旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

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怪獣夜話・第二夜 [2008年02月05日(火)]

『THE MIST』'07年製作、監督:FRANK DRABONT、主演:THOMAS JANE

 スティーブン・キング原作「霧」待望の映画化である。キング自身好きな作品と公言し、キング・ファンの人気投票でも上位をキープする人気作品だ。勿論、私自身も好きな作品なので、映画化し難い長編小説よりも、「霧」くらいの中編を映画化すればいいのにと思っていたものだ。

 まあついに映画化された訳であるが、監督が『ショーシャンクの空に』や『グリーン・マイル』というキング作品を映画化したフランク・ダラボンと聞いて、いささか不安がないでもなかった。
 世間的なダラボンへの評価や、キング自身の自己満足はともかく、『ショーシャンクの空に』は私の大嫌いな映画(“クール・ハンド”ルークを汚すな!)でございまして・・・・。
 そんな杞憂は心配するには及ばなかった・・・というのが結論だったのですが、ダラボンよ、やれば出来るじゃないか!それにしても、今のハリウッドでこの脚本良く許可が下りたよなぁ。この映画、すげぇよ!

 公開前の映画(されるのか?)については、書けることも限られてくるので、私が知っている“霧”を巡る二、三の事情を書いておきませう。

 原作の「霧」は、レイ・ブラッドベリの「霧笛」へのオマージュとして書かれました。よもや、この不朽の名作を読んだことない人などいないとは思うのだが、いちおう解説を。
 霧笛の音に誘われて、海底から蘇ってくる恐竜。霧の夜に轟く霧笛の音は、100万年の時を越える古生代の咆哮。15Pほどの短編ながら、滅びゆく生物への哀感や、海の神秘などが書きこまれた名編中の名編!
 この小説が映画化されて『原子怪獣現る』という怪獣映画のエピックになるのですが、恐竜の最後以外はブラッドベリの筆による哀感までは表現しきれてはいない。とはいえ、この映画が怪獣映画史において重要な役割を果たしたことは先述のとーり。

 キングの小説におけるブラッドベリの影響はこの「霧」だけに止まらない。読む人が読めば判るはずだが、「何かが道をやってくる」的な「ニードルフ・シングス」など、ブラッドベリ的な作品は他にも存在するのだ。

 ところで、ジョン・カーペンターの『ザ・フォッグ』が公開されて後、キングの「霧」との関連性を指摘する人がいたが、小説の発表も映画の公開も同じ'80年。影響を受けているとしたら、どちらも「霧笛」の影響を受けているのであって、カーペンターがキングをパクった訳ではないと思いますがねぇ。それにどちらかというと『ザ・フォッグ』は『エルゾンビ』シリーズからの流用が多いですし。
 ちなみにカーペンターとキングは個人的には友人で、カーペンターは『炎の少女チャーリー』映画化の際、初期段階で脚色に関わっている。結果的にはカーペンターは『炎の少女チャーリー』を降り、『クリスティーン』を監督する。

 それにしても現在、キングほど著作が映画化される作家もいないだろう。かつてアリステア・マクリーンがそうであったように、多作であることも条件のひとつではあろうが、何故にキングだけがこうも映画化の対象となるのであろうか?

 ここでちょっとキングの小説と映画を解剖してみましょう。

 キングの小説は、基本的にひとことでプロットが説明出来るんですよ。曰く「超能力少女惨劇の顛末」、「死者にとり憑かれた殺人カー」、「呪われた館と伝説の吸血鬼」、「死体捜しの冒険に出る少年たち」、「お化け屋敷に招かれた超能力親子の対立と悲劇」・・・etc。実に簡単です。
 それに小説としては手垢のついたような古典的プロットばかりです。実はこれこそが、キングの小説を映画化し易いものにしているんですな。
 
 映画化されるにしたって、映画会社で企画のプレゼンをする際、ベストセラー作家の作品がひとことで説明出来るものだったなら、確実にお金が下りるってもんですよ。

 恐らくこれのみが、キングが映画界で君臨していられる理由だと思いますよ。

 一方の小説はというと、先ほど手垢のついたような古典的なプロットといった部分、やはりこれが重要な点になります。古典的な・・・・とはいうものの、実際のキングはモダン・ホラーの旗手といわれています。“古典”と“モダン”、本来相反する言葉ですが、これを巧みに融合したのがキングの才能でした。
 古典的なプロットというものは、郷愁を誘いこそすれ、現代小説としては陳腐で読めたものではありません。そこで、余分を削ぎ落とした古典プロットに、現代という肉付けをする作業が必要となってきます。キングの小説が長い(とはいっても京極夏彦ほどではない・笑)のはそのためで、現代人を描きこむための細かなディテールが長いんです。

 それはコマーシャリズムの氾濫に飲み込まれた、モダンカルチャーの宿命そのものを描く行為にほかなりません。だからキングの小説は必要以上に長く、その書き込みによって現代小説に必要なリアリズムを獲得するのです。逆説的に言えば、プロットは単純で古典的でなくては他が書き込めない。
 古典的怪談をモダン・ホラーへと昇華させるという手腕を、最初に確率した第一人者がスティーブン・キングという作家なのですね。

 映画化された作品が概ねキングの読者には不評なのは、この書き込み部分を省略して、映画化としては当たり前の作業なんですが、本来の単純なプロットだけに戻してしまうからです。つまり、キングが小説で試みた現代化への肉付けを、削ぎ落とすことで映画が成り立っている訳です。そもそも単純なプロットは、それだけでも十分に成立するだけのものを持っていますから。結果として小説の読者はいつも映画に食い足りない思いをするのですよ。
 アメリカの片田舎(キングの小説は大抵こういう所が舞台)の生活を、現実感たっぷりに描く小説の書き込みが、その書き込み部分こそキングの魅力とはいえ、映画では描かなくても視覚だけで成立するものがほとんど。映画としてはプロット以外、あってもなくてもいいものになってしまうんですよね。
 そういう意味では、書き込みも当然多い長編小説よりは、プロットだけを活かせる中短編こそ、映画化に向いていると思うのですがね。

 ここからは映画『THE MIST』のお話。結末までは書いてはいませんが、一片たりともネタバレはゴメンという方は、以下は読まれませぬように!

 小説版「霧」は、ブラッドベリへのオマージュらしく、幻想的な雰囲気を濃厚に残している作品だった。
 記録的な大嵐の後、買い出しに出た主人公は謎の霧の発生にスーパーマーケットに閉じ込められる。スーパーで孤立する人々は、外から逃げ込んできた人によって、霧の中に“何か?”がいることを知らされる。
 霧の脅威にパニックを起こす人々、スーパー内部では人々は対立し、やがて“何か?”によって犠牲者を増やしていく。狂信的な女性は最初は共同体の疎外者だったが、異常事態にシンパを増やしていき、マスヒステリズムによって町民たちの対立を煽る。
 狂信グループと対立した主人公は、一部の人間を連れてスーパーの外へ脱出を試みるが・・・・・。

 映画はほぼ原作のままだ。

 小説では匂わせているにすぎない霧の発生原因を特定し、一部のキャラクターを増やしたり、統合してひとつのキャラクターにしたりしているだけだ。

 一番違うのはその結末である。映画公開時のインタヴューで、キング本人はこの結末を絶賛していましたね。そもそも小説「霧」は、初出と単行本化で結末のニュアンスが若干違い、過去に幾度か行われたラジオ・ドラマ化(キングは「霧」をラジオ・ドラマ向きと答えていた)でも数種類の結末が作られた。監督のフランク・ダラボンはキングの許可を得て'89年頃から「霧」の脚本化に取り組んでおり、今回の結末は20年近くの歳月をかけて陽の目を見た入魂のアイディアだったといえるだろう。

 スーパーに孤立した人々のパニック描写は、手持ちカメラを多様して素早くドキュメントタッチで撮られており、その前半部は『ユナイテッド93』のポール・グリーングラスを思わせる。この演出が功を奏しており、緊迫感に包まれた店内が描かれる。その緊張を破るように霧の中から“何か?”が登場してからは、実に堂々たる怪獣映画に変貌してみせるのだ。その反転描写も素晴らしく、怪獣映画としては小説に登場するラスト近くの“アレ”もちゃんと映してみせます。

 狂信者の女性が更なる不安を煽る後半部で散々に神経を逆なでされた揚句に、驚愕のラストに向けてクライマックスが雪崩れ込む。実はこのラストのために霧の発生原因が合理的に特定されているのですが、これを見る限りこの映画は成功した変更だったといえるでしょう。

 怪獣夜話、次回はいよいよ『CLOVERFIELD』!
 
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