怪獣夜話・第一夜 [2008年02月03日(日)]
『グエムル漢江の怪物』'06年製作、監督:ボン・ジュノ、主演:ソン・ガンホ
新世代の怪獣映画として評判の『CLOVERFIELD』公開(もう観ちゃった!)を記念して、最近の怪獣映画についてアレコレと書きます。題しまして・・・怪獣夜話。
『グエムル』が公開された時、『PATLABOR3/WXV』のパクリではないか?との論争があった。両者を比べればその相似は一目瞭然で、これは似ているどころの騒ぎではないことが解る。
特に、怪獣の容姿、その行動様式、生態はそっくりで、ストーリー上も米軍の関与が匂わされるあたり、何をか言わんやである。
私は『グエムル』にイチャモンをつけたいのではない。大絶賛をされるほどの映画だとは思わないまでも、それなりに面白い映画であったし、たとえ『パトレイバー』から随分とパクっていたとしても、そもそも類型娯楽であるところの怪獣映画に、過去の作品との相似は容易に見いだせるものだからだ。
その点では『グエムル』だけが、非難の的になるのは間違っており、過去の作品との相似を挙げるなら、『パトレイバー』以前に取り上げるべき作品があるだろう。怪獣映画ファンとしては、そちらをするのが先ではないか?
『グエムル』公開時のファンの反応は一様に『パトレイバー』疑惑に傾いていた。ためしに『グエムル』『パトレイバー』で検索してみるといい。恐ろしいまでのスレッドが現れるであろう。
私は怪獣映画ファンだけは、全てのジャンル映画ファンを凌駕し、雄々しく立ちはだかる学究の徒であると信じてきた。
オタクなどという、類型的に矮小化された存在ではなく、孤高の研究者としての巨人の姿が、かつての怪獣映画ファンであったはずだ。
あなたがたは、いったいどうしてしまったというのだ!?
私事であるが、田舎町で生まれ育った私は、ネット時代の到来まで他の映画ファンと知り合えるすべはなかった。これは私に限ったことでもないだろうが、田舎暮らしというものはそういうものなのだ。
それでも、横のつながりを求めて、映画サークルなどが主催するイベントや、同人誌即売会などを熱心に覗いたものである。
田舎には、このサークル活動自体が、そもそも無かったのであるが、それでも、どんな会場にでも怪獣映画ファンだけはいたのだ。
'80年代当時、それらの活動をされていた方々は、当時の私よりほんの少しお兄さんの人達であった。ビデオ時代到来前夜であったというのに、彼らは全ての怪獣映画に精通し、またその歴史も網羅していた。
8mmや16mmの怪獣映画を持ち寄り上映会を開く彼らは、常に横のネットワークを持ち、コロッサスの「大特撮」をバイブルとして、古今東西の怪獣映画について語り合うことが出来た。年下の功夫映画少年は随分と彼らのことを眩しく感じたものだ。
私が自分のことを怪獣映画ファンだとは、口が裂けても言えないのは、彼らという偉大な先達に接してきたからだといえよう。年下だったから彼らが眩しかったのではない。私とて日本製の怪獣映画は全て観ているし、ハリーハウゼン、ダンフォース、アレンなど、海外の作品も一通りはチェックしていたのだ。
それでもなお、当時の活動家達は、足元にも近寄ることの出来ない巨人として君臨していたのである!
私は、今に至るも怪獣映画ファンと公言する人達だけは、そういう人達であると信じていた。
ところが、である。『グエムル』を語るに『パトレイバー』からというのはどうした?『グエムル』の話だけではない、『ロストワールド』といえばまず、ウィリス・H・オブライエンだろう。'33年版『キング・コング』すら観ていない人間が、軽々しく怪獣映画ファンを名乗るなど当時はあり得ないことだった。彼らはビデオすら無い時代から観ていたというのに、功夫映画と違い、今ならどんな映画でもレンタル屋に普通に置いてあるだろうが!
怪獣映画ファンなら、キチンと歴史を総括し、その上でいくつかの類型的作品から『グエムル』という映画を解説することが出来る筈ではなかったのか?
偉そうに書いてきた以上、『機動警察パトレイバー』という作品から紐解いていかねばなるまいな。
『パトレイバー』は、ゆうきまさみと出渕裕のふたりが作った遊びの企画からスタート。スタジオ・ヘッドギアはこの作品のために作られ、伊藤和典、高田明美が賛同し、押井守は最後に引っ張り込まれた。
アニメ化の企画が先行していたが、'88年4月第一期OVAが開始、同時期にゆうきまさみによる漫画がスタート。その後、劇場用映画、TVシリーズ、小説、第二期OVAとメディアミックスを展開。それぞれのシリーズは、同じパトレイバーという世界観を軸にした別の作品といってもいい存在で、それぞれのシリーズで微妙に設定やキャラクター等に差異がみられる。
ある意味で最もリアル系ロボットものであり、舞台となる警察機構というものを細かくフェティッシュに描写したことから、後続の作品に多大な影響を与えた作品で、『踊る大捜査線』シリーズなど、SFではない作品にまでその影響は及ぶ。
映画シリーズ第三作として公開された『PATLABOR3/WXV』は、前二作の映画及び、漫画、小説、OVAなどが終了して8年後に公開された。押井守は手を引いており、映画から受ける印象そのものが過去の『パトレイバー』とは随分と違う。
元になった話は漫画のシリーズで展開された「廃棄物13号」というサブエピソード。ゆうきまさみは、レイバー世界で典型的な怪獣物をやってみたかったと答えており、この作品そのものが過去の怪獣映画へのオマージュである。
ただし、レイバーの世界観を壊さないよう、あくまで本筋のサブエピソードとして描かれており、映画版はこの本筋(黒いレイバーを使って暗躍する外資系企業シャフトとの闘い)を取り除き、「廃棄物13号」にだけ焦点を当てた作りとなっている。
「廃棄物13号」に登場する基本設定、研究者の確執、最終的にはレイバーに倒されるという点は、原作通り。シャフトの本筋を省いた分、ゆうきの原作以上に「廃棄物13号」は怪獣映画として再構築されているのだから、『グエムル』以前に『PATLABOR3/WXV』は過去の怪獣映画と類似しているのだ。
『グエムル』と『PATLABOR3/WXV』に共通する点は、米軍の関与、巨大化する生命体、地下水道の攻防戦である。これらに『グエムル』の要素、地下道に攫われる子供という項目を追加すれば、これは間違いなく『放射能X』の登場だ。
『ロストワールド』から『キング・コング』という怪獣映画の流れは、'50年代に核の恐怖というファクターを追加し、放射能汚染による恐怖のモンスターを生み出す。'53年にレイ・ブラッドベリの「霧笛」を映画化した『原子怪獣現る』というエピックが誕生すると、その延長線上の'54年、『ゴジラ』と『放射能X』が登場した。
『放射能X』は、『原子怪獣現る』のエピゴーネンであるとはいえ、後生に与えた影響の大きさからいって、怪獣映画の歴史における最重要作品のひとつといっていい。
砂漠でキャンピングカーの家族が襲われ、ショックで記憶を失った少女が残される。警察は通常の事件として動き出すが、米軍の核実験によって巨大化した蟻が事件の核心であると掴む。
蟻は巨大化していてもその生態に変わりはなく、女王蟻を中心とし、働き蟻が巣と食糧を確保し、産卵し仲間を増やしていくのだ。
記者や軍人、科学者などが一丸となって対策に当たるのは怪獣映画の定番であるが、地下水道を巣穴として活動する蟻群団との対決に、巣穴に囚われた少年の救出劇が絡む筋立ては、現代の眼で観ても傑作と呼ぶに相応しい。
この『放射能X』は二本(『グエムル』も入れれば三本)の子供を映画界に残したことで有名だ。
そのひとつは『空の大怪獣ラドン』、そしてもうひとつが『エイリアン2』である。
『ラドン』冒頭、炭鉱事故の生存者が記憶喪失となり「鳥・・・」という謎の言葉を残す。事故はメガヌロンの登場によって劇的に変化し、坑道内におけるその生態までが『放射能X』である。
『エイリアン2』はもっと露骨だ。壊滅したコロニーに残された記憶喪失の少女、完全生命体であったはずの『1』とは設定を変えてしまい、蟻そっくりの生態を与えられたエイリアン。
巣穴に取り込まれた少女の救出劇ときては、全く『放射能X』そのまんまで、後半はオリジナルな『ラドン』などまだ良心的な方で、『エイリアン2』こそ、『グエムル』以上に非難されるべきだろう。
『グエムル』を『パトレイバー』だと糾弾するのなら、本来は怪獣映画の歴史全てに依ってなされるべきなのだ。パクリと指摘するのも簡単ではないのである。
怪獣映画ファンには、いつまでもジャンル映画の巨人として、私たちの前に立ちはだかって欲しい!
怪獣夜話・第二夜は・・・スティーブン・キング原作『THE MIST』
新世代の怪獣映画として評判の『CLOVERFIELD』公開(もう観ちゃった!)を記念して、最近の怪獣映画についてアレコレと書きます。題しまして・・・怪獣夜話。
『グエムル』が公開された時、『PATLABOR3/WXV』のパクリではないか?との論争があった。両者を比べればその相似は一目瞭然で、これは似ているどころの騒ぎではないことが解る。
特に、怪獣の容姿、その行動様式、生態はそっくりで、ストーリー上も米軍の関与が匂わされるあたり、何をか言わんやである。
私は『グエムル』にイチャモンをつけたいのではない。大絶賛をされるほどの映画だとは思わないまでも、それなりに面白い映画であったし、たとえ『パトレイバー』から随分とパクっていたとしても、そもそも類型娯楽であるところの怪獣映画に、過去の作品との相似は容易に見いだせるものだからだ。
その点では『グエムル』だけが、非難の的になるのは間違っており、過去の作品との相似を挙げるなら、『パトレイバー』以前に取り上げるべき作品があるだろう。怪獣映画ファンとしては、そちらをするのが先ではないか?
『グエムル』公開時のファンの反応は一様に『パトレイバー』疑惑に傾いていた。ためしに『グエムル』『パトレイバー』で検索してみるといい。恐ろしいまでのスレッドが現れるであろう。
私は怪獣映画ファンだけは、全てのジャンル映画ファンを凌駕し、雄々しく立ちはだかる学究の徒であると信じてきた。
オタクなどという、類型的に矮小化された存在ではなく、孤高の研究者としての巨人の姿が、かつての怪獣映画ファンであったはずだ。
あなたがたは、いったいどうしてしまったというのだ!?
私事であるが、田舎町で生まれ育った私は、ネット時代の到来まで他の映画ファンと知り合えるすべはなかった。これは私に限ったことでもないだろうが、田舎暮らしというものはそういうものなのだ。
それでも、横のつながりを求めて、映画サークルなどが主催するイベントや、同人誌即売会などを熱心に覗いたものである。
田舎には、このサークル活動自体が、そもそも無かったのであるが、それでも、どんな会場にでも怪獣映画ファンだけはいたのだ。
'80年代当時、それらの活動をされていた方々は、当時の私よりほんの少しお兄さんの人達であった。ビデオ時代到来前夜であったというのに、彼らは全ての怪獣映画に精通し、またその歴史も網羅していた。
8mmや16mmの怪獣映画を持ち寄り上映会を開く彼らは、常に横のネットワークを持ち、コロッサスの「大特撮」をバイブルとして、古今東西の怪獣映画について語り合うことが出来た。年下の功夫映画少年は随分と彼らのことを眩しく感じたものだ。
私が自分のことを怪獣映画ファンだとは、口が裂けても言えないのは、彼らという偉大な先達に接してきたからだといえよう。年下だったから彼らが眩しかったのではない。私とて日本製の怪獣映画は全て観ているし、ハリーハウゼン、ダンフォース、アレンなど、海外の作品も一通りはチェックしていたのだ。
それでもなお、当時の活動家達は、足元にも近寄ることの出来ない巨人として君臨していたのである!
私は、今に至るも怪獣映画ファンと公言する人達だけは、そういう人達であると信じていた。
ところが、である。『グエムル』を語るに『パトレイバー』からというのはどうした?『グエムル』の話だけではない、『ロストワールド』といえばまず、ウィリス・H・オブライエンだろう。'33年版『キング・コング』すら観ていない人間が、軽々しく怪獣映画ファンを名乗るなど当時はあり得ないことだった。彼らはビデオすら無い時代から観ていたというのに、功夫映画と違い、今ならどんな映画でもレンタル屋に普通に置いてあるだろうが!
怪獣映画ファンなら、キチンと歴史を総括し、その上でいくつかの類型的作品から『グエムル』という映画を解説することが出来る筈ではなかったのか?
偉そうに書いてきた以上、『機動警察パトレイバー』という作品から紐解いていかねばなるまいな。
『パトレイバー』は、ゆうきまさみと出渕裕のふたりが作った遊びの企画からスタート。スタジオ・ヘッドギアはこの作品のために作られ、伊藤和典、高田明美が賛同し、押井守は最後に引っ張り込まれた。
アニメ化の企画が先行していたが、'88年4月第一期OVAが開始、同時期にゆうきまさみによる漫画がスタート。その後、劇場用映画、TVシリーズ、小説、第二期OVAとメディアミックスを展開。それぞれのシリーズは、同じパトレイバーという世界観を軸にした別の作品といってもいい存在で、それぞれのシリーズで微妙に設定やキャラクター等に差異がみられる。
ある意味で最もリアル系ロボットものであり、舞台となる警察機構というものを細かくフェティッシュに描写したことから、後続の作品に多大な影響を与えた作品で、『踊る大捜査線』シリーズなど、SFではない作品にまでその影響は及ぶ。
映画シリーズ第三作として公開された『PATLABOR3/WXV』は、前二作の映画及び、漫画、小説、OVAなどが終了して8年後に公開された。押井守は手を引いており、映画から受ける印象そのものが過去の『パトレイバー』とは随分と違う。
元になった話は漫画のシリーズで展開された「廃棄物13号」というサブエピソード。ゆうきまさみは、レイバー世界で典型的な怪獣物をやってみたかったと答えており、この作品そのものが過去の怪獣映画へのオマージュである。
ただし、レイバーの世界観を壊さないよう、あくまで本筋のサブエピソードとして描かれており、映画版はこの本筋(黒いレイバーを使って暗躍する外資系企業シャフトとの闘い)を取り除き、「廃棄物13号」にだけ焦点を当てた作りとなっている。
「廃棄物13号」に登場する基本設定、研究者の確執、最終的にはレイバーに倒されるという点は、原作通り。シャフトの本筋を省いた分、ゆうきの原作以上に「廃棄物13号」は怪獣映画として再構築されているのだから、『グエムル』以前に『PATLABOR3/WXV』は過去の怪獣映画と類似しているのだ。
『グエムル』と『PATLABOR3/WXV』に共通する点は、米軍の関与、巨大化する生命体、地下水道の攻防戦である。これらに『グエムル』の要素、地下道に攫われる子供という項目を追加すれば、これは間違いなく『放射能X』の登場だ。
『ロストワールド』から『キング・コング』という怪獣映画の流れは、'50年代に核の恐怖というファクターを追加し、放射能汚染による恐怖のモンスターを生み出す。'53年にレイ・ブラッドベリの「霧笛」を映画化した『原子怪獣現る』というエピックが誕生すると、その延長線上の'54年、『ゴジラ』と『放射能X』が登場した。
『放射能X』は、『原子怪獣現る』のエピゴーネンであるとはいえ、後生に与えた影響の大きさからいって、怪獣映画の歴史における最重要作品のひとつといっていい。
砂漠でキャンピングカーの家族が襲われ、ショックで記憶を失った少女が残される。警察は通常の事件として動き出すが、米軍の核実験によって巨大化した蟻が事件の核心であると掴む。
蟻は巨大化していてもその生態に変わりはなく、女王蟻を中心とし、働き蟻が巣と食糧を確保し、産卵し仲間を増やしていくのだ。
記者や軍人、科学者などが一丸となって対策に当たるのは怪獣映画の定番であるが、地下水道を巣穴として活動する蟻群団との対決に、巣穴に囚われた少年の救出劇が絡む筋立ては、現代の眼で観ても傑作と呼ぶに相応しい。
この『放射能X』は二本(『グエムル』も入れれば三本)の子供を映画界に残したことで有名だ。
そのひとつは『空の大怪獣ラドン』、そしてもうひとつが『エイリアン2』である。
『ラドン』冒頭、炭鉱事故の生存者が記憶喪失となり「鳥・・・」という謎の言葉を残す。事故はメガヌロンの登場によって劇的に変化し、坑道内におけるその生態までが『放射能X』である。
『エイリアン2』はもっと露骨だ。壊滅したコロニーに残された記憶喪失の少女、完全生命体であったはずの『1』とは設定を変えてしまい、蟻そっくりの生態を与えられたエイリアン。
巣穴に取り込まれた少女の救出劇ときては、全く『放射能X』そのまんまで、後半はオリジナルな『ラドン』などまだ良心的な方で、『エイリアン2』こそ、『グエムル』以上に非難されるべきだろう。
『グエムル』を『パトレイバー』だと糾弾するのなら、本来は怪獣映画の歴史全てに依ってなされるべきなのだ。パクリと指摘するのも簡単ではないのである。
怪獣映画ファンには、いつまでもジャンル映画の巨人として、私たちの前に立ちはだかって欲しい!
怪獣夜話・第二夜は・・・スティーブン・キング原作『THE MIST』








