『新警察故事/香港国際警察』(2)'04年製作、監督:陳木勝、主演:成龍ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーではジャッキー・チェン映画とは何であったのか?それは、どんな役者にも代替不能なジャッキー個人のキャラクターと、国家なき国家、香港を象徴するグローバリズム、いやそれ以上に国家の存在すら超越したコスモポリタニズムに裏打ちされた世界観、それがジャッキー映画だ。 ひとつずつ検証していく。ジャッキー・チェンと同じようなアクションが出来る役者は大勢いるが、元彪(ユン・ピョウ)主演の『一個好人/ナイスガイ』や、李連杰(ジェット・リー)主演の『RUSH HOUR/ラッシュアワー』は成立しない。これが個人のキャラクターによる違いであるのは歴然であり、全ての映画はジャッキー・チェンという他には得がたいキャラクターによってのみ立脚し得るのである。映画の出来不出来はともかく、代替不能であるというのはそういう意味だ。 コスモポリタニズムとは、個人を国家の最小単位で考えるのではなく、地球レベルで考える意識のことだ。個人も国家も地球の住人であることには変わりはなく、そこには普遍的な人間の営みが行われている。そうであるならば地球の問題はそのまま個人の問題であるべきで、国連の存在意義や環境サミットなどは全てコスモポリタニズムによるものだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーージャッキー・チェンの映画は彼以外には成し得ない世界観に裏打ちされているが、そのひとつが個人のキャラクターにあるとしても、彼が提示する"ジャッキー映画的コスモポリタニズム"にも因っているのは見逃してはならない。彼の映画に顕著、というかほとんど全てを通して描かれているといってもいい、青臭い正義感と幼稚な理想主義がそれだ。 実際のところ、この点においては植民地としてその歴史をスタートさせ、中華人民共和国の成立、文革、難民問題を抱えて社会が成熟していった香港では、正義に対する倫理観や、社会に対する理想は、ジャッキーの考える正義や理想よりもドライであり、時として大人としての対応を見せる。 そんな中で生まれ育った香港映画が、長い年月に渡って描いてきた現実は、ジャッキーとは違いより洗練した形に昇華されているのだ。こうした点を鑑みても、ジャッキーの提示する正義は青臭く、理想は幼稚であると言わざるを得ない。 だが、その青臭さと幼稚さこそ、国家間のしがらみや、言語、文化の風習を越え、世界中で支持される要因となっていったのだ。 いわばジャッキー・チェンという存在が青臭く幼稚であればあるほど、国家的枠組みを超越したコスモポリタニズムの具現化として、その存在感と輝きを増すのだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこのことがジャッキー映画を世界で唯一無二の存在たらしめているのであり、彼の映画が香港映画にはならない最大の要因で、トレンドや流行に無縁だったことだけが彼を孤高の存在たらしめていたのではない。 『新警察故事』は香港映画であるが、現在の香港ではこれほどの大掛かりな作品を作る体力は、ジャッキーが参加する作品にしか与え得ない。ドラマ部分はともかく、全体の構成の中では、やはりジャッキー・チェンという特異なキャラクターによって成立している(させている?)。 だがこれはやはり香港映画だ、それも珍しくジャッキー自らが20年の空白を埋めるべく香港映画側に歩み寄って作られたのだ。 全体の構成を別にすれば、ストーリー部分だけなら劉雲青(ラウ・チンワン)や李修賢(ダニー・リー)でも成り立つし、派手なアクションを取り除いてしまえば、それこそ黄秋生(アンソニー・ウォン)にだってやれる話だろう。 こういう映画にジャッキーが出演すること自体が稀で、ジャッキーとしての色は明確に付けてあるにせよ、純粋な香港映画の枠に収まっている感は高い。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの映画が、現在の香港映画のトレンドとイコールというのではないにせよ、従来ならカメオ以外で共演することすらなかった若手俳優たちとの共演が、やはり過去のジャッキー映画との差異である。これは、黎明(レオン・ライ)、邱淑貞(チンミー・ヤウ)と共演した『城市獵人/シティハンター』、舒淇(スー・チー)、梁朝偉(トニー・レオン)、周星馳(チャウ・シンチー)と共演した『玻瑠樽/ゴージャス』以来の出来事であり、事件なのだ。 個人的な感想を述べさせて貰うと、本当は90年代以降もっと積極的に若手俳優との共演をやってもらいたかったのだが、ハリウッド進出がこれを足踏みさせたといえるだろう。遅きに逸した感もあるが、やらないよりはやった方が良いのは言うまでもないのだから、今回の試みは香港映画界に久しぶりに回帰するということも含めて、"新鮮さ"という点では成功だった。 一時期のジャッキー映画は顔ぶれの点でも内容の点でも間違いなくマンネリに陥っていたのだから。そのマンネリ感を打破する為にも、せめて顔ぶれの新鮮さは必要で、自分の世界観を維持するという役目もあったにせよ、一座芝居に限界は見えていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーブルース・リーとジャッキー・チェン、ふたりの最大の違いは、ジャッキーがまだ生きているということだ。世界に向って香港映画の門戸を開いたのは間違いなくブルース・リーだが、その裾野を世界に向って押し広げたのはジャッキーの功績だ。 既に生ける伝説として世界で成功を修めたジャッキーだが、香港映画界のローカルな流れとは係わり合いを持たないところで香港映画のレベルを押し上げていた。それをして"孤高の存在"と言わしめるのだが、世界中で一定の成果を挙げた今、地元香港で空白の20年を埋める作業に向ったことは、彼にとっても、また彼のファンにとっても大きな意味を持つのではないだろうか。ジャッキーが今までかかってやってきたことは、それ自体が映画界の財産であり、直接の後継者はいなくとも、それを後進に伝えるのはジャッキーに残された最後のフロンティアではなかろうか。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの項、続く。
次回は本作最大の謎、謝霆鋒(ニコラス・ツェー)について。