旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

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更新 [2004年07月12日(月)]

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 7/12日記更新。本日は、甦れ!ドラゴン世代(2)
『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』です。

甦れ!ドラゴン世代(2)『龍虎鬥/吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』 [2004年07月12日(月)]

甦れ!ドラゴン世代(2)『龍虎鬥/吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』'70年製作、監督・主演:王羽ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『龍争虎鬥/燃えよドラゴン』の公開は'73年12月22日。ヒットはしていたが、この段階ではそれほどのブームという印象は無かった。世界が一変したのは年が明けてからである。当時私の住んでいた郷里(愛媛県松山市)のような田舎ですらそうだったのだ、それこそ日本中がブルース・リー・ブーム一色になった、という感じだった。私の経験する限り、後にも先にも何かのブームでこれほど日本中が一体となって沸いたブームは無い。好悪の感情は人様々であったのかもしれないが、老若男女が、学校で、道端で、会社で、仕事帰りの飲み屋で、ブルース・リーについて語り合っていた。さすがに私の年代では経験していないが、伝え聞く"力道山"ブームや"フラフープ"ブームがこれに近いものであったのかも。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー映画業界がこれを放って置く訳もなく、'74年からは空前の空手映画ブーム(当時は功夫映画とは呼ばなかった)が訪れるのだ。最初に公開されたのは『獨臂拳王/片腕ドラゴン』で、これは2月8日に公開された。昔から疑問に思っているのだが、この映画『燃えよ』の公開からほぼ二ヶ月で公開されているが、『燃えよ』は公開されるまでは関係者にほとんど期待されておらず、フタを開けるまではヒットするとは予測がつかなかったと言われている。たった二ヶ月で契約し、配給・公開にこぎつけたのだとしたら、配給元の東和の手腕はさすがだと言う他ない。実質はこの'74年がブームのピークで、この1年だけで実に33本もの作品が公開されているのだ。『燃えよ』は18億円もの収入を挙げたが、同年に公開された同じブルース・リー作品でも、『唐山大兄/ドラゴン危機一発』(公開は4月13日)が6億6千万、『精武門/ドラゴン怒りの鉄拳』(公開は7月20日)が7億7千万である。他の功夫片でヒットしたのは『片腕』の2億4千万と、『神龍小虎闖江湖/帰って来たドラゴン』の1億1千万のみだ。『帰って来た』が公開されたのは3月21日であったから、一般的な意味でのブームは『怒りの鉄拳』の公開された夏頃には収束の方向に向かっていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー当時、ブルース・リーを見なかった男の子は存在しなかったと言ってもいいくらいだが、私の周りでも"ブルース・リーの映画は見るけど他のはもういい"といった意見が大半を占めていた。もの凄いブームではあったが、公開された映画のほとんどがクズ映画として認識された、これが実体である。この時の印象が長らく尾を引き、香港映画ファンではない世間一般からは、差別と侮蔑の対象であり続けた。香港映画に固定ファンが付き始めるのは'80年代の半ば、ファン・関係者の弛まない後押しによって世間的な評価を得られるようになったのが'90年代。'97年に香港が中国に返還されるに及んで、かつての意味合いでの香港映画はこの地上から消滅。'90年当時の人気と評価は、現在では完全に韓国映画に取って代わられた。'70年代から香港映画を見続けてきた人間にとっては、不遇と忍従の歴史が国内での香港映画史である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『龍虎鬥/吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』は4月20日に公開された。完全に『唐山大兄/ドラゴン危機一発』(公開は4月13日)に便乗しようというのが見え見えであるのが微笑ましい。ジミーの初監督作で、張徹の『報仇』と共に近代功夫片の礎を築いた歴史的作品であることは、過去に何度も述べた。張徹は民初動作片の導入についてこう述べている。「六七暴動の影響で国民の目は剥き出しの暴力に向けられた。時装・古装片に比べて制約の少ない民初片では、より自由な表現が可能である」と。香港内においても類をみない'70年代初頭の一大功夫片ブームはこうして開始されたのだ。初作だけあってこの映画は後のジミー作品ほど弾けてはいない。極めてオーソドックスな作りだが、基本プロットは『獨臂拳王/片腕ドラゴン』と同じなのだ。ジミーの道場が挑戦され、ジミーを残して師匠以下の門下生全員が殺される。生き残ったジミーは師匠の娘の汪萍に手厚い看護を受け、鉄砂で腕を鍛え復讐を開始。趙雄率いる悪役軍団は羅烈、王鍾、陳星、王青らで、いずれも日本人武術家だ。この日本人武術家との異種格闘技戦がメインで、ジミーが片腕であったならそのまま『獨臂拳王/片腕ドラゴン』となる。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーージミーが監督を務めた要因はひとえにショウブラのギャラの安さからくるものだろう。主演を兼ねて脚本・監督・武術指導まで務めればそれだけ貰えるギャラも増えるからだ。あくまで張徹の意見であるが、最初の企画段階では張徹も関わっていたという。当時ショウブラで助監督を務めていた呉思遠が現場を仕切り、張徹曰く実質の監督は呉思遠であったという。ジミーも呉思遠もこの映画の成功で自信を得た。そしてふたりは香港映画にふたつの流れを引き起こした。ひとつはジミー独立とゴールデン・ハーベストの設立で、もうひとつは、やはり独立した呉思遠による独立プロの隆盛だ。これには張徹の導入した陽剛路線と民初動作片の関係も絡んでくるのであるが、ここからの続きは次回『危うし!タイガー』でのお楽しみ、なのだ!
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