劉家良(6)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「功夫映画に本物はひとつだけ・・・・それはブルース・リーさ!」そう言ったのは劉家良その人。關徳興時代の『黄飛鴻』シリーズが、功夫片におけるリアリズム・アクションに訪れた最初の"革命"であるとするなら、胡金銓「新派武侠片」、張徹「陽剛」時代の"革新改革"を経て登場したブルース・リーは、"革命"の第二章であり、同時に最終章でもあった。 この場合におけるリアリズムとは、あくまで映画的な意味でのそれであり、ブルース・リーのアクションとて実際の武術・格闘技の試合とは大きな隔たりがある。競技化された試合の中で有効な技は限定されているし、対戦者同士の実力が伯仲すればするほど試合は膠着し、本当の意味での決着はつかない。 だがそれを差し引いてもブルース・リーのアクションは映画史的にも極北であろう。最終章といわれる所以もそこにある。彼の登場が当時の香港映画界に衝撃を巻き起こしたことは想像に難くない。とりわけ、同業者たる功夫スター、武師、武術指導家に与えた影響は絶大であった。 多くの人間が彼を追随し、また単純に模倣を繰り返した。ブルース・リーが活躍した期間(71〜73)、真にオリジナリティのあるアクション映画を構築し得たのは呉思遠組の映画だけである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー静かに向き合い、瞬間の間合いを詰めて繰り出される連続技、緊張の一瞬に放たれる一撃。そのブルース・リー・スタイルに対抗する手段として呉思遠組が選んだのは、殴っては走り、追いかけては蹴る、これを半永久的なまでに繰り返すマラソンバトルだった。 ショウブラはどうか?これまでにも述べてきた様に、『黄飛鴻』シリーズの流れを引き継いだ劉家良と唐佳によって、当時最も先鋭的なアクションを生み出してきていた。胡金銓によって開かれた新時代は、張徹の陽剛路線に広げられた。そこで劉家良たちが生み出したのは、ショウブラでしか成し得ない暴力の散華である。独立プロ(含む旗揚げ当初のハーベスト)ではとても用意することなど出来ない巨大なセット。社会の理不尽を象徴し、主人公に次々と襲い掛かる武師の群れ。主役から脇役までキラ星のごとく輝くスターたち。暴力の連鎖がより巨大な暴力の渦として花開く瞬間、悲壮に輝く暴力の美学。 これがブルース・リー以前、既に完成されていたショウブラ・スタイルなのだ。逆説的にいえば、このショウブラ・スタイルへの対抗手段として生み出されたのがブルース・リーのアクションなのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしかし時代はブルース・リーを要求した。そこで冒頭に掲げた劉家良の言葉だ。彼がブルース・リーを絶賛した訳、それはある意味で心よりの賛辞であろう。映画的リアリズムとしてはあのスタイルが到達点であり、その点では未だにブルース・リーを越える映画は登場していない。だがブルース・リーの披露したスタイルはリー自身が研究し、研鑚した武術の集大成であり、詠春拳をベースとしていたとしても、中国武術の動きではない。 ではより中国的な動きの中で、従来の功夫片には無い、殴り合いの為の殴り合いに堕することのない、真の功夫片は作れないものか? 京劇的動きに武術リアリズムを加味した『黄飛鴻』シリーズ、その原点に立ち返ることこそ、劉家良ならではのオリジナリティを構築するのに必要な要素がある。初監督作『神打』で完成しきれなかった武術指導面での成長は、ブルース・リーからも、旧来のショウブラ暴力路線からも、マラソンバトルからも離れるところにあったのだ。後に「正宗國術片」と呼ばれる劉家良作品の最初の完成形、それが『陸阿采興黄飛鴻』だ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
続く