旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

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『Kill and Kill Again/サンダー・ウォリアーズ』 [2006年09月30日(土)]

『Kill and Kill Again/サンダー・ウォリアーズ』'77年製作、監督:Ivan Hall、主演:James Ryan

 スティーブ・チェイス・シリーズの第二弾。もちろん、前作のヒットを受けて製作されたものだ。この映画も一部資料では'81年アメリカ製作と書かれているが、やはり南アフリカ共和国産であるし、前作ヒットの余韻冷め止まぬ'77年中に製作が開始され、翌'78年に公開された。過去に日本でもビデオ化されており、邦題が存在するのはそのため。

 主演のジェームス・ライアンは'47年生まれというから、映画出演時には30歳前後であったはずで、彼にとっては脂の乗り切った時期であったろう。いわばこの時にピークを迎えていた訳で、この後がパッとしないのもむべなるかな。
 南アフリカ生まれの彼が、何故故国を後にして、30歳を過ぎてから米国に渡ったのかは定かではない。そもそも、ライアンの経歴自体が、今イチ判然としないのである。
 彼の動きを見れば、それなりの武道歴があるのだろうことは推察されるが、その説も松濤館であったり、剛柔流であったりと様々。映画にはスタン・シュミットという松濤館の大物が参加していることから、松濤館説が濃厚だとは思うが・・・・。

 とにかく、'80年前後に南アフリカから米国へと、母国での主演作の権利ごと移住したことだけは確かなのだ。この時アメリカで米国産として公開されたことが、その後の混乱の引き金となったことは言うまでもない。
 南アフリカといえばアパルトヘイト(人種隔離政策)があまりにも有名だろう。一部の金持ち白人が黒人を搾取し続けたこの悪法は、世界的な反対運動によって撤廃されたことはまだ記憶に新しい。
 その反アパルトヘイト運動の機運が活発化し、暴動その他によって、南アフリカが世情不安定になってくるのが、ライアンがアメリカに移住したと推察される'79〜80年からなのだ。ライアンの米国移住に、この問題が絡んでいることは間違いなかろう。

 30歳を過ぎて、それなりに成功を収めた南アフリカ映画界を後にしたライアンだったが、二本の主演作こそそれなりの評価でセールスされたものの、役者としてのキャリアは振り出しに戻った。
 南アフリカ映画界のレベルが問題にされるかもしれないが、アフリカ諸国の映画レベルは、植民地時代に英仏などから持ち込まれた最新技術がベースになっており、特に白人の力が強かった南アフリカはそれなりのレベルにあった。これを捨ててイチから出直す訳だから、ある意味でライアンのキャリアは死んだも同然だった。

 エキストラ同然の役で食いつないだというが、かつてのスターには酷な状況だったろう。'80年代初頭といえば、アメリカではチャック・ノリスの台頭期にあたる。ブルース・リーの死後、火の消えかけたマーシャル・アーツ映画を、孤高の存在として守り抜いたノリスに、ようやく光が当ろうとしていた時期だ。
 映画のジャンルとしてマーシャル・アーツ映画が市民権を得るのは、ヴァンダム、セガール、ラングレンの“マーシャル・アーツ三羽烏”が登場する'80年代後半からである。
 チャック・ノリスという巨人の後塵を拝し、若くて活きのいい“マーシャル・アーツ三羽烏”の台頭に挟まれた格好のライアンに、米国でスターとして生きる余地は全く無かった・・・・ということだ。
 この事態がジェームス・ライアンという役者を、完全に埋もれさす結果を招いたことは、想像に難くない。

 某データベースにあるジェームス・ライアンの経歴の後半生部分は全くの嘘っぱちだ。そこにはこう書かれている。
 
“'87年のTV作品『The Days and Nights of Molly Dodd』の脚本を担当したことから執筆に目覚め、'99年には『The Young Girl and the Monson』の監督・脚本で高い評価を得る。ハリウッド映画における脚本の書き方に関する本を執筆しベストセラーとなり、現在はNYのアクターズスタジオで演技指導の教授として働いている・・・・”

 この後半部分の経歴は、ジェームス・ライアン(スペルも同じ)という同名異人のもので、アメリカでもこれが混同されたまま、まことしやかにジェームス・ライアンの伝説を形作っているのだ。実際のところ、南アフリカ共和国出身の映画スター・ジェームス・ライアンについては、何も判ってはいないのが本当なのだ。

 映画『Kill and Kill Again(以下KaKA)』は、『Kill or Be Killed(以下KoBK)』の正式な続編であり、前作と同じ主人公スティーブ・チェイスが活躍する。前作も『燃えよドラゴン』を叩き台としていたが、今回も基本的には変わらない。
 『燃えよドラゴン』という映画の方も、『007ドクターノオ』のプロットを拝借しているので、パクリ、パクられはお互い様なのだが、『KaKA』を製作するに当って、『燃えよドラゴン』をそのまま繰り返すことだけはしなかった点は評価されるだろう。昨今のハリウッド映画の製作者のたちの方が、遥かに安易な映画製作をしている。

 『KoBK』にあって『KaKA』にない『燃えよ』の要素は、トーナメント大会である。一方で、『燃えよ』からトーナメントの要素を抜くと、諜報部員の島への潜入作戦という『007』の要素が残る。『KaKA』が、同じ『燃えよドラゴン』という映画から全く別の要素で一本仕上げた訳だが、前作のOPからモーリス・ビンダー(007映画のOPタイトルの監修者)を意識していたところを見ると、案外最初から二本セットで構想が進められていたのかも。

 トーナメントを優勝して名を挙げたライアンの元に、父を誘拐されたという女性アンライン・キリエルから救出の依頼がくる。代価エネルギーの研究で第一人者の博士というアンラインの父ジョン・ラムズボトムは、狂気の軍人マイケル・メイヤーの下で危険な研究に従事させられていた。国家的な危機も孕んでいることから、政府を通しての依頼であった。
 依頼を受けたライアンは、“ザ・フライ”スタン・シュミット、“ゴリラ”ケン・ガンプ、“ジプシー・ビリー”ノーマン・ロビンソン、“ホットドッグ”ビル・フリンの仲間を連れ、メイヤーの要塞に潜入するのだった。

 明らかに“007”タッチを意識しているが、いうまでもなく人数集めの場面は『七人の侍』である。仲間が増えたことで“007”というより「スパイ大作戦('66〜'73)」か「特攻ギャリソン・ゴリラ('67〜'68)」のような趣だ。
 ところでこの映画、アメリカのファンには「特攻野郎Aチーム('83〜'85)」の原形だと言われている。少数による特殊任務という設定もそうだが、特にゴリラと呼ばれる黒人ケン・ガンプと、キャップを被ったコメディ・リリーフのビル・フリンのやりとりが、「Aチーム」における“コング”Mr.Tと“クレイジーモンキー”ドワイト・シュルツの関係によく似ているというのだ。
 言われてみれば確かにその通りだが、「Aチーム」自体、設定は「スパイ大作戦」→「特攻ギャリソン・ゴリラ」を引き継ぐバリエーションなので、設定面でオリジナル性云々を言うのはどうかと思う。キャラクター造形だけなら似ているのは確かだが・・・・さて?

 この『KaKA』が、『FORCE:FIVE』の設定をパクった、ないしはパロディなのではないか?という指摘がある。製作年度が同年だったことからの指摘であるが、『KaKA』が'77年作だった時点で、『FORCE:FIVE』→『KaKA』というラインは消える。
 可能性としては、製作年度順にみた『KaKA』→『FORCE:FIVE』というラインだ。

 ここで映画の通念史におけるパロディの定義を明示しておこう。

 パロディの定義とは、被パロディである元ネタが、パロディを作る側より有名である場合に成立するもので、無名の南アフリカ映画をアメリカ映画がパロディにするとは思えない。パロディの基本概念は、批判精神なのである。批判されるだけの有名税を持たない作品から、パロディが生まれるとはどうしても考え難い。

 では、パクリであると過程しよう。

 確かに『FORCE:FIVE』も『KaKA』も『燃えよドラゴン』をベースにしており、『七人の侍』的人数集めを経て、少人数による任務遂行が行われる点では同じだ。
 しかし、『FORCE:FIVE』は元々『燃えよドラゴン』そのものを製作した監督&プロデューサーによる、ある意味リメイクなのだ。無名の映画の設定を借りてこなくとも、彼らは堂々と『燃えよドラゴン』を作る権利があるのだ。『燃えよドラゴン』そのものだといっていい『FORCE:FIVE』と、『燃えよ』を叩き台とし、そこから“007"的要素を抽出して、オリジナルなものを導き出した『KaKA』とは、志のベクトルがそもそも違う。

 徹底検証である以上、オマージュの可能性に触れておこう。

 もちろん対象が無名の作品だとしても、製作者が思い入れを抱いて、特定の作品へのオマージュを自作に盛り込むことはある。
 しかし、これも否定して良いと思う。やはり『FORCE:FIVE』のスタッフは『燃えよドラゴン』そのものを作った製作チームなのだ。『燃えよ』をモチーフにした南アフリカ映画に、思い入れを抱くということ自体が考えられない。

 パロディにせよ、パクリにせよ、オマージュにせよ、その定義に批准して考え合わせれば、設定の類似以外に、シーンそのものの類似が必要である。『FORCE:FIVE』と『KaKA』には、『燃えよドラゴン』であるという点と、『七人の侍』的人数集めがあるという点以外の共通項はひとつも無く、それらの場面も、同じであるという一点のみであって、シーンそのものはまったく類似すらしていないのだ。

 この検証を持ってして、結論は出たと思うのだが、如何なものか?
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