旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

Re:哀愁のボロやん [2005年07月15日(金)]

Name:白扇仔
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> 映像は見たことありませんよ

そーでしたか。僕は『肥龍過江』で洪金寶を怒らせた偽リーそっくりな・・・いや、それより酷いヤツ(リ)の素顔を希望しています。

> 最近まで詐欺で服役していましたから。ざまぁみろ!ですよ。

ギャハハハハ! そこまで言いますか!   
あと、偽リー作品の『秘録 ブルース・リー物語』に黄正利が出てるそーなんですが、主役とのタイマン・シーンはあるのでしょーか? 
それと、この作品って香港映画なんでしょうか? 舞台は韓国とアメリカらしいし、主演の BRUCE K.L. LEA ことジュン・チョンは韓国人だし。

> それにしても何志強は何処へ消えたものか?

消えたんですか? fake様ですら知らないってことは映画界から引退したのかな?

> レ作品とか登場→即退場の雑魚キャラだったりすることがありますよ。
> 晩年の作品はそれこそカメオだと思いますが、『福星高照』なんか気がつきにくい役だと思いますし、『最佳福星』になると端っこでしか映っていませんね。もっともこれはオチが『標錯参』に繋がっているので可笑しかったですけど。

そーだったんですか。“晩年”って・・・ まだ御存命ですよね? 
『福星高照』は覚えてませんし『最佳福星』は未見です。両作品それぞれどんなシーンにどんな役で出て来るのか教えていただけないでしょうか。 
両作品ともとーーーぶんレンタルするつもりはないので、ゆっくりで構いませんのでよろしくお願いします。
そーゆえば、ボロやんが成龍と絡んだ作品ってあるんでしょうか?

>> 今後その手の作品についても語ってもよろしいでしょーか?
> どうぞ!私は劇場公開作品以外はあまり見ていませんが。

あっちゃあーーー(怪鳥音ではない)。 
ビデオ・スルーの作品はあまり見てないんですか・・・ じゃ、fake様が未見の作品の感想を、僕が一方的に書くっつー形になりそうですが書かせていただきますね。 
最近入会した50円レンタルの店で、どこにもなかった作品を含め、この手の作品がたくさん見つかったんで、再見の作品も含め大量に見ていく予定なんです。

> 『タイガークロー』は近所のレンタルに置いてないですね。でも好きに書いて下さって結構ですよ。

僕も最近やっと見つけました。では、お言葉に甘えてネタバレで書きます。  
この作品でボロやんは強い格闘家ばかりを襲って虎拳で殺すシリアルキラーで、ラストでは主役の刑事(虎拳を使う毛唐)に倒されますが、殺されず逮捕されます(殺されなかったってとこがミソです)。  
ボロやんのラスト、パトカーの中のボロやんのアップの表情にジーンと来てしまいました。  
正直、香港映画じゃないから格闘シーンもそれなりに期待値を低めに設定してから見てます。それでも“悪くはない”とゆー程度の評価で、格闘シーン的にはイマイチだったのですが、ボロやんの最後の表情を見た時に、このシーンを見られただけでもレンタルして良かった! を感じました。 
初めて?負けた事にショックを受けてるのか、やっと自分がやってきた事に気付いて深く反省しているのか、いっそのこと殺してほしかったと思っているのか、とかいろいろと想像出来る意味深な表情でした。

13日TVで『ジェダイの復讐』(特別篇)を途中から見ました。ラスト、ルークがオビワン、ヨーダ、アナキンの幽霊?を見るシーンで、アナキンがヘイデン君になっててビックリしました。
しかし、ルークは中年とゆーか爺さんになったアナキンしか見ていないんだから、ヘイデン君を見て「誰やねん、あの若造」と思うはずなんで、この新合成には大反対です。
それにしても、実際中に入っていたデヴィッド・プラウズが、アナキンとして顔を見せて欲しかったを当時劇場で感じました(ネタバラししたとかでルーカスを怒らせたため、ああなったと聞きました)。
カッコイイ悪役ふうのルックスだし、彼の方がマーク・ハミルと似てないこともなかったし、ヘイデン君には似てるとすら思います。

Re:更新 [2005年07月15日(金)]

Name:旋子
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fake師父、こんにちは。
大変ごぶさたしております。ここしばらく、30年来の功夫映画への熱が下がっておりましたが、先日、久しぶりにこちらにおじゃましたところ、充実の劉家良特集がつづいているのを知り、一気にROMさせていただきました。
そして、今回の『少林寺三十六房』と『少林寺拳道』すばらしいです!
自分の好みをいうと、『三十六房』は好き(ダメ)で、『拳道』はとても好きな作品です。
『三十六房』は評価の高い修行鍛錬シーンが自分的に納得できない部分が多く、今一つ乗り切れない作品なんです。傑作と言う方が多いので、余計うがった見方をしてしまってるのかも知れません。一方『拳道』はコメディタッチということもあり、力入らずに最初から最後まで気持ち良く見れるので気に入ってます。(あまりに軽い見方申し訳ないです)
>北院では南方語で話し、南院ではたどたどしい北方語("私、修行、来た"程度の会話)を使用して喋る劉家輝の姿は爆笑モノで、この映画だけは中文英字幕広東語版でなければその面白さは堪能出来まい!
そうだったんですか!まだまだ深いモノがあったんですね。私が観てるのは北京語字幕ナシ版なので、そのへんのニュアンスは全くわかりませんでした。中文英字幕広東語版ぜひ観たくなりました。
個人的には京柱演じる三徳和尚が印象的で、とても気に入ってます。
>'89年9月9日、全国東映系において『悲しきヒットマン』の併映作品として日本の劇場で公開されたのだ。
その頃、1人暮らししていた岐阜の映画館(観客数人でした)で食い入るように観たのを覚えてます。

Re:殘缺 [2005年07月15日(金)]

Name:fake
Email:episodo1@iris.dricas.com
URL:http://myroom.isao.net/room164/0000001000019164

>面白いことにこの「殘缺」更新はまたも全くの偶然なんですよ。

 それは面白い偶然です!ここを見て書いてくれ
たのかとも思ったのですけど・・・。

>仰るとおり、両足を無くしても鉄脚着けたらもう不具ではないのは確かで、繰り出される殺陣が不具に準じないのも然り。

 先に『爛頭何』を見て、『殘缺』はもう勝手に不
具拳の真打だと想像していたんですよー。

>ただ個人的には鉄輪を利用したアクロバティックな戦いや、修行シーンの面白さなど非常に楽しめた映画でした。暗くないし。

 不具拳という括りを外してしまえば、五毒組の素
晴らしいアンサンブルを堪能出来る映画ですね。

>「爛頭何」は汪禹がオカマになるシーンで笑いましたねぇ。

 『笑傲江湖』の東方不敗を連想したんですが、オ
カマのおっさんという以外にそれを示唆するものは
なかったため日記では触れませんでしたが。

>最後の五人バトルは一体何回練習したんだ?ってぐらいにあれは大変ですよ。よくやりきったもんです。

 このレベルの高さは尋常ではないですね。何度見
ても素晴らしいですよ。

更新 [2005年07月15日(金)]

Name:fake
Email:episodo1@iris.dricas.com
URL:http://myroom.isao.net/room164/0000001000019164

 7/15日記更新。本日は、劉家良特集の第十七弾。

 今まで書かなかったのは、ふたつ並べてでないと映
画の本質に迫れないからだったのです。『少林寺三十六
房』と『少林寺拳道』、まとめていきます!

劉家良(17) [2005年07月15日(金)]

劉家良(17)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『少林三十六房/少林寺三十六房』は、仏教の総本山であるインドでも当時の興行記録を塗り替える大ヒットだったという。それはとりもなおさず禅寺としての少林寺の仏教精神と、少林武術の武徳をきちんと描けているからで、劉家良にとってもこれは本望であったろう。映画に描かれる特訓場面は、黄飛鴻以前から伝えられ、劉家にもたらされた古式の武術練習方法を再現したもので、映画的な粉飾は施されているにせよ、功夫映画に写実主義を持ち込んだ劉家良ならではの表現方法であった。 この映画(香港'78)のヒットによって企画された李連杰の『少林寺』(03/12/24日記参照)は、紆余曲折を経て'82年に完成。同年日本でも公開され"少林寺ブーム"を巻き起こしたことは良く知られている。このブームに便乗する形で、日本でも『少林三十六房/少林寺三十六房』が公開(83/4/11)されたのだから皮肉である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『陸阿采興黄飛鴻』『洪熙官』と続く南派少林伝説の最後のピースを埋めるのが本作で、自身のルーツ探索という意味合いでの作品はこれが最後ということになった。 少林寺に入門した劉裕徳(後の三徳和尚:劉家輝)が、厳しい修行の末に第三十六房を開設し、広く民間に子弟を求めるまでにこの映画テーマが凝縮されている。全体の半分以上を割いて描かれるトレーニング場面は、写実主義と歴史のロマンチシズムを併せ持つ名場面であり、テーマの具象化を完璧に映像にしてみせた。 それゆえか、その後の羅烈扮する将軍への仇討ち場面は甚だ蛇足的であり、たとえ物語の発端が清朝による弾圧と家族の復讐であったにせよ、仏教の真理を学んで得度した劉裕徳が、あくまで復讐を求めるラストは映画にそぐわないものだった。 これが功夫映画としての足枷であり、同時にこれはこの映画の限界点でもあった。続編として製作された『少林塔棚大師/少林三十六房續集/少林寺拳道』は、この足枷を逆に利用し、パロディ的側面を持ちつつ功夫映画として昇華させたものである。つまり『少林三十六房』と『少林塔棚大師』はネガとポジの関係にあるのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『少林塔棚大師』の主人公・周仁傑(劉家輝)は、あまり知られていないだけで彼も南派少林伝説の登場人物である。伝説においては周仁傑(周人傑表記もあり)は洪熙官の弟子であり、映画のように三徳和尚(京柱)の下で学ぶのではない。 これが劉家良にとってルーツ探索の映画ではないのは言うまでもないが、周仁傑という伝説の人物を借りて、『少林三十六房』の足枷を解き放ってみせるのだ。 それは満人の横暴に泣かされる紡績工場を、町の穀潰しである周仁傑が三徳和尚に扮装して救おうとする場面に集約される。本当は武術などからきし出来ない周仁傑を、紡績工場の人間総出で達人に見せかけるのだ。ワイヤーに吊られて驚異的な跳躍を披露し、周仁傑が袖を一振りするや、いかにもやられた振りで自分から大げさに飛ばされる工場の人たち。これは正に功夫映画の仕組みそのものであり、スタントの裏側を白日に曝した瞬間だ。 前作で三徳和尚その人を演じた劉家輝が、周仁傑から三徳へと変わる瞬間、映画俳優が無敵のヒーローとなる功夫映画のメカニズムを痛烈に描いて見せるのだ。 『神打』『洪熙官』以後、抑え気味にしてきた劉家良という作家のリアリスト的側面が、これほど発揮されたのは久しぶりで、この'80年はこれ一作だけに賭けたのも肯ける。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー結局、満人にトリックを看破され、周仁傑は三十六房へと入門して修行を開始。元々坊主頭の周仁傑は僧侶として潜り込もうとするが、終生の修行僧の集まりである北院にはとても入り込めない。そこで今度は俗家弟子の集まる南院(これが三徳和尚のいる所)へと入り込もうとするのだが、今度は坊主頭が邪魔になる。 どっちつかずの状態で右往左往する周仁傑は、まるで童話に出てくるコウモリである。北院では南方語で話し、南院ではたどたどしい北方語("私、修行、来た"程度の会話)を使用して喋る劉家輝の姿は爆笑モノで、この映画だけは中文英字幕広東語版でなければその面白さは堪能出来まい! 三徳和尚に見破られた周仁傑は、寺の改修工事の足場作りに回されるが、竹垣の足場を作りながら我知らずの内に武術を学び取る。 劉家良が『陸阿采興黄飛鴻』で描いた練功片のスタイルは『少林三十六房』に於いて一応の頂点を迎える。一方、『神打』から始まった現代小子片は、劉家良の手を離れて数々の亜流を生み続ける。この『少林塔棚大師』が作られた頃までがそのピークであり、"練功片"+"小子片"="練功小子片"という一大ジャンルを形成していた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーージャッキーの『酔拳』登場がその白眉であり、それはまるで『少林三十六房』に対する『少林塔棚大師』のごとく、『陸阿采興黄飛鴻』とネガポジなのだ。 現代っ子の象徴である小子片の主人公たちは、要領よく立ち回って世の中を泳いでみせるが、結局は『陸阿采興黄飛鴻』の師弟関係を一歩も出ることはない。 そこでこの映画だ。本人にすら全く習っている意思もなく、また三徳和尚とて教えている積もりもない中で、周仁傑は三徳和尚も驚くほどの成長を遂げる。そればかりか竹紐を使った独自の武術まで編み出しているではないか。 "門前の小僧、習わぬ経を読む"という訳だが、練功小子片の師弟関係を解体した上で、武術の本質と"練功"の真の意味を描いていく劉家良の作劇法は、全くもってお見事!という他ない。ここにきてパロディとしてスタートした『少林塔棚大師』は、正攻法の練功片へと変貌を遂げたのだ。 『少林三十六房』の足枷を外してなお、正統派の功夫片へと引き戻した訳は、その『三十六房』では消化しきれなかった功夫片としての限界点を描く為だ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー仏教に得度した劉裕徳(=三徳)の復讐に問題があるなら、知らずの内に反復練習と探究心によって武術を会得してしまった周仁傑は、それゆえに小子(邪)から伝説の英雄(正)へと生まれ変わる。彼はここで武術とは何か?も仁徳とは何か?も知り得るだけの人物となったのだ。 紡績工場を満人の横暴から守るという最初の段階に立ち戻り、復讐という映画的カタルシスを満たしつつ、周仁傑は満人そのものは裁かない。王龍威も江島も權永文も、復讐のために命を取られる事はなく、その罪のみを断罪されるのである。 これは『少林三十六房』よりも一段高い成果であるが、この映画がその『少林三十六房』なくしては生まれなかったのも事実だ。ネガとポジという関係性が、これでお解りいただけたであろうか? 最後に余談であるのだが、この映画は一部の文献などに於いてTV放映作品ということにされている。TV放映されたのはまぎれもないが、この映画はれっきとした劇場公開作品だ。'89年9月9日、全国東映系において『悲しきヒットマン』の併映作品として日本の劇場で公開されたのだ。数少ないショウブラの、それも劉家良作品の日本公開という歴史は消してはならないため、ここに書き留めておく次第である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー続く 
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