旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

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『キング・コング』('05) [2006年02月09日(木)]

『KING KING/キング・コング』'05年製作、監督:ピーター・ジャクソン、主演:ナオミ・ワッツ

 まず歴史から確認しておく。

 1925年、シャーロック・ホームズでお馴染みのコナン・ドイルが書いた小説「ロスト・ワールド」が映画化された。アマゾンの奥地に踏み入った探検隊が、そこで人外魔境の“失われた世界(ロスト・ワールド)”を発見。そこでは、有史以前の恐竜や猿人が共存しており、探検隊は恐竜(プテロダイクテイル)を捕獲。ロンドンへと連れて帰る。ロンドンへ連れられてきた恐竜は逃げ出し、大暴れの末、テムズ川に転落し姿を消す。

 これが全ての怪獣映画の原点だ。

 『キング・コング』が最初に登場するのは'33年。『ロスト・ワールド』より8年後のことである。映画監督のデナムが撮影の為に訪れた髑髏島(スカル・アイランド)は、恐竜の棲み暮らす秘境で、そこの王として君臨するコングに、生贄として捧げられた女優アンを助けるため危機に立ち向かう。撮影には失敗するもコングを捕獲、NYに連れ帰り、世界第八番目の驚異!として一般に公開。だが、コングは逃げ出し、アンを抱えてエンパイアステート・ビルの上に登り、複葉機の攻撃を受けて息耐える。
 基本的に全ての『キング・コング』はこういうストーリーだ。

 映画は大ヒット、製作元のRKOはすぐさま続編の『コングの息子/コングの復讐』('33)を製作した。『キング・コング』の製作者・メリアン・C・クーパーは、戦争を挟んで没落し、戦後にジョン・フォードの助けを借りてコング三部作最後の『猿人ジョーヤング』を製作。夢よもう一度を狙ったのだが、回を重ねるごとに擬人化し、愛嬌を振りまくコングは興行価値を失い、やがてスクリーンから姿を消した。

 『ロスト・ワールド』から『猿人ジョーヤング』までの特殊撮影を担当したのは、ウィリス・H・オブライエン。ひとコマづつ撮影していくモデルアニメーションの草分けであり、彼の弟子がレイ・ハリーハウゼンである。『キング・コング』の成功は彼らなくしてはあり得なかったことを付け加えておく。

 53年、レイ・ブラッドベリーの短編「霧笛」を映画化した『原子怪獣現る』が登場。北極海の核実験から生まれた怪獣が、NYに上陸して暴れる話で、『ロスト・ワールド』から『ゴジラ』('54)を繋ぐ重要な作品である。ここでも、怪獣映画の基礎パターンは、『ロスト・ワールド』『キング・コング』を経ていることが確認されるのだ。S・スピルバーグの『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』は、この歴史の流れに捧げられたオマージュであり、怪獣映画としての先祖帰りだ。

 『ゴジラ』の特撮を担当した円谷英二は、その生涯の夢は『キング・コング』をリメイクすることであった。RKOから正式にコングの権利を借り受け、念願の企画を実現したのが'62年の『キングコング対ゴジラ』。コングの名前が先である点に、円谷の思いが表れている。RKOとの契約が残っている間に製作されたのが'67年の『キングコングの逆襲』で、コングを擬したメカニコングと闘うというストーリーに、日本テイストが感じられるのだ。

 ここまでが、正統キングコングの歴史である。

 以後、『猩猩王/北京原人の逆襲』『クィーン・コング』などのパチもんは無数に生まれるが、'76年にイタリアのプロデューサー・ディノ・デ・ラウレンティスの手によって銀幕に甦るまで、正統コングは作られなかったのだ。
 今回('05)のリメイクに至るまでに、ラウレンティスによって'76年版の続編『キングコング2』('86)が、『猿人ジョーヤング』のリメイク『マイティ・ジョー』('98)が作られている。

 これほど沢山のコングが、およそ70年以上の歳月を掛けてスクリーンに登場したのだ。基本的にほとんど全ての世代がなんらかの形で、このキングコングという物語に接したことがあると言っても構わないだろう。

 キングコングは巨大なゴリラではない。

 まず、あれほど巨大なゴリラはこの世には存在しない。コングの棲む島には、恐竜や巨大昆虫、人間も同居しており、例え映画の設定上である1930年代('76年版は現代、ただし恐竜は登場しない)であったとしても、そんな島がこの世には存在しないのはお解りであろう。

 ではコングは何者か?

 彼が象徴するのは、野生そのものであり、それはやがて文明に侵食され、滅ぼされる運命にあるものだ。だから『キング・コング』のストーリーは、都会からやってきた人間に捕獲され、文明に晒されて死んでいく“野生の王”でなくてはならないのである。

 そこでコングは、恐竜と人間が共存する島で、恐竜から人類に至るミッシング・リンクを繋ぐ役割を担わされているのだ。そこにこそ、“コング”が“キング”として、映画の中で滅び行く野生の象徴足りえるのだ。

 今回のコングは正にこの点がダメなのだ。これはいわば“キングコング”という作品の軸の問題である。

 テクノロジーの進歩は彼にリアルなゴリラとしての姿を与えたが、先に述べたように、コングはこの世に有り得ない島に棲む“野生の王”である。姿形こそゴリラかもしれないが、恐竜も人間も越える種の“キング”でなくてはならないのだ。

 それをただの“ジャイアント・ゴリラ”にしてしまうとは何事か!

 コングは基本的には霊長類のゴリラ科ではある。その点は同意しよう。リアルなゴリラの動きもそれであるならば、それほど非難するには当るまい。

 マウンテンゴリラは、発情期になると人間相手にも求愛行動を示す事例が報告されている。しかしこれは体長2〜3mくらいのマウンテンゴリラの話である。それくらいのサイズであれば、人間に種の保存以外の性欲処理行動を起こしても、行為それ自体が成り立つからだ。

 キングコングは今回体長8mに設定されている。'33年版は15m、'76年版は20mに設定されていることから比べても、何とも中途半端だ。普通のゴリラより大きいが、歴代コングより小さい'05年版でも、アンが手のひらサイズであることに変わりは無いからだ。

 コングがゴリラ並の知能を有しているとするなら、霊長類としての親愛の情くらいは示すであろうが、基本的に生物が手のひらサイズの生き物にオスとしての愛情を注ぐとは思えない。だからリアルにすれば良いというものではない。

 あのサイズでは動物の本能としての性欲を伴う愛情行為が成立しない、であるなら、コングにとってアンとは一体どういう存在になるのが正しい姿であろうか。

 島でコングに与えられてきた数々の生贄は、全て現地人であった。しかしアンは、島の女たちとは違う、金色の毛と白い肌を持つ生き物だ。島の種の王、食物連鎖の頂点として君臨するコングにとって、“キング”である自分にしか与えられない大切な戦利品なのである。

 コングがアンに示す情愛のうち、何パーセントかは親愛の情である。しかし残りは違う。違わなければならないのだ。戦利品としてのアンこそ、“キングコング”としての存在証明そのものでもあるのだから。

 滅び行く野生の王・・・・“キングコング”、歴代コングが怪獣として描いてきた意義を無視して擬人化しても、コングの存在を矮小化するだけなのである。

 最後に、

 ・・・・・・・長ぇよ、この映画。
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