旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

更新 [2005年11月30日(水)]

Name:fake
Email:episodo1@iris.dricas.com
URL:http://myroom.isao.net/room164/0000001000019164

 11/30日記更新。本日は、郭南宏の『童子功』です。

 郭南宏、李作楠、丁善璽らが台湾映画界で果たし
た役割りとは? 鐵布杉映画の歴史と共に辿ります。

『童子功』 [2005年11月30日(水)]

『童子功』'72年製作、監督:郭南宏、主演:凌波ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー秘伝・童子功は、いわゆる"鐵布杉"ものに属する。元は少林七十二芸のひとつとして伝説に登場する技だ。映画における用法は"鐵布杉"と同じであり、技名が違うだけだと思ってもらって差し支えない。 傍若無人な"龍谷五鬼(邵羅輝、龍飛、高鳴、謝興、張義貴)"からアベックを救った謎の剣士・凌雲。その腕前に驚いた彼らのボス・魯平は彼を仲間に誘うが、凌雲は姿を消す。呉司の"撃天武館"を襲った"龍谷五鬼"と魯平、呉司はかつての兄弟弟子で魯平は決着をつけにきたのだ。恐るべし"童子功"の使い手・魯平は呉司を追い込むが、再び現れた凌雲に邪魔をされる。凌雲も"童子功"で負傷させられるが、それを救ったのは男装の女剣士・凌波だった。 陳又新の定遠[金票]局を襲撃する"龍谷五鬼"の狙いは、失われた秘伝・"童子功"の第四、第五式。魯平が身につけたのは第三式までであり、彼は残りの行方を追っていた。 三度、凌雲に邪魔されたが、やはりここでも凌雲を救ったのは凌波だ。負傷した凌雲を世話する凌波の脳裏に、幼い頃の記憶が甦る。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー両親の住む山荘を襲った"龍谷五鬼"に、山荘を皆殺しにされたが生き延びた凌波は、生き別れた兄弟子と仇である魯平を追っていた。凌雲はもしかして・・・・それならば彼の手にはあの時の傷があるはずだが?目覚めた凌雲に不審がられた凌波は全てを打ち明ける。 小妹!お前だったのか!再会を喜ぶ二人。兄妹弟子手を取り合って復讐を誓う。太極派の凌波に恨まれる覚えの無い魯平だったが、秘伝の残りを求めて原森の屋敷へ。娘を人質に秘伝を要求する"龍谷五鬼"に、救出に現れた凌波は高鳴を倒し娘を解放。秘伝の行方なら私が知っている、明日山塞で会おうぞ! 待ち受ける"龍谷五鬼"を倒し、魯平との決戦を向える二人。無敵の"童子功"を駆使する魯平の前に苦戦を強いられるが、魯平の耳が弱点であることを見て取った凌波は決死の突撃を敢行。なおも食い下がる魯平に止めを刺した凌波と凌雲は、江湖に平和を取り戻すのだった。 ストーリーを見てお解りだと思うが、これが郭南宏後期の傑作『太極元功/ドラゴン太極拳』の原型だ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー"鐵布杉"ものの原点は「聖朝鼎盛萬年青」に登場する方世玉にある。伝説に登場する少林寺の秘伝のほとんどは「聖朝鼎盛萬年青」を経て「少林演義」などに受け継がれた。やがて武侠小説が登場するに及んで、伝説の秘伝は更なる荒唐無稽な変化を遂げていった。これらが映像化されていく過程で、最初に"鐵布杉"が登場する映画が何であったかは不明であるが、香港映画創世記の初期"方世玉"モノに登場していた可能性は高い。上海映画時代の'28年作品『方世玉打擂台』、'38年の香港映画『方世玉打擂台』、'48年から始まった石燕子の方世玉シリーズなどにその原型が存在しているだろう。これを持ってして"鐵布杉"モノの原点といっても構わないのではないか!? この流れは傅聲のショウブラ方世玉に受け継がれたが、悪役が"鐵布杉"の使い手で、主人公側がそれを打ち破る映画の原点は今のところ不明である。古い映画雑誌にはこの『童子功』を"過去に例が無い"と評しているが、それでもこれが最初ということではあるまい。 ただ、現代功夫片に繋がる分岐点的役割は果たしたであろうし、郭南宏は間違いなくそれを自作に取り入れている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの映画にはもうひとつ語っておかなければならないことがある。それはこの映画がショウブラ作品である、ということだ。 郭南宏inショウブラ!この事実だけでファンにはマストアイテム化間違いなしだろう。この間の経緯については些か説明を要する。ショウブラに日本人監督たちが渡ってきたのは60年代中期のこと。井上梅次、中平康ら監督から、西本正、宮木幸雄らカメラマン、照明技師の傍士延雄、録音技師の中井喜八郎、その他、美術、メイク、音楽に至るまで日本映画のスタッフが香港で技術指導を始めたのだ。これにより香港映画(当時は=ショウブラのこと)の技術レベルは飛躍的に向上した。折からの"陽剛"ブームと相まって、ショウブラの映画は東南アジアを席捲。 台湾映画人にとって更に事態は深刻な状況を向える。ショウブラと契約や制作の問題で揉めた李翰祥、胡金銓が相次いで台湾入りしたのが'65年過ぎのこと。 当時の台湾映画界はまだまだ規模も技術レベルも低く、映画会社は政府、国民党、軍部が管理するもので、独自の映画作りは映画人に認められていなかったのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー当時の台湾には国民党管理の「中央電影企業股[イ分]有限公司」、国防省管理の「中國電影製片廠」、政府管理の「台湾省政府新聞處電影攝影場」くらいしか映画製作所はなかったが、李翰祥は嚴俊と共同で「新國聯公司」を、胡金銓は「聯邦影業公司」を設立。台湾映画界の発展と活性化に勤めたのだ。 だが、この事態に危機感を抱いた台湾映画人もいた。台湾娯楽映画の重鎮・丁善璽その人である。"このままでは香港映画に乗っ取られてしまう・・・・かといって現状の台湾映画界のレベルでは太刀打ちも出来ない"そこで丁善璽は同様の思いを持つ有志を集め、ひとつの提案を切り出した。"諸君、残念だが我々の技術では今の台湾映画界を救うことは出来ない、ここはひとつ会稽の恥を承知で香港映画界で技術を学んではどうであろう?" これに賛同した郭南宏、李作楠(助監督時代の朱延平も共に)、そして丁善璽も自らショウブラの門を叩いたのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー丁善璽は73年に『盗皇凌』『馬蘭飛人』、75年に『吃人井』を、トップバッターとして乗り込んだ郭南宏は71年に『劍女幽魂』、72年に『童子功』、74年には李作楠が『鬼馬兩金剛』をショウブラで制作した。(未確認情報では巫敏雄が『龍虎地頭蛇/子連れドラゴン女人拳』を台湾と共同で制作したという) この経験を元に台湾映画界へ帰った彼らは、台湾娯楽映画のレベルを押し上げ、台湾映画界の牽引車として君臨したのだ。 70年代に起こった未曾有の功夫・武侠片ブーム、香港と連動して台湾でそのムーブメントの中心人物だった郭南宏、丁善璽、李作楠、そして80年代以降の台湾娯楽映画を支えた朱延平。彼らは一時の恥を忍んで香港映画界で修行したが、それがなければ今の華流ブームもF4人気も存在し得なかったであろう。彼らの成し遂げたことは、台湾映画界にとってそれほど大きな出来事だったのである。
trackback Blog by isao.net