『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』 [2008年02月17日(日)]
『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』'07年製作、監督:FRANCIS LAWRENCE、主演:WILL SMITH
原作はリチャード・マシスン。SFファンには説明不要の大家だろう。「縮みゆく人間」や「ある日どこかで」など、映画化された作品も多いが、本人も古くから映画・TV界との繋がりは多い。ロジャー・コーマン主催時のAIPで、エドガー・アラン・ポー作品(『恐怖の振り子』『黒猫の怨霊』など)を映画化した際、AIP側はマシスンに脚色を依頼した。
TV界にはロッド・サーリングの招きで「ミステリー・ゾーン」の執筆に参加、私など短編アンソロジーの楽しさはこの人から教わった部分も多い。デヴュー間もないスピルバーグが、ユニバーサルにサーリングを招いてのTV新シリーズのパイロット・フィルムで、マシスンの「笑いを売る男」に挑戦。これが縁でマシスン原作「激突!」を任されたスピルバーグは、一挙にスター監督にのし上がる。後に「ミステリー・ゾーン」の映画化『トワイライト・ゾーン超次元の体験』を監督した時、スピルバーグはマシスンに脚色を依頼し恩に報いた。
『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の原作「吸血鬼」は'54年の作品だ。'64年にはヴィンセント・プライス主演で映画化、『地球最後の男』は典型的なB級ながら、いくつかの点で後世に影響を与える作品となった。
地球上の人類が伝染病で死滅。たった一人生き残ったのがプライスで、伝染病で死んだ人間がヴァンパイアとなった世界で暮らしている。研究所兼任の自宅にこもり、日々ヴァンパイアと戦うプライスだったが、完全に価値観の逆転した世界では、多数派のヴァンパイアにからみて、最後の人類こそモンスターであったと悟り、絶望の果てに死んで逝く。
この価値観の逆転というサプライズがリチャード・マシスンの真骨頂で、終末SF物における定番として認識されるようになった。映画『猿の惑星』のエンディングなどが典型的なパターンで、ヘンリー・プールの原作を脚色した人物こそ、リチャード・マシスンの盟友・ロッド・サーリングなのである。
その『猿の惑星』に主演したことで、一躍終末SF物のスターとして躍り出たのがチャールトン・ヘストン。'68年の『猿の惑星』に続く'71年『オメガマン地球最後の男』、そして'73年『ソイレント・グリーン』を“ヘストン終末SF三部作”と呼ぶ。
実はこの『オメガマン地球最後の男』がマシスンの「吸血鬼」二度目の映画化で、今回の『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』のリメイク元にあたる。『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』は、「吸血鬼」の映画化ではあっても、プライス版『地球最後の男』のリメイクではないのだ。
ヘストン版は、基本ラインこそ同じながら、後半の展開が大きく異なっている。まだ発病していない人類の生き残りがコミューンを作っており、ウィルスに抵抗がある自分の体から血清を作ったヘストンが、それを生き残りに託し、人類の救世主として死んで逝く。ヴァンパイアが当時を席巻していた黒人のメタファーとなっていたり、ヘストンのキリストそのままの献身的な死により人類が救われる暗示など、オリジナルの良さは微塵もない。プライス版はB級でもツイストの効いたエンディングで映画史に残るのに対し、ヘストン版は無人のロスを映した描写以外に見るべきものはないのだ。それでも一部カルト的な人気を博し、今でも『オメガマン地球最後の男』が好きだというファンも多い。
ウィル・スミス版はこの『オメガマン地球最後の男』のリメイクで、やっぱりウィル・スミスも献身的に死んで逝く。そこに神の啓示が加わったりと押しつけがましい上に、生き残りのコミューンも大規模で、NYにおけるスミスひとりの戦いの絶望感も台無し。便宜上この映画がどんな映画であったかの説明のために書いているだけで、ハッキリ言って見るべき所など何も無い、駄作中の駄作である。
今回書きたいことはスミス版の映画そのものについてではないため、『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の内容についてはこれで終わる。余談だがプライス版『地球最後の男』における、ヴァンパイアとの一軒家での戦いが、後にジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』でのゾンビの描写に影響を与えた。B級映画ながら、“終末SF”と“ゾンビ映画”という異なる二つのジャンルを先駆した『地球最後の男』は、今更ながら素晴らしい映画であった。
『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』が駄作だったからといって、これを公開する以上、いい加減な状態で公開していいというものでは断じてない!
昨今の日本の映画興行における字幕の在り方について、これほど例題として相応しい映画はないから、今回取り上げただけなのだ。
劇中、ウィル・スミスはボブ・マーリーのファンであることが示される。いくつかのヒット曲が流され、本人も歌を口ずさむ。他の生き残りにあっけなく出会い、何故ひとりで戦い続けるのかを問われたスミスはこう答えるのだ。「ボブ・マーリーはかつて家に押し入った暴漢に撃たれたが、その二日後にはステージに立っていた。どうして歌い続けるんですか?と聞かれ、“悪は今も休むことなく活動を続けているからね、だから僕も歌うのさ”と・・・」ボブ・マーリーのエピソードを語る。
エドワード・シアガ派のJLPとマイケル・マンリー率いるPNP派による二大政党派閥の血の抗争に揺れた'70年代のジャマイカで、平和を訴えるマーリーが銃撃された実在のエピソードだ。
このエピソードから、ウィル・スミスの劇中におけるキャラクター設定が垣間見え、マーリーを尊敬し、彼のようにありたいと願うスミスの心があのラストへと向かわせる。
駄作なりに一貫した論理でこの映画が作られていること、そしてそこにこそ作り手の思いが込められていることは、映画として見逃せない重要なポイントだ。
そこで、だ。
劇中で流されるボブ・マーリーの楽曲に、作り手がそれなりの意味を持たせてあることくらい、容易に想像の出来るところではないか?ということである。
国としての歴史の浅いアメリカにおいて、ポピュラー・ミュージックの歴史は大切である。『イージー・ライダー』や『卒業』を皮切りに、既製のヒット曲を使って、主人公の心情を代弁させたりするのは映画の常套手段となった。これはサウンドトラックの在り方を一変させたばかりか、映画の表現手段をも変えた大きな出来事だ。
心情ばかりではない。今や、劇中の状況説明から、キャラ設定、映画のテーマそのものに至るまで既製のヒット曲が使用される状況においては、ミュージカル映画並みにセリフの一部なのである。
映画の内容とは全く関係ないタイアップの主題歌しかない、昨今の邦画の状況とは異なり、作品を語るための最重要項目のひとつといってもいい。
日本で公開される映画が、吹き替えだろうと字幕だろうと、そんなことは構わない(両方の中からチョイスはさせて欲しい)が、アメリカ映画の場合、バックの曲にもキチンと字幕をつけるのが、その作品をちゃんと公開するということではないのか?
昔の話をさせてもらうと、全てではないにしても、、ここは重要という場合の曲にはちゃんと字幕がついていたものだがな。
それが最近(いつぐらいからだろう?'90年代以降であるのは間違いないが・・)は、全くそこら辺に注意を払って公開されている映画は無い!業界の仕組みは知らないので、誰がこのことに権限を持っているのかは知らないが、これは明らかな怠慢である。
日本人全員が英語に堪能であるなら別にいい。だが現実はそうではないから吹き替え版なり、字幕版が存在しているのだ。この『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の場合、映画を観た人がボブ・マーリーの曲に造詣の深い人ばかりならこれも別に問題視することはない。やはりそんな人ばかりではないのであって、むしろそんな人は少ないと考える方が妥当だろう。
私はこの駄作に感銘を受けたとするなら、ボブ・マーリーのくだりがあって、エンド・クレジットにマーリーのある曲が流れる場面のみであった。マーリーを知っている人間なら、ラストの選曲にはうなるはずだし、私のように固まって席は立たないはずである。満員の映画館は、暗くなると同時に席を立つ人がほとんどであった。あれでも曲に字幕がついていたら、多少は読もうとする人がいたのではないか?
駄作の中の駄作『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』にも、たったひとつの救いであるボブ・マーリーについてのエピソードと、映画で使われた彼の楽曲。この曲を流すことが、作り手側がこの映画に込めたメッセージであり、『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の良心部分である以上、これを台無しにしてしまう権利は何者にも与えられないのだ。
この映画の評価は人様々だろうし、中には高い評価を下す人もいるだろう。だが、英語にも堪能でなく、ボブ・マーリーさえ知らない人にとって、最後に込められたメッセージを汲み取れるか否かは、映画全体の評価を左右する重大事である。
どんな事情があるにせよ、配給会社はここに字幕を入れるべきであった。それが出来ていない以上、日本における『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』という映画は欠陥商品であり、配給元は無責任にもそれを消費者に押し付けたということになるのだ。私は映画ファン(そしてボブ・マーリー・ファンとして)この欠陥商品に対し、断固としてリコールをしたい。
最後に、エンディングで流されるボブ・マーリーの楽曲について書いておきたい。このポピュラー・ミュージックの・・・いや、世界の音楽の歴史を鑑みても名曲中の名曲「REDEMPTION SONG(キリスト教における“救済の歌”)」は、'80年に発表された10枚目のアルバム「UPRISING」に収録された。
英語の歌詞をそのまま書くのは色々とアレなんで、字幕代わりと思って翻訳詩を載せておきます。
その昔、掠奪者によって奴隷船に売られた俺
絶望に打ちひしがれる俺を奴らは買い取った
だが俺は頑丈に出来ていた
全能の神によって
大いなる誇りによって世代を進んで行く
俺の歌ってきた歌は、救済の歌だ
この自由の歌を一緒に歌ってくれ
救済の歌を
精神的な奴隷から
自分自身を解放しよう
俺たちの心を自由にするのは
他でもなく自分自身だ
原子力など恐れない
奴らに時は止められない
長いこと奴らは俺たちの預言者を殺してきた
俺たちは傍観していただけだ
それは聖書に書かれている
そして俺たちが予言の書を完成させるのだ
さあこの自由の歌を一緒に歌おう
俺の歌ってきた歌は、救済の歌だ
この自由の歌を一緒に歌ってくれ
救済の歌を
ボブ・マーリーは、政治的闘争の犠牲者として故国ジャマイカを追われ、放浪を余儀なくされた。1979年、ついにジャマイカで平和コンサートを開くことに成功し、そのステージ上で銃撃の遠因となったエドワード・シアガとマイケル・マンリーを握手させる。
おのれのルーツであるアフリカ訪問によってインスパイアされ発売されたアルバムが、この曲が収録された「UPRISING」、ジンバブエでは建国記念コンサートにも出演。
'81年5月11日、脳腫瘍により倒れたボブ・マーリーは、フロリダの病院で帰らぬ人となった。享年36歳。
死後、三周忌にあたる'84年5月11日に、追悼のベスト・アルバムが発売されファンを喜ばせた。映画『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』に使われた曲の全てが収録されたアルバムのタイトルは・・・・「Legend」という。
原作はリチャード・マシスン。SFファンには説明不要の大家だろう。「縮みゆく人間」や「ある日どこかで」など、映画化された作品も多いが、本人も古くから映画・TV界との繋がりは多い。ロジャー・コーマン主催時のAIPで、エドガー・アラン・ポー作品(『恐怖の振り子』『黒猫の怨霊』など)を映画化した際、AIP側はマシスンに脚色を依頼した。
TV界にはロッド・サーリングの招きで「ミステリー・ゾーン」の執筆に参加、私など短編アンソロジーの楽しさはこの人から教わった部分も多い。デヴュー間もないスピルバーグが、ユニバーサルにサーリングを招いてのTV新シリーズのパイロット・フィルムで、マシスンの「笑いを売る男」に挑戦。これが縁でマシスン原作「激突!」を任されたスピルバーグは、一挙にスター監督にのし上がる。後に「ミステリー・ゾーン」の映画化『トワイライト・ゾーン超次元の体験』を監督した時、スピルバーグはマシスンに脚色を依頼し恩に報いた。
『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の原作「吸血鬼」は'54年の作品だ。'64年にはヴィンセント・プライス主演で映画化、『地球最後の男』は典型的なB級ながら、いくつかの点で後世に影響を与える作品となった。
地球上の人類が伝染病で死滅。たった一人生き残ったのがプライスで、伝染病で死んだ人間がヴァンパイアとなった世界で暮らしている。研究所兼任の自宅にこもり、日々ヴァンパイアと戦うプライスだったが、完全に価値観の逆転した世界では、多数派のヴァンパイアにからみて、最後の人類こそモンスターであったと悟り、絶望の果てに死んで逝く。
この価値観の逆転というサプライズがリチャード・マシスンの真骨頂で、終末SF物における定番として認識されるようになった。映画『猿の惑星』のエンディングなどが典型的なパターンで、ヘンリー・プールの原作を脚色した人物こそ、リチャード・マシスンの盟友・ロッド・サーリングなのである。
その『猿の惑星』に主演したことで、一躍終末SF物のスターとして躍り出たのがチャールトン・ヘストン。'68年の『猿の惑星』に続く'71年『オメガマン地球最後の男』、そして'73年『ソイレント・グリーン』を“ヘストン終末SF三部作”と呼ぶ。
実はこの『オメガマン地球最後の男』がマシスンの「吸血鬼」二度目の映画化で、今回の『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』のリメイク元にあたる。『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』は、「吸血鬼」の映画化ではあっても、プライス版『地球最後の男』のリメイクではないのだ。
ヘストン版は、基本ラインこそ同じながら、後半の展開が大きく異なっている。まだ発病していない人類の生き残りがコミューンを作っており、ウィルスに抵抗がある自分の体から血清を作ったヘストンが、それを生き残りに託し、人類の救世主として死んで逝く。ヴァンパイアが当時を席巻していた黒人のメタファーとなっていたり、ヘストンのキリストそのままの献身的な死により人類が救われる暗示など、オリジナルの良さは微塵もない。プライス版はB級でもツイストの効いたエンディングで映画史に残るのに対し、ヘストン版は無人のロスを映した描写以外に見るべきものはないのだ。それでも一部カルト的な人気を博し、今でも『オメガマン地球最後の男』が好きだというファンも多い。
ウィル・スミス版はこの『オメガマン地球最後の男』のリメイクで、やっぱりウィル・スミスも献身的に死んで逝く。そこに神の啓示が加わったりと押しつけがましい上に、生き残りのコミューンも大規模で、NYにおけるスミスひとりの戦いの絶望感も台無し。便宜上この映画がどんな映画であったかの説明のために書いているだけで、ハッキリ言って見るべき所など何も無い、駄作中の駄作である。
今回書きたいことはスミス版の映画そのものについてではないため、『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の内容についてはこれで終わる。余談だがプライス版『地球最後の男』における、ヴァンパイアとの一軒家での戦いが、後にジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』でのゾンビの描写に影響を与えた。B級映画ながら、“終末SF”と“ゾンビ映画”という異なる二つのジャンルを先駆した『地球最後の男』は、今更ながら素晴らしい映画であった。
『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』が駄作だったからといって、これを公開する以上、いい加減な状態で公開していいというものでは断じてない!
昨今の日本の映画興行における字幕の在り方について、これほど例題として相応しい映画はないから、今回取り上げただけなのだ。
劇中、ウィル・スミスはボブ・マーリーのファンであることが示される。いくつかのヒット曲が流され、本人も歌を口ずさむ。他の生き残りにあっけなく出会い、何故ひとりで戦い続けるのかを問われたスミスはこう答えるのだ。「ボブ・マーリーはかつて家に押し入った暴漢に撃たれたが、その二日後にはステージに立っていた。どうして歌い続けるんですか?と聞かれ、“悪は今も休むことなく活動を続けているからね、だから僕も歌うのさ”と・・・」ボブ・マーリーのエピソードを語る。
エドワード・シアガ派のJLPとマイケル・マンリー率いるPNP派による二大政党派閥の血の抗争に揺れた'70年代のジャマイカで、平和を訴えるマーリーが銃撃された実在のエピソードだ。
このエピソードから、ウィル・スミスの劇中におけるキャラクター設定が垣間見え、マーリーを尊敬し、彼のようにありたいと願うスミスの心があのラストへと向かわせる。
駄作なりに一貫した論理でこの映画が作られていること、そしてそこにこそ作り手の思いが込められていることは、映画として見逃せない重要なポイントだ。
そこで、だ。
劇中で流されるボブ・マーリーの楽曲に、作り手がそれなりの意味を持たせてあることくらい、容易に想像の出来るところではないか?ということである。
国としての歴史の浅いアメリカにおいて、ポピュラー・ミュージックの歴史は大切である。『イージー・ライダー』や『卒業』を皮切りに、既製のヒット曲を使って、主人公の心情を代弁させたりするのは映画の常套手段となった。これはサウンドトラックの在り方を一変させたばかりか、映画の表現手段をも変えた大きな出来事だ。
心情ばかりではない。今や、劇中の状況説明から、キャラ設定、映画のテーマそのものに至るまで既製のヒット曲が使用される状況においては、ミュージカル映画並みにセリフの一部なのである。
映画の内容とは全く関係ないタイアップの主題歌しかない、昨今の邦画の状況とは異なり、作品を語るための最重要項目のひとつといってもいい。
日本で公開される映画が、吹き替えだろうと字幕だろうと、そんなことは構わない(両方の中からチョイスはさせて欲しい)が、アメリカ映画の場合、バックの曲にもキチンと字幕をつけるのが、その作品をちゃんと公開するということではないのか?
昔の話をさせてもらうと、全てではないにしても、、ここは重要という場合の曲にはちゃんと字幕がついていたものだがな。
それが最近(いつぐらいからだろう?'90年代以降であるのは間違いないが・・)は、全くそこら辺に注意を払って公開されている映画は無い!業界の仕組みは知らないので、誰がこのことに権限を持っているのかは知らないが、これは明らかな怠慢である。
日本人全員が英語に堪能であるなら別にいい。だが現実はそうではないから吹き替え版なり、字幕版が存在しているのだ。この『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の場合、映画を観た人がボブ・マーリーの曲に造詣の深い人ばかりならこれも別に問題視することはない。やはりそんな人ばかりではないのであって、むしろそんな人は少ないと考える方が妥当だろう。
私はこの駄作に感銘を受けたとするなら、ボブ・マーリーのくだりがあって、エンド・クレジットにマーリーのある曲が流れる場面のみであった。マーリーを知っている人間なら、ラストの選曲にはうなるはずだし、私のように固まって席は立たないはずである。満員の映画館は、暗くなると同時に席を立つ人がほとんどであった。あれでも曲に字幕がついていたら、多少は読もうとする人がいたのではないか?
駄作の中の駄作『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』にも、たったひとつの救いであるボブ・マーリーについてのエピソードと、映画で使われた彼の楽曲。この曲を流すことが、作り手側がこの映画に込めたメッセージであり、『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の良心部分である以上、これを台無しにしてしまう権利は何者にも与えられないのだ。
この映画の評価は人様々だろうし、中には高い評価を下す人もいるだろう。だが、英語にも堪能でなく、ボブ・マーリーさえ知らない人にとって、最後に込められたメッセージを汲み取れるか否かは、映画全体の評価を左右する重大事である。
どんな事情があるにせよ、配給会社はここに字幕を入れるべきであった。それが出来ていない以上、日本における『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』という映画は欠陥商品であり、配給元は無責任にもそれを消費者に押し付けたということになるのだ。私は映画ファン(そしてボブ・マーリー・ファンとして)この欠陥商品に対し、断固としてリコールをしたい。
最後に、エンディングで流されるボブ・マーリーの楽曲について書いておきたい。このポピュラー・ミュージックの・・・いや、世界の音楽の歴史を鑑みても名曲中の名曲「REDEMPTION SONG(キリスト教における“救済の歌”)」は、'80年に発表された10枚目のアルバム「UPRISING」に収録された。
英語の歌詞をそのまま書くのは色々とアレなんで、字幕代わりと思って翻訳詩を載せておきます。
その昔、掠奪者によって奴隷船に売られた俺
絶望に打ちひしがれる俺を奴らは買い取った
だが俺は頑丈に出来ていた
全能の神によって
大いなる誇りによって世代を進んで行く
俺の歌ってきた歌は、救済の歌だ
この自由の歌を一緒に歌ってくれ
救済の歌を
精神的な奴隷から
自分自身を解放しよう
俺たちの心を自由にするのは
他でもなく自分自身だ
原子力など恐れない
奴らに時は止められない
長いこと奴らは俺たちの預言者を殺してきた
俺たちは傍観していただけだ
それは聖書に書かれている
そして俺たちが予言の書を完成させるのだ
さあこの自由の歌を一緒に歌おう
俺の歌ってきた歌は、救済の歌だ
この自由の歌を一緒に歌ってくれ
救済の歌を
ボブ・マーリーは、政治的闘争の犠牲者として故国ジャマイカを追われ、放浪を余儀なくされた。1979年、ついにジャマイカで平和コンサートを開くことに成功し、そのステージ上で銃撃の遠因となったエドワード・シアガとマイケル・マンリーを握手させる。
おのれのルーツであるアフリカ訪問によってインスパイアされ発売されたアルバムが、この曲が収録された「UPRISING」、ジンバブエでは建国記念コンサートにも出演。
'81年5月11日、脳腫瘍により倒れたボブ・マーリーは、フロリダの病院で帰らぬ人となった。享年36歳。
死後、三周忌にあたる'84年5月11日に、追悼のベスト・アルバムが発売されファンを喜ばせた。映画『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』に使われた曲の全てが収録されたアルバムのタイトルは・・・・「Legend」という。








