラン・ショウ)のエゴで生み出されたものであった。結果、張徹にも姜大衛にも代表作となる作品になったのであるが、張徹はともかくとして、姜大衛が自ら望んで二代目・獨臂刀を襲名したのかどうかは不明である。ではジミーはどうか?これだけ作り続けるくらいだから、"片腕"モノの第一人者はオレだ!という自負はあるだろう。だが一方でショウブラの後輩スターの挑戦を、笑って受け止める余裕くらいはあったのではなかろうか?そうでなければこの映画の様な企画は思いつかないはずだ。この『獨臂雙雄』は新旧・獨臂刀対決!という夢の顔合わせだけで成り立っているのだから。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの映画のストーリーは正直いって良く解らない。北京語中文英字幕だが、トリミングの関係でほとんど字幕は読み取れない。さらにこの映画をややこしくしているのは、その人物設定にある。ジミーと姜大衛だけではない、この映画の主要な登場人物全員がみんな"片腕"の上、江湖に起こる謎の殺人事件を巡って、仮面の片腕と覆面の片腕が入り乱れるのだ。この顔を隠した片腕の男たちは、それぞれ事件の関係者の変装であるのだが、本格推理ものよろしくセリフだけで語られる事件の概要からは、北京語だけの映画を見ていても、一度見ただけでは判別がつかないのである。葬儀場に担ぎ込まれた柩を待ち構えている別の棺桶。葬儀場の男たちは突然牙を向き、柩を担いでいた男達を殺し始める。先に在った棺桶から龍頭大と呼ばれる仮面の男が蘇り、全員を殺す。そこへ金九鷹・張翼が現れて挑むが、龍頭大に右腕を切り落とされる。勝ち誇る龍頭大の右腕を更に切り落とすのはジミー獨臂刀。その折れた刀から彼が正統の『獨臂刀』(01/7/5)キャラであることがわかる。ここまでが導入部で、大して説明もない物語は、見るものを完全に置き去りにする。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー話は更に混迷を深める。龍頭大は逃げ、ジミーがどうなったのかも解らないまま、金九鷹・張翼は龍頭大が受け取るはずだった貢物を家に持って帰る。家には幼い弟子・葉小益が待っていた。右腕を失った師傳を気遣う葉小益の面前で、金九鷹・張翼は覆面をした左腕の無い男に殺される。幼い葉小益は師傳の兄弟弟子・羅烈を頼って身を寄せるが、この羅烈も左腕が無いのだ。この後も訳の解らん展開が続き、事件の犯人は少林寺にいることを突き止めるふたりの獨臂刀。身寄りの無い葉小益を預かろうという管長もまた左腕が無く、実はこの管長は張翼の変装だったことが露呈する。(しかし何のためだったのだ?) この複雑怪奇な物語の脚本を書いたのは、実は武侠小説家の古龍。『獨臂拳王勇戦楚門九子』で、徹底的に古龍小説世界のキャラを殺しまくっていたジミーが何ゆえ古龍に脚本を書かせたのか?この『獨臂雙雄』は『獨臂拳王勇戦楚門九子』と同年に製作されている。どっちが先だったのかは判らないが、『獨臂雙雄』の方が先だったとしたら、『獨臂拳王勇戦楚門九子』はやはりジミーからの返答だつたということか。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー新旧・獨臂刀対決とはいってもジミーと姜大衛は本編ではほとんど絡まない。姜大衛は共同監督も務めているが、やはり先輩ジミーに随分と気を使っている。最後の張翼との決闘は、『四大天王/怒れるドラゴン不死身の四天王』以来の"鳥小屋"対決で、ジミー映画ファンを唸らせてくれます。この人はとにかく映画製作というものを楽しんでいたんだろうな。新旧の獨臂刀が競演したら?その敵もみんな片腕だったとしたら?そんな、小学生の机の落書きの様な夢を、大真面目で映画化してみる。ある意味で素晴らしい、愛すべき映画バカ、それがジミー王羽の真骨頂だったのではないか。次回、片腕ドラゴンズ最終回『獨臂侠大戦獨臂侠』、こう御期待!








