「斬る 続柳生一族の陰謀」(2) [2006年02月27日(月)]

「斬る 続柳生一族の陰謀」(2)

 備前池田家の家臣・河合又五郎は、藩主・池田忠雄の寵愛深い渡辺源太夫を斬って後、逐電。又五郎の父・河合半左衛門もかつて、高崎安藤家の家臣でりながら、同僚を斬って出奔した過去があった。
 河合半左衛門が池田家の庇護を受けたのは、高崎安藤家の追手から逃げる途中、池田家の大名行列に飛び込み助けを求めたからであった。

 これが何故事件になるのか?それは徳川家康の戦後処理に禍根の始まりがあったからだ。家康は、三河以来の譜代の家臣や旗本には名誉を、外様大名(伊達とか前田とか)には禄高を持って応えた。
 家康が生きているうちは良かった。だかこれも家光の代(戦国時代が終わったことを宣言した)になると、旗本と大名の対立が表面化。旗本は旗本で、“誰が血を流して勝ち取った天下だ・・・”という思いはあるし、大名は大名で“何かといえば三河以来の・・・”とうるさい旗本には手を焼いていたのだ。

 逐電した河合又五郎が逃げ込んだのが旗本・安藤次左衛門のところ、これがかつて父・河合半左衛門が逃げ出してきた高崎安藤家の親戚にあたり、かつて高崎で受けた恥辱(高崎安藤家では再三に渡って半左衛門を引き渡すよう池田家に頼んで断られた)に対する仕返しで、他の旗本たちと結集して河合又五郎を庇護。
 寵愛の源太夫を斬られた池田忠雄は激怒したが、又五郎は旗本に守られて手が出せない。それでも死の間際(事件のもつれから毒殺説あり、ちなみに池田忠雄は家康の娘・督子と輝政の子)に“河合又五郎の首を墓前に据えよ”なんて言い残してしまう。こうなっては家臣は何が何でも又五郎を討たなくてはいけない。

 斬られた渡辺源太夫には兄・数馬がいた。江戸の法律で、息子が父の、弟が兄の仇討ちをすることは出来ても、その逆は認められていなかった。そういう訳で数馬は我慢していたのだけど、主君の上意討ちという形で河合又五郎を討つことが認められる。又五郎には旗本が意地で守り抜く為、相当の助っ人がいるんだけど、数馬は剣はからきしダメ。そこで数馬が頼ったのが、姉の夫で大和郡山藩士・荒木又右衛門。で、これが有名な“伊賀越えの仇討ち”に繋がってくるんだけど、そこに至るまでに旗本と大名の対立は相当深い確執になってしまう。これが“河合又五郎事件”の顛末で、小説は更に彼らを影武者家光派と保科正之派に分けて争わせていく。

 保科派が正面切って影武者家光の正体を暴けないのは何故かというと、一度そのような先例を作ってしまうと、徳川家と幕府の屋台骨そのものが揺らいでしまうから。今後も何らかの形で後継者争いは続くだろうし、その都度、反対派から影武者説を言い立てられることになってしまうからだ。この辺り小説に隙はない。政治の上で、将軍が傀儡であっても不都合は無い、その点では保科派も同意見ではあるが、やはり正統の血筋を言い立てて、影武者家光派との政権争いに決着をつけようとするのである。

 柳生家で一番劣る宗冬は、一体この危機をどう乗り越えるのか?兄・十兵衛との対決は?河合又五郎を追う荒木又右衛門は?
 全ての決着をつけんと立ち上がった保科正之が、江戸城総登城を契機に、反対派を糾合して総決起するクライマックス。宗冬が放った最後の逆転技は、キリシタン一揆を煽動して騒動の火種をかわすという秘策。それがやがて、宗冬の思惑も超えて“島原の乱”となっていくまで、息をつかせぬ面白さだ。

 映画『柳生一族の陰謀』が出来る時、現代的な時代劇を狙った深作欣二は、あえて時代劇のイメージのないキャスティング(千葉真一、高橋悦史、西郷輝彦等)を集めた。萬屋錦之介をキャスティングしたのは製作の日下部五郎で、実は“萬屋”の後援会に切符を捌いて貰うのが目的のひとつだった。
 が、それをそのまま錦之介に伝えるわけにはいかず、“時代劇復興は錦之介にかかっている!”と口説き落としたのだった。

 名門“中村”の血をひく錦之助は、父・時蔵の悲願だった“萬屋”の名跡を復活させ、萬屋錦之介となった。時代劇黄金時代を支えたスターだったが、東映とは晩年ゴタゴタ続きだった。
 伊藤大輔、内田吐夢ら巨匠の演出に触れた中村錦之助は、急速に演技者としての深みを増し、それまでのアイドル扱いに不満を洩らすようになる。映画産業も斜陽になり、東映は'66年に時代劇はもう作らないと決定。路線を任侠映画へとシフト、“ここに俺の居場所はない・・・”'66年の『丹下左膳飛燕居合斬り』を最後に東映から離れたのだ。

 独立した錦之助は、先述したように萬屋錦之介となったが、中村プロの旗揚げと倒産、度重なる病との闘いなど、映画界そのものとも疎遠になっていた。その錦之介に、“時代劇復興を!”と口説き落としたことから話はややこしいことになるのだ。錦之介は『柳生一族の陰謀』の脚本を恩師・伊藤大輔に見せ、いくつかの改善点(この時点で製作に口を出している)を持って出演を了承。
 萬屋となってからの映画出演はこの映画が始めてとなることから、周囲が考えている以上の気合で撮影に臨んでいたのだ。

 東映撮影所に帰ってきた錦之介は、撮影所スタッフ全員が待ち構える拍手の中スタジオ入りした。この時、錦之介は“この映画はいける!”と確信したという。
 いざ撮影が始まると、現代劇の時代劇バージョンのつもりで演出している深作との間に確執が芽生え始める。錦之介の芝居は、ひとりだけ完全に浮いてしまっていたのだ。他のスタッフとも協議し、さすがに見かねた深作が注意したところ、“皆さんはそれでいいかもしれませんが、私はこの演技しか出来ない”と深作演出を拒否。東映育ちの松方や千葉が合わせることで何とか統一を保った。

 出来上がりの映画を見てもらえば分かると思うが、この映画における錦之介の演技は異様であり、異質である。深作欣二は“ダメだ”と思ったが、結果的にはこの異質な演技が、柳生宗矩という人間を生き生きと作り上げてしまった。映画を観終った後全ての人に残るのは、異様な錦之介の演技ではなかったか?

 映画はヒットし、東映は時代劇路線を続行。深作には続いてメガホンが任された。そのとき東映の岡田茂社長が出した企画が「忠臣蔵」で、当初は錦之介に吉良上野介をやらせる予定だった。企画を聞いた深作は、まともな「忠臣蔵」なんか自分は撮れないと監督を固辞、「四谷怪談」と絡ませた「忠臣蔵外伝」の原案を提示('94に『忠臣蔵外伝 四谷怪談』として日の目をみる)。
 意外な反対があった。錦之介が吉良上野介は出来ないという。これは時代劇役者としてのアイデンティティの問題だ。若き日の中村錦之助は、東映の“忠臣蔵”もので、岡野金右衛門、浅野内匠頭、脇坂淡路守などを演じている。これは時代劇役者の典型であり、義士や脇の人物を演じ、浅野内匠頭になって、大石内蔵助をやるのが筋なのだ。もし吉良上野介を演じるとしたら、大石の後である。錦之介はこれにこだわった。

 撮影が開始されると、錦之介は自分でカメラマンを引き連れ現場に介入。今度は深作演出にも全く耳を貸さなかった。映画『赤穂城断絶』の構成は、普通の“忠臣蔵”ものではなく、突然主家が断絶した赤穂家の家臣が、幕府の決定にテロを起こすという実録ヤクザ路線に近いものである。にもかかわらず錦之介はオーソドックスな大石像にこだわり、現場を混乱させた。

 錦之介の気持ちも分からないではない。大石内蔵助という役は、時代劇を志した役者にとって頂点の役だからだ。

 撮影が三分の一を進んだところで、深作は現場を降りると言い出し、これは岡田茂の説得で取りやめたものの、『赤穂城断絶』に続く時代劇路線第三弾『真田幸村の謀略』('79)は監督しなかった(監督は中島貞夫)。深作が時代劇に帰ってくるのは、錦之介の出ない角川映画『魔界転生』('81)から。一方の錦之介はこの映画以降もこの路線の作品に出演し続け、束の間のブームながら時代劇復興をその双肩に担ったのだ。

 これで何故「斬る 続柳生一族の陰謀」が映画化されなかったか理解していただけるだろう。見せ場満載の傑作になりうる題材であったにも関わらず、映画完成後の人間関係のゴタゴタに企画が黙殺されてしまったのが原因だ。せめてここに書き留めることで、映画のファンにも知っておいて欲しいと思う次第であります。特集トップへ
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