『柳生一族の陰謀』(2) [2006年02月19日(日)]
『柳生一族の陰謀』(2)'78年製作、監督:深作欣二、主演:千葉真一 他オールスター
( )内は映画の配役です。
徳川家光(松方弘樹)は、徳川家三代将軍の座(1623年)についた時「余は生まれながらの将軍である」と言ったといわれている。これは、“応仁の乱(1477年)”から続いた戦国時代が、完全に終結したことを意味する重要な宣言であった。
戦国大名の多くにとって、徳川家康・秀忠の親子は、共に戦って戦国の世を勝ち抜いた同志である。武家の頭領として徳川家は将軍の座にはついたが、同じ釜の飯を食い、共に血を流した同士的連帯感は存在していた。
家光は違う。生まれこそ1604年であるが、元服したのは1620年、大阪夏の陣から5年後のことである。つまり、最早戦争は起こらない、平和な時代が訪れたことを家光自身が象徴しているのだ。これからは正しく徳川家の天下であり、大名衆は否が応でもその時代が訪れたことを知らされた訳だ。
今日から徳川の天下だ・・・・そう言われても、昨日まで戦争をやっていた連中や、社会の雰囲気というものは、おいそれとは変わらない。家光の時代は戦国の余燼をいち早く終わらせ、新時代を構築していく過渡期にあたり、江戸時代でも最も大事な時期なのであった。
家光は幼少より吃音あり、顔に疱瘡があった。これを母・於江代(山田五十鈴)に嫌われ、弟・忠長(西郷輝彦)の方が寵愛を受けた。自然、家光派と忠長派が出来上がり、忠長が駿河に領地を得ると、西国大名の多くも江戸へ行く前に駿河へと立ち寄る様になっていった。
乳母・春日局(中原早苗)の奔走によって、家光が家康より将軍職を継ぐことが決まると、忠長は大阪城を望み、これが受け入れられないと鬱屈した日々を送るようになる。当時、細川忠興、忠利親子の書簡に「忠長は松平忠輝(家康六男・謀反の噂により改易)のようになるのではないか・・・」と記されるほどで、細川家の予感は遠からず当ることに。
ここまでが正史。
映画は、この部分をベースに膨らませてあるのだが、一番正史と違う立場に置かれたのが老中・土井大炊頭利勝(芦田伸介)。幼少より家康の下で帝王学を学び、秀忠・家光に側近として使え、徳川家300年の磐石を築いた功労者である。映画では家光派の“知恵伊豆”こと松平伊豆守信綱(高橋悦史)対抗馬として忠長派を統括するが、本来なら家光側近中の側近なのだ。
土井利勝は若い頃の家康そっくりであったそうで、家康の実子なのでは?という説がある。徳川家の正史「徳川実記」にも載せられていることから、かなり信憑性が高い説だが、これを元に書かれた小説が、先頃TV化もされた池宮彰一郎の「天下騒乱」。
家光時代の政治を俗に「武断政治」というが、参勤交代の制度を確立、武家諸法度と共に大名や旗本たちを強烈な支配化に置いた。外様大名の改易・廃絶は相次ぎ、実弟・忠長とて容赦はしないことを見せ付けた。
その一方で、禁中並公家諸法度の施行は公家たちを、慶安のお触書で農民たちを封建制度の枠に押さえ込んでいき、キリシタン禁教や鎖国令を敷くことで、外国からの影響(これが封建制度を根底から揺るがすことは、幕末に証明される)を遮断。
家光&忠長の母・於江代は、織田信長の妹・お市と浅井長政の間に生まれた。姉は有名な淀君であるが、於江代も豊臣秀吉の元で幼女時代を過ごした。プライドが高いことは、姉に負けじと劣らずで、恐妻家で知られる秀忠が浮気した時など、相手の子を井戸に投げ込んだとも。それが原因で、秀忠は生涯側室は持たなかったといわれている。
於江代は最初から徳川家の嫁だった訳ではない。秀吉の元で成長した於江代は、秀吉の命で配下の佐治一成というマイナー武将のところへ嫁ぐ。続いて秀吉の甥(姉・日秀の子、“殺生関白”秀次の弟)・秀勝のところへ嫁がされるのだ。
この辺り、秀吉の寵愛を一身に受ける淀君とは雲泥の扱いなのが面白い。
続いて九条道房(金子信雄)に嫁いだともいわれているが、それは秀勝との間に生まれた完子が嫁いだとも、道房はその完子の子であるともいわれていて定かではない。
この映画で面白いのは、公家代表で陰謀を巡らせる人物に、その九条道房を選んでいる点で、家光VS忠長の争いで漁夫の利を得ようと暗躍するのが、於江代と関係あった人物という設定は旨い。
公家側では烏丸光広(成田三樹夫)、三条実条(梅津栄)らが、道房と共に少ない出番ながら強烈な印象を残すが、その烏丸光広は実は家光派だった。家光連歌師として江戸城に滞在。室(夫人)は家康次男・結城秀康未亡人という体制ベッタリの人物でした。
以下、第三回へ
( )内は映画の配役です。
徳川家光(松方弘樹)は、徳川家三代将軍の座(1623年)についた時「余は生まれながらの将軍である」と言ったといわれている。これは、“応仁の乱(1477年)”から続いた戦国時代が、完全に終結したことを意味する重要な宣言であった。
戦国大名の多くにとって、徳川家康・秀忠の親子は、共に戦って戦国の世を勝ち抜いた同志である。武家の頭領として徳川家は将軍の座にはついたが、同じ釜の飯を食い、共に血を流した同士的連帯感は存在していた。
家光は違う。生まれこそ1604年であるが、元服したのは1620年、大阪夏の陣から5年後のことである。つまり、最早戦争は起こらない、平和な時代が訪れたことを家光自身が象徴しているのだ。これからは正しく徳川家の天下であり、大名衆は否が応でもその時代が訪れたことを知らされた訳だ。
今日から徳川の天下だ・・・・そう言われても、昨日まで戦争をやっていた連中や、社会の雰囲気というものは、おいそれとは変わらない。家光の時代は戦国の余燼をいち早く終わらせ、新時代を構築していく過渡期にあたり、江戸時代でも最も大事な時期なのであった。
家光は幼少より吃音あり、顔に疱瘡があった。これを母・於江代(山田五十鈴)に嫌われ、弟・忠長(西郷輝彦)の方が寵愛を受けた。自然、家光派と忠長派が出来上がり、忠長が駿河に領地を得ると、西国大名の多くも江戸へ行く前に駿河へと立ち寄る様になっていった。
乳母・春日局(中原早苗)の奔走によって、家光が家康より将軍職を継ぐことが決まると、忠長は大阪城を望み、これが受け入れられないと鬱屈した日々を送るようになる。当時、細川忠興、忠利親子の書簡に「忠長は松平忠輝(家康六男・謀反の噂により改易)のようになるのではないか・・・」と記されるほどで、細川家の予感は遠からず当ることに。
ここまでが正史。
映画は、この部分をベースに膨らませてあるのだが、一番正史と違う立場に置かれたのが老中・土井大炊頭利勝(芦田伸介)。幼少より家康の下で帝王学を学び、秀忠・家光に側近として使え、徳川家300年の磐石を築いた功労者である。映画では家光派の“知恵伊豆”こと松平伊豆守信綱(高橋悦史)対抗馬として忠長派を統括するが、本来なら家光側近中の側近なのだ。
土井利勝は若い頃の家康そっくりであったそうで、家康の実子なのでは?という説がある。徳川家の正史「徳川実記」にも載せられていることから、かなり信憑性が高い説だが、これを元に書かれた小説が、先頃TV化もされた池宮彰一郎の「天下騒乱」。
家光時代の政治を俗に「武断政治」というが、参勤交代の制度を確立、武家諸法度と共に大名や旗本たちを強烈な支配化に置いた。外様大名の改易・廃絶は相次ぎ、実弟・忠長とて容赦はしないことを見せ付けた。
その一方で、禁中並公家諸法度の施行は公家たちを、慶安のお触書で農民たちを封建制度の枠に押さえ込んでいき、キリシタン禁教や鎖国令を敷くことで、外国からの影響(これが封建制度を根底から揺るがすことは、幕末に証明される)を遮断。
家光&忠長の母・於江代は、織田信長の妹・お市と浅井長政の間に生まれた。姉は有名な淀君であるが、於江代も豊臣秀吉の元で幼女時代を過ごした。プライドが高いことは、姉に負けじと劣らずで、恐妻家で知られる秀忠が浮気した時など、相手の子を井戸に投げ込んだとも。それが原因で、秀忠は生涯側室は持たなかったといわれている。
於江代は最初から徳川家の嫁だった訳ではない。秀吉の元で成長した於江代は、秀吉の命で配下の佐治一成というマイナー武将のところへ嫁ぐ。続いて秀吉の甥(姉・日秀の子、“殺生関白”秀次の弟)・秀勝のところへ嫁がされるのだ。
この辺り、秀吉の寵愛を一身に受ける淀君とは雲泥の扱いなのが面白い。
続いて九条道房(金子信雄)に嫁いだともいわれているが、それは秀勝との間に生まれた完子が嫁いだとも、道房はその完子の子であるともいわれていて定かではない。
この映画で面白いのは、公家代表で陰謀を巡らせる人物に、その九条道房を選んでいる点で、家光VS忠長の争いで漁夫の利を得ようと暗躍するのが、於江代と関係あった人物という設定は旨い。
公家側では烏丸光広(成田三樹夫)、三条実条(梅津栄)らが、道房と共に少ない出番ながら強烈な印象を残すが、その烏丸光広は実は家光派だった。家光連歌師として江戸城に滞在。室(夫人)は家康次男・結城秀康未亡人という体制ベッタリの人物でした。
以下、第三回へ







