陸亜采は恐るべし作品です [2005年02月21日(月)]
Name:愛香
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>秘宝には功罪があると思っています。小さい版型の
>頃はもう少し自由がありましたが、今は秘宝的という
>言葉に書き手も読み手も捉われすぎですよ。
「悪趣味洋画劇場」はインパクトありましたし、それ以降出版されたムックも割と勉強になって楽しく読んでましたのですが。
現在はサブカルとか言ってそうなライターの文章に占められていますね。この人達、そんな自分がカッコいいとか思ってるんでしょうか。
>『陸阿采』で完全に自分のスタイルを作り上げています。
>これが後の『三十六房』などに繋がるのは指摘するまでも
>ないでしょう。
あれほどの映画を撮れるのですから「神打」から同様の勢いが
あったのかと思ってました。劉家良は「陸亜采」と志向が異なる作品を撮っても平均レベル(映画全体として)を余裕でクリアしていることにも評価できる点です。「三十六房」は劉家良路線の本道ですね。練功過程に描写でけではなく劉家輝の演技力も
ドラマに深みを持たせいて、ファイトシーンにのみ全力投球すればよいという安直な功夫片と一線を画す良質な作品です。
>この『陸阿采』を見る時念頭において欲しいのは、
>關徳興版の黄飛鴻と張徹の『洪拳興詠春』(03/3/2日記)
>の存在です。『陸阿采』は關徳興シリーズのパターン
>を踏まえ、張徹映画で最初に試した練功小子片を更に
>入念に書き込んで作られています。
張徹の長弓時代の作品は私自身開拓できていないため「洪拳与詠春」は未見でございますが、この時点から劉家良のビジョン、または青写真は出来上がっていたのでしょうね。また、關徳興の「黄飛鴻」には関係していた人ですから「陸亜采与黄飛鴻」の成長した劉家輝が後の關徳興の黄飛鴻に繋がることを意図したストーリーとも考えられます。そんなところも李小龍とは異なる正統な「香港の」功夫片の系譜と解釈できて一層興味深くなります。
>サモの映画に見るある種の残酷性は、子役として映
>画界を生き抜いてきた人間の、興行師的側面ででもあ
>ると思っています。他の安手の功夫片は多分にご都合
>主義的ですが、やはりサモの作品には意思のある残酷
>性が見て取れますね。サモの描く精神面は、映画の中
>の残酷性に埋没しがちですが、それでも凡百の作品よ
>りはよく描けていますね。
サモの残酷性は黄楓の意匠を継承したものかと単純に思っておりました。もっとも、その黄楓に興行師的側面が感じ取れます。私は虚構の世界に道徳を求めてはおりませんので残酷描写でも必然性があればよいのです。サモの場合、いや「賛先生」ですけど、決戦後から「劇終」までのシーンをコミカルに描いていることに対して、もう少し考えてほしかったのですが。
>作品はともかく、ジャッキーにとっては黄飛鴻もの
>としての不満はあった模様です。その回答が『ヤンマス』
>と『ドラロー』になるみたいですね。
「陸亜采」鑑賞後の伊東かんふーさんが「師弟出馬」と「龍少爺」のルーツ的な印象を持たれたそうです。fakeさんの以前の日記ではジャッキーが黄飛鴻に思い入れがあったこと触れていました。78年頃のジャッキーは武術指導家としての力量はあっても自らキャラクターを創造する感性は素人同然だったと考えています。羅維がジャッキーに采配を委ね、ジャッキーが理想とする黄飛鴻の映画が撮れたと仮定しても、従来の羅維影業の作品と大差無かったのではと思います。むしろ私は「酔拳II」でジャッキーが演じた黄飛鴻に不満を感じます。やらされたのかもしれませんが。
「陸亜采」から「師弟出馬」と「龍少爺」の系譜は伊東さんに語っていただくことにしますのでそのうちに、よろしくお願いしますね。
>『酔拳』にみる仙人然とした老師にはもともと別のベ
>ースがあると思っています。今その研究をしているとこ
>ろなので、いずれ機会があれば日記などで発表致しますよ。
袁小田が演じた師父の造型まで、研究されているとは恐れ入りました。さすが探究心旺盛ですね。
>これは關徳興時代からの引継ぎですからね。『武館』
>の不満は将軍令が流れないことですよ。
OPの洪拳と将軍令は功夫だけでなく、広東文化のアイデンティティを表現した映像に思えてとても気に入っています。
「武館」では将軍令が流れていないことに気がつきませんでした。この作品は「陸亜采」路線を発展させ「師弟出馬」に対する劉家良の回答だと思っています。しかし、この映画はむしろ後の徐克の「黄飛鴻」に影響を与えたような気がします。個人的にはラストの劉家輝と王龍威の一戦が洪拳の魅力を最大限に表現している点に感動している次第です。もちろん王龍威の足技とのバランスも絶妙です。凡庸な武術指導なら無闇にキックを連発させて
変化に乏しいアクションにしてしまったでしょうが。
>時系列で整理してみると、全ての作品がお互いに影
>響しあっているのがよくわかりますよ。キンフーが張
>徹に、張徹は劉家良、李小龍に。李小龍は独立プロに、
>独立プロはメジャー作品に。という具合に影響を与え
>合うことで、文化そのものが育まれてきたんだと思い
>ます。やはり一度60年代の作品からずらっと並べて見
>るのが一番ですよ。
60年代も見ないといけませんね?了解です。
自分としては、ここ一年ほどで張徹と劉家良に本格的に目覚め、最近ではショウブラザース(アクション以外の映画を含めて)の魅力にはまりつつあります。漠然と作品を鑑賞するだけでなく、同時に香港における映画の傾向を分析すると楽しみも倍化されるのです。昔の作品ではありますが、自分にとっては現在の作品
同様の新しい発見を求めて鑑賞していくつもりです。
>描きようが甘いとは思わないんですかね?その辺の
>香港人の生理感覚だけは永遠に理解不能かもしれません。
理解は可能かもしれませんが、感覚を共有することは難しいでしょうね。まあ自分の言語能力(または頭が良くないため)の問題で、別の映画でもいまいち理解できない点を教えてくれたりするので彼等には感謝はしております。
>私も衣服に関する本とかもいっぱい目を通したんですが、
>衣服の歴史としては着こなしが違いますね。
>功夫映画の歴史としての服装史としては、裾の問題は大
>きな意味をもたないと思いますが、"あの"服装で裾を括ら
>ないというのはねぇ・・。
香港映画で中国服もリアルに再現したのはジェットの「黄飛鴻」以降ではないでしょうか?それ以降の映画で見られる中国服は割とブカブカしてますし袖口をまくって白い内衣も見せなくなりました。まあ、大昔から現在までの香港映画を考えれば、作品の製作年度でデザインと着こなしはそれぞれ異ってますから、70年代に製作された功夫片における中国服も香港映画の歴史を考慮すれば点にすぎません。
細かいことを言えば「龍争虎闘」と「功夫」では白い上着のボタンも違います。それなら、こういった解釈はいかがでしょう?「功夫」のズボンはゆったりしていて、「龍争虎闘」ではなく、むしろ「細路祥」を意識したからではないか・・と。
他の方とのお話しに加わるようで申し訳ありませんが、
サモの「林世栄」は袁和平が嘉禾で「酔拳」の続編を撮ろうとしたのではと推測しています。嘉禾電影の79年11月号(あたり)に
当該作品のグラビアに普段着のサモと袁和平が蘇乞児の扮装をした袁小田と一緒に写った写真が掲載されております。
「林世栄」ですが、同時期に製作された「師弟出馬」ともビジュアル上の雰囲気が共通するのですが、思遠影業のテイストも感じられるのです。「酔拳」は黄飛鴻を扱いましたけど、その後、黄飛鴻の弟子である林世栄を蘇乞児を鍛えるという設定だったのでは?と考えると楽しくなってきます。そして林世栄が習得する功夫はもちろん・・・。実際にはファン・メイシャン扮する林福生(この人物も洪拳伝説で見かけますね)が教授するのですが。
しかし一人個の師父が弟子の弟子を鍛える発想からして「陸亜采」と同じですね。
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>秘宝には功罪があると思っています。小さい版型の
>頃はもう少し自由がありましたが、今は秘宝的という
>言葉に書き手も読み手も捉われすぎですよ。
「悪趣味洋画劇場」はインパクトありましたし、それ以降出版されたムックも割と勉強になって楽しく読んでましたのですが。
現在はサブカルとか言ってそうなライターの文章に占められていますね。この人達、そんな自分がカッコいいとか思ってるんでしょうか。
>『陸阿采』で完全に自分のスタイルを作り上げています。
>これが後の『三十六房』などに繋がるのは指摘するまでも
>ないでしょう。
あれほどの映画を撮れるのですから「神打」から同様の勢いが
あったのかと思ってました。劉家良は「陸亜采」と志向が異なる作品を撮っても平均レベル(映画全体として)を余裕でクリアしていることにも評価できる点です。「三十六房」は劉家良路線の本道ですね。練功過程に描写でけではなく劉家輝の演技力も
ドラマに深みを持たせいて、ファイトシーンにのみ全力投球すればよいという安直な功夫片と一線を画す良質な作品です。
>この『陸阿采』を見る時念頭において欲しいのは、
>關徳興版の黄飛鴻と張徹の『洪拳興詠春』(03/3/2日記)
>の存在です。『陸阿采』は關徳興シリーズのパターン
>を踏まえ、張徹映画で最初に試した練功小子片を更に
>入念に書き込んで作られています。
張徹の長弓時代の作品は私自身開拓できていないため「洪拳与詠春」は未見でございますが、この時点から劉家良のビジョン、または青写真は出来上がっていたのでしょうね。また、關徳興の「黄飛鴻」には関係していた人ですから「陸亜采与黄飛鴻」の成長した劉家輝が後の關徳興の黄飛鴻に繋がることを意図したストーリーとも考えられます。そんなところも李小龍とは異なる正統な「香港の」功夫片の系譜と解釈できて一層興味深くなります。
>サモの映画に見るある種の残酷性は、子役として映
>画界を生き抜いてきた人間の、興行師的側面ででもあ
>ると思っています。他の安手の功夫片は多分にご都合
>主義的ですが、やはりサモの作品には意思のある残酷
>性が見て取れますね。サモの描く精神面は、映画の中
>の残酷性に埋没しがちですが、それでも凡百の作品よ
>りはよく描けていますね。
サモの残酷性は黄楓の意匠を継承したものかと単純に思っておりました。もっとも、その黄楓に興行師的側面が感じ取れます。私は虚構の世界に道徳を求めてはおりませんので残酷描写でも必然性があればよいのです。サモの場合、いや「賛先生」ですけど、決戦後から「劇終」までのシーンをコミカルに描いていることに対して、もう少し考えてほしかったのですが。
>作品はともかく、ジャッキーにとっては黄飛鴻もの
>としての不満はあった模様です。その回答が『ヤンマス』
>と『ドラロー』になるみたいですね。
「陸亜采」鑑賞後の伊東かんふーさんが「師弟出馬」と「龍少爺」のルーツ的な印象を持たれたそうです。fakeさんの以前の日記ではジャッキーが黄飛鴻に思い入れがあったこと触れていました。78年頃のジャッキーは武術指導家としての力量はあっても自らキャラクターを創造する感性は素人同然だったと考えています。羅維がジャッキーに采配を委ね、ジャッキーが理想とする黄飛鴻の映画が撮れたと仮定しても、従来の羅維影業の作品と大差無かったのではと思います。むしろ私は「酔拳II」でジャッキーが演じた黄飛鴻に不満を感じます。やらされたのかもしれませんが。
「陸亜采」から「師弟出馬」と「龍少爺」の系譜は伊東さんに語っていただくことにしますのでそのうちに、よろしくお願いしますね。
>『酔拳』にみる仙人然とした老師にはもともと別のベ
>ースがあると思っています。今その研究をしているとこ
>ろなので、いずれ機会があれば日記などで発表致しますよ。
袁小田が演じた師父の造型まで、研究されているとは恐れ入りました。さすが探究心旺盛ですね。
>これは關徳興時代からの引継ぎですからね。『武館』
>の不満は将軍令が流れないことですよ。
OPの洪拳と将軍令は功夫だけでなく、広東文化のアイデンティティを表現した映像に思えてとても気に入っています。
「武館」では将軍令が流れていないことに気がつきませんでした。この作品は「陸亜采」路線を発展させ「師弟出馬」に対する劉家良の回答だと思っています。しかし、この映画はむしろ後の徐克の「黄飛鴻」に影響を与えたような気がします。個人的にはラストの劉家輝と王龍威の一戦が洪拳の魅力を最大限に表現している点に感動している次第です。もちろん王龍威の足技とのバランスも絶妙です。凡庸な武術指導なら無闇にキックを連発させて
変化に乏しいアクションにしてしまったでしょうが。
>時系列で整理してみると、全ての作品がお互いに影
>響しあっているのがよくわかりますよ。キンフーが張
>徹に、張徹は劉家良、李小龍に。李小龍は独立プロに、
>独立プロはメジャー作品に。という具合に影響を与え
>合うことで、文化そのものが育まれてきたんだと思い
>ます。やはり一度60年代の作品からずらっと並べて見
>るのが一番ですよ。
60年代も見ないといけませんね?了解です。
自分としては、ここ一年ほどで張徹と劉家良に本格的に目覚め、最近ではショウブラザース(アクション以外の映画を含めて)の魅力にはまりつつあります。漠然と作品を鑑賞するだけでなく、同時に香港における映画の傾向を分析すると楽しみも倍化されるのです。昔の作品ではありますが、自分にとっては現在の作品
同様の新しい発見を求めて鑑賞していくつもりです。
>描きようが甘いとは思わないんですかね?その辺の
>香港人の生理感覚だけは永遠に理解不能かもしれません。
理解は可能かもしれませんが、感覚を共有することは難しいでしょうね。まあ自分の言語能力(または頭が良くないため)の問題で、別の映画でもいまいち理解できない点を教えてくれたりするので彼等には感謝はしております。
>私も衣服に関する本とかもいっぱい目を通したんですが、
>衣服の歴史としては着こなしが違いますね。
>功夫映画の歴史としての服装史としては、裾の問題は大
>きな意味をもたないと思いますが、"あの"服装で裾を括ら
>ないというのはねぇ・・。
香港映画で中国服もリアルに再現したのはジェットの「黄飛鴻」以降ではないでしょうか?それ以降の映画で見られる中国服は割とブカブカしてますし袖口をまくって白い内衣も見せなくなりました。まあ、大昔から現在までの香港映画を考えれば、作品の製作年度でデザインと着こなしはそれぞれ異ってますから、70年代に製作された功夫片における中国服も香港映画の歴史を考慮すれば点にすぎません。
細かいことを言えば「龍争虎闘」と「功夫」では白い上着のボタンも違います。それなら、こういった解釈はいかがでしょう?「功夫」のズボンはゆったりしていて、「龍争虎闘」ではなく、むしろ「細路祥」を意識したからではないか・・と。
他の方とのお話しに加わるようで申し訳ありませんが、
サモの「林世栄」は袁和平が嘉禾で「酔拳」の続編を撮ろうとしたのではと推測しています。嘉禾電影の79年11月号(あたり)に
当該作品のグラビアに普段着のサモと袁和平が蘇乞児の扮装をした袁小田と一緒に写った写真が掲載されております。
「林世栄」ですが、同時期に製作された「師弟出馬」ともビジュアル上の雰囲気が共通するのですが、思遠影業のテイストも感じられるのです。「酔拳」は黄飛鴻を扱いましたけど、その後、黄飛鴻の弟子である林世栄を蘇乞児を鍛えるという設定だったのでは?と考えると楽しくなってきます。そして林世栄が習得する功夫はもちろん・・・。実際にはファン・メイシャン扮する林福生(この人物も洪拳伝説で見かけますね)が教授するのですが。
しかし一人個の師父が弟子の弟子を鍛える発想からして「陸亜采」と同じですね。








