「Mako」 [2006年08月07日(月)]
「Mako」
2006年7月21日、アメリカ・ロサンゼルスにおいてひとりの俳優がこの世を去った。
男の名は“Mako”。本名は岩松信、だが通称・マコ岩松としての方が有名。日系俳優と紹介されることが多いのだが、兵庫県神戸市に生まれた、れっきとした日本人である。
アメリカ国籍を取得していたこと、日本の芸能界ではほとんど活躍しなかったことから、日本ではあまりその足跡は知られておらず、死後のニュースでも日系俳優として扱われているのを見るにつけ、この国は“文化”というものを蔑にしていると憤りを感じる。
いささか個人的な経験ながら、アメリカ政府の施設で働く私は、マコ岩松死去のニュースが流れた日、職場で多くのアメリカ人から「残念だったな・・・いい俳優だったのに」と声をかけられた。その施設で働く日本人従業員のほとんどが、同様に多くのアメリカ人から俳優“Mako”の思い出について話かけられたが、そこで彼のことを知っていた日本人は、私を含めて二人しかいなかった・・・・。
岩松信は、1933年12月10日に兵庫県神戸市に生まれた。両親は共に画家で、中でも父の八島太郎は著名な絵本作家として知られている。鹿児島県南大隈町出身の八島太郎は、戦前のプロレタリア運動家としての顔を持ち、思想犯として度々投獄された過去を持つ。
'30年代は急速に軍部の勢力が強まっていく時期だ。文部省内部に「思想問題研究会」が儲けられ、軍部や内閣は、右傾化していく日本に反対する思想の持ち主に容赦はなかった。'37年に日華事変が起こり、翌'38年には国家総動員法が敷かれ、国際連盟を脱退し日独伊三国同盟を成立、日本を国際社会から孤立させた。
'39年、アメリカが日米通商条約の破棄を通告したその年に、幼い岩松信は祖父に預けられた。思想犯として日本にいられなくなった両親が渡米したためだが、もう数年遅れていたら岩松信自身の人生も大きく変わっていたのではないか?
日本が真珠湾を攻撃するのは2年後の1941年である。
戦後、両親を頼って渡米した岩松信は、太平洋戦争後のアメリカで人種差別に苦しみながらも建築家を目指す。ブロードウェイの舞台装置の仕事をしているうちに演劇の世界に魅せられていった岩松信は、朝鮮戦争の勃発と共に徴兵されたものの、この戦争に従軍したことで生まれ故郷・日本の土を踏む機会を得る。この時の従軍経験が、彼にアメリカ国籍の取得をもたらし、以後の彼はアメリカを本土とするのだ。
除隊後、ウィリアム・ホールデンやジーン・ハックマンも学んだ「パサディナ・プレイハウス」で演技を学び、オフ・ブロードウェイ、ブロードウェイと順調にキャリアを重ねていったが、やはり人種の壁は彼に厚く圧し掛かった。
'65年、東洋人俳優の認知と、その地位向上のため「東西劇団/East West Players」をロサンゼルスで旗揚げ。その主催者として米国内における東洋人俳優のために仕事の機会を与え、自らも精力的に活動することで差別と闘い続けた。
'50年代から『戦雲』などで映画界にも進出していたが、岩松信を有名にしたのは'66年の『砲艦サンパブロ』であろう。スティーブ・マックィーン主演のこの映画で、マックィーン演じる機関兵と心を通わせる機関士ポー・ハンを演じた岩松信は絶賛され、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされる。'76年にはブロードウェイで『太平洋序曲』に主演しトニー賞候補にも輝く一方で、TV、映画の話題作に出演。ハリウッド映画の東洋人といえば“Mako”と言われるまでになる。
ここまでが、あまり知られていない岩松信のちゃんとした経歴だ。
このHPでは、彼のもうひとつの偉大な足跡にもスポットを当てたい。
『戦雲』『砲艦サンパブロ』でマックィーンと共演、'67年にはTV「グリーン・ホーネット」の第10話「火を吐く空手/The Praying Mantis」において若き日のブルース・リーと共演。“洪家拳”を使うブルース・リーと、“螳螂拳”で闘うチャイナタウンの大物を演じた(アクション・シーンの一部はダン・イノサントの吹替)。
『キラーエリート』でサム・ペキンパーの薫陶を受け、リーの死後低迷を続けたアメリカン・マーシャル・アーツ・ムービーの継承に一役買ったのを手始めに、『武士道ブレード』では千葉真一、三船敏郎、ジャッキーのアメリカ進出第一弾『バトルクリーク・プロー/The Big Brawl』、チャック・ノリスのブレイク直前作『香港コネクション』、ブランドン・リーとはTV「カンフー・ファイター」で、マーク・ダカスコスとは『クライング・フリーマン』で共演した。
更に『コナン・ザ・グレート』とその続編『キング・オブ・デストロイヤー』では、アーノルド・シュワルツェネッガーに付き合い、『パレット・モンク』では周潤發とも共演しているのだ。
アメリカン・マーシャル・アーツ・ムービー史の主要な場面には必ず岩松信が立ち会ったと言っていいだろう。
果たして、世界レベルで見渡してもこれだけのアクション・スターと共演した俳優はいるだろうか?
否!
これは世界中の俳優の中で、岩松信のみが持つ栄光の足跡なのである!
ところが、わが国はこの偉大な俳優を無視し続けた。マックィーン、ブルース・リーから、ジャッキー、シュワまで、彼らの話しを聞くだけでも、それは映画史的遺産であるはずなのに、俳優“Mako”をまともに取り上げるマスコミは皆無であったと言ってよい!
彼は最早この世に無く、俳優“Mako”の生涯と共にその全てが失われてしまった。
'95年に父の故郷・南大隈町を訪れた岩松信は、画家・八島太郎の遺作展に協力。懐かしい故郷の親戚などと旧交を温める一方で、アメリカでも父の遺作展を開いた。同展開催の式典で、父の作品である絵本「からす太郎」を、人形を使いながら朗読してみせたというし、「道草いっぱい」という作品の翻訳出版も手掛けた。「東西劇団」も支援し続け、今春の記念講演に出演予定だったが、4月から体調を崩し入退院を繰り返していたため出演は適わなかった。
遺作は『SAYURI』ということになるが、東洋人俳優が大挙として出演したこのハリウッド映画大作も、半世紀に渡る俳優“Mako”の活躍なくしては有り得ないことであっただろう。
合掌
2006年7月21日、アメリカ・ロサンゼルスにおいてひとりの俳優がこの世を去った。
男の名は“Mako”。本名は岩松信、だが通称・マコ岩松としての方が有名。日系俳優と紹介されることが多いのだが、兵庫県神戸市に生まれた、れっきとした日本人である。
アメリカ国籍を取得していたこと、日本の芸能界ではほとんど活躍しなかったことから、日本ではあまりその足跡は知られておらず、死後のニュースでも日系俳優として扱われているのを見るにつけ、この国は“文化”というものを蔑にしていると憤りを感じる。
いささか個人的な経験ながら、アメリカ政府の施設で働く私は、マコ岩松死去のニュースが流れた日、職場で多くのアメリカ人から「残念だったな・・・いい俳優だったのに」と声をかけられた。その施設で働く日本人従業員のほとんどが、同様に多くのアメリカ人から俳優“Mako”の思い出について話かけられたが、そこで彼のことを知っていた日本人は、私を含めて二人しかいなかった・・・・。
岩松信は、1933年12月10日に兵庫県神戸市に生まれた。両親は共に画家で、中でも父の八島太郎は著名な絵本作家として知られている。鹿児島県南大隈町出身の八島太郎は、戦前のプロレタリア運動家としての顔を持ち、思想犯として度々投獄された過去を持つ。
'30年代は急速に軍部の勢力が強まっていく時期だ。文部省内部に「思想問題研究会」が儲けられ、軍部や内閣は、右傾化していく日本に反対する思想の持ち主に容赦はなかった。'37年に日華事変が起こり、翌'38年には国家総動員法が敷かれ、国際連盟を脱退し日独伊三国同盟を成立、日本を国際社会から孤立させた。
'39年、アメリカが日米通商条約の破棄を通告したその年に、幼い岩松信は祖父に預けられた。思想犯として日本にいられなくなった両親が渡米したためだが、もう数年遅れていたら岩松信自身の人生も大きく変わっていたのではないか?
日本が真珠湾を攻撃するのは2年後の1941年である。
戦後、両親を頼って渡米した岩松信は、太平洋戦争後のアメリカで人種差別に苦しみながらも建築家を目指す。ブロードウェイの舞台装置の仕事をしているうちに演劇の世界に魅せられていった岩松信は、朝鮮戦争の勃発と共に徴兵されたものの、この戦争に従軍したことで生まれ故郷・日本の土を踏む機会を得る。この時の従軍経験が、彼にアメリカ国籍の取得をもたらし、以後の彼はアメリカを本土とするのだ。
除隊後、ウィリアム・ホールデンやジーン・ハックマンも学んだ「パサディナ・プレイハウス」で演技を学び、オフ・ブロードウェイ、ブロードウェイと順調にキャリアを重ねていったが、やはり人種の壁は彼に厚く圧し掛かった。
'65年、東洋人俳優の認知と、その地位向上のため「東西劇団/East West Players」をロサンゼルスで旗揚げ。その主催者として米国内における東洋人俳優のために仕事の機会を与え、自らも精力的に活動することで差別と闘い続けた。
'50年代から『戦雲』などで映画界にも進出していたが、岩松信を有名にしたのは'66年の『砲艦サンパブロ』であろう。スティーブ・マックィーン主演のこの映画で、マックィーン演じる機関兵と心を通わせる機関士ポー・ハンを演じた岩松信は絶賛され、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされる。'76年にはブロードウェイで『太平洋序曲』に主演しトニー賞候補にも輝く一方で、TV、映画の話題作に出演。ハリウッド映画の東洋人といえば“Mako”と言われるまでになる。
ここまでが、あまり知られていない岩松信のちゃんとした経歴だ。
このHPでは、彼のもうひとつの偉大な足跡にもスポットを当てたい。
『戦雲』『砲艦サンパブロ』でマックィーンと共演、'67年にはTV「グリーン・ホーネット」の第10話「火を吐く空手/The Praying Mantis」において若き日のブルース・リーと共演。“洪家拳”を使うブルース・リーと、“螳螂拳”で闘うチャイナタウンの大物を演じた(アクション・シーンの一部はダン・イノサントの吹替)。
『キラーエリート』でサム・ペキンパーの薫陶を受け、リーの死後低迷を続けたアメリカン・マーシャル・アーツ・ムービーの継承に一役買ったのを手始めに、『武士道ブレード』では千葉真一、三船敏郎、ジャッキーのアメリカ進出第一弾『バトルクリーク・プロー/The Big Brawl』、チャック・ノリスのブレイク直前作『香港コネクション』、ブランドン・リーとはTV「カンフー・ファイター」で、マーク・ダカスコスとは『クライング・フリーマン』で共演した。
更に『コナン・ザ・グレート』とその続編『キング・オブ・デストロイヤー』では、アーノルド・シュワルツェネッガーに付き合い、『パレット・モンク』では周潤發とも共演しているのだ。
アメリカン・マーシャル・アーツ・ムービー史の主要な場面には必ず岩松信が立ち会ったと言っていいだろう。
果たして、世界レベルで見渡してもこれだけのアクション・スターと共演した俳優はいるだろうか?
否!
これは世界中の俳優の中で、岩松信のみが持つ栄光の足跡なのである!
ところが、わが国はこの偉大な俳優を無視し続けた。マックィーン、ブルース・リーから、ジャッキー、シュワまで、彼らの話しを聞くだけでも、それは映画史的遺産であるはずなのに、俳優“Mako”をまともに取り上げるマスコミは皆無であったと言ってよい!
彼は最早この世に無く、俳優“Mako”の生涯と共にその全てが失われてしまった。
'95年に父の故郷・南大隈町を訪れた岩松信は、画家・八島太郎の遺作展に協力。懐かしい故郷の親戚などと旧交を温める一方で、アメリカでも父の遺作展を開いた。同展開催の式典で、父の作品である絵本「からす太郎」を、人形を使いながら朗読してみせたというし、「道草いっぱい」という作品の翻訳出版も手掛けた。「東西劇団」も支援し続け、今春の記念講演に出演予定だったが、4月から体調を崩し入退院を繰り返していたため出演は適わなかった。
遺作は『SAYURI』ということになるが、東洋人俳優が大挙として出演したこのハリウッド映画大作も、半世紀に渡る俳優“Mako”の活躍なくしては有り得ないことであっただろう。
合掌








