『怪拳小子』 [2008年03月19日(水)]
『怪拳小子』'79年製作、監督:唐迪、主演:李藝民
『師徒出馬』について書かれた部分をもう一度読み返して欲しい。要約すると『師徒出馬』は再編集作品であろう・・・ということであった。
『師徒出馬』が再編集作品であるならば、元になった作品が存在する訳で、それが今回取り上げる『怪拳小子』なのだ。
それにしても『師徒出馬』は不思議な作品だ。私は中文クレジットの作品を持っているのだが、監督は袁正義(袁信義のことだと思われるが)、武術指導は袁家班とハッキリ書かれているし、『怪拳小子』という作品が再編集されて『師徒出馬』になったとしても、『師徒出馬』名義でロビーカードが存在する以上、何らかの形で『師徒出馬』として公開されたことだけは間違いない。
今回、オリジナルである『怪拳小子』と見比べて判ったことは、羅烈フッテージとOPを変えてある以外は、まったく変わりがないということが判明した。『師徒出馬』を取り上げた時には李藝民の髪形などから、もっと別パートが存在するのでは?という推察だったが、これは間違いであった(ただこの理由については概ね説明出来るので後述)。
しかしそうなると、羅烈フッテージの付け足しだけで監督&武術指導を名乗るとは袁家班にとっても汚点ではないだろうか?それも羅烈フッテージが袁家班が撮影した新撮ならともかく、全然別の映画(おそらく韓国映画)から持ってきた場面ならなおさらだ。オリジナルの監督・唐迪と、武術指導の李小明に申し訳が立たないだろう。
ストーリー的には大差ないので割愛するが、李藝民の髪形が場面によって変化する理由は、考えられる限りふたつある。
ひとつは李藝民自身の問題だ。台湾映画界でキャリアをスタートさせた彼は、「長弓電影」時代の張徹に目をつけられ邵氏と契約する。
それなりの人気を得て台湾に凱旋した李藝民に、新たな契約を持ちかけた人物が郭南宏だ。これがトラブルの始まりだった。
邵氏との契約を残して台湾に帰った李藝民に、邵氏側が難癖をつけ、李藝民はトラブル回避のため台湾−香港間を奔走する羽目に。
更には新しく契約した郭南宏との間にも金銭トラブルが持ち上がり、この時期に撮影された映画は、度々中断の憂き目にあっているのだ。
実際のところはどの作品が中断になったのかは不明ながら、邵氏の『射G英雄傳續集』が終わり、郭南宏映画『虎豹龍蛇鷹絶拳』を撮影、契約履行のため邵氏に復帰して『生死鬥』を撮影する間の作品が『怪拳小子』であることだけは間違いがない。
もうひとつこの映画が中断になった可能性を持つ要素がある。それは袁小田の健康状態だ。
『蛇拳』のヒット後、一躍人気スターとなった袁小田の元には、40本からの契約が舞い込み、彼はそのほとんどと契約をしてしまったらしい。『酔拳』公開後の79年10月5日から、袁小田が逝去する80年12月17日の間はおよそ1年。さすがに40本もの作品は消化しきれていないが、それでも18本の映画に出演しているのだから驚くばかりだ。
実は79年5月頃から体調を崩し始めており、その後は入退院を繰り返し、6月には一度手術を行っている。作品によって急激に体重を増加させているのは、今にして思えばこのせいだったのだろう。
企画されていた作品のうち、生前に降板したものに『林世榮』、『癲螳螂』、撮影途中で降板したものが『酒仙十八跌』(これの出来にも納得だ)。
袁小田の死によって残された企画かどうかは不明だが、生きていれば『蛇猫鶴混形拳』や『龍形魔橋』の石堅は袁小田だったような気がする。郭南宏は『酒仙十八跌』以降も契約を望んでおり、彼の死によって構想が狂ったので『師父出馬』には于占元を担ぎ出したと語っている。共にジャッキーの師匠という連想からの代役だったそうで、袁小田が死ななければ于占元が映画に出ることも無かった訳だ。
しかし直接の死因こそ癌だったかもしれないが、これは明らかに働き過ぎではないだろうか?
『怪拳小子』でも、後半の出番は茂みの中から李藝民の活躍を見守っているだけで、他の出演者との絡みが無くなってしまうことから、李藝民と袁小田どちらかの理由(もしくは二人とも)で、撮影が中断されていたことが窺える。
『酔拳』以降、無数に作られた練功小子片の象徴こそ袁小田だ。その彼が残した大量の作品群も、健康を害した70歳近い老人が、老体に鞭打って残した作品であったということだ。昨今続く芸能人の訃報の前に、今一度この事実を考えておきたい。
『師徒出馬』について書かれた部分をもう一度読み返して欲しい。要約すると『師徒出馬』は再編集作品であろう・・・ということであった。
『師徒出馬』が再編集作品であるならば、元になった作品が存在する訳で、それが今回取り上げる『怪拳小子』なのだ。
それにしても『師徒出馬』は不思議な作品だ。私は中文クレジットの作品を持っているのだが、監督は袁正義(袁信義のことだと思われるが)、武術指導は袁家班とハッキリ書かれているし、『怪拳小子』という作品が再編集されて『師徒出馬』になったとしても、『師徒出馬』名義でロビーカードが存在する以上、何らかの形で『師徒出馬』として公開されたことだけは間違いない。
今回、オリジナルである『怪拳小子』と見比べて判ったことは、羅烈フッテージとOPを変えてある以外は、まったく変わりがないということが判明した。『師徒出馬』を取り上げた時には李藝民の髪形などから、もっと別パートが存在するのでは?という推察だったが、これは間違いであった(ただこの理由については概ね説明出来るので後述)。
しかしそうなると、羅烈フッテージの付け足しだけで監督&武術指導を名乗るとは袁家班にとっても汚点ではないだろうか?それも羅烈フッテージが袁家班が撮影した新撮ならともかく、全然別の映画(おそらく韓国映画)から持ってきた場面ならなおさらだ。オリジナルの監督・唐迪と、武術指導の李小明に申し訳が立たないだろう。
ストーリー的には大差ないので割愛するが、李藝民の髪形が場面によって変化する理由は、考えられる限りふたつある。
ひとつは李藝民自身の問題だ。台湾映画界でキャリアをスタートさせた彼は、「長弓電影」時代の張徹に目をつけられ邵氏と契約する。
それなりの人気を得て台湾に凱旋した李藝民に、新たな契約を持ちかけた人物が郭南宏だ。これがトラブルの始まりだった。
邵氏との契約を残して台湾に帰った李藝民に、邵氏側が難癖をつけ、李藝民はトラブル回避のため台湾−香港間を奔走する羽目に。
更には新しく契約した郭南宏との間にも金銭トラブルが持ち上がり、この時期に撮影された映画は、度々中断の憂き目にあっているのだ。
実際のところはどの作品が中断になったのかは不明ながら、邵氏の『射G英雄傳續集』が終わり、郭南宏映画『虎豹龍蛇鷹絶拳』を撮影、契約履行のため邵氏に復帰して『生死鬥』を撮影する間の作品が『怪拳小子』であることだけは間違いがない。
もうひとつこの映画が中断になった可能性を持つ要素がある。それは袁小田の健康状態だ。
『蛇拳』のヒット後、一躍人気スターとなった袁小田の元には、40本からの契約が舞い込み、彼はそのほとんどと契約をしてしまったらしい。『酔拳』公開後の79年10月5日から、袁小田が逝去する80年12月17日の間はおよそ1年。さすがに40本もの作品は消化しきれていないが、それでも18本の映画に出演しているのだから驚くばかりだ。
実は79年5月頃から体調を崩し始めており、その後は入退院を繰り返し、6月には一度手術を行っている。作品によって急激に体重を増加させているのは、今にして思えばこのせいだったのだろう。
企画されていた作品のうち、生前に降板したものに『林世榮』、『癲螳螂』、撮影途中で降板したものが『酒仙十八跌』(これの出来にも納得だ)。
袁小田の死によって残された企画かどうかは不明だが、生きていれば『蛇猫鶴混形拳』や『龍形魔橋』の石堅は袁小田だったような気がする。郭南宏は『酒仙十八跌』以降も契約を望んでおり、彼の死によって構想が狂ったので『師父出馬』には于占元を担ぎ出したと語っている。共にジャッキーの師匠という連想からの代役だったそうで、袁小田が死ななければ于占元が映画に出ることも無かった訳だ。
しかし直接の死因こそ癌だったかもしれないが、これは明らかに働き過ぎではないだろうか?
『怪拳小子』でも、後半の出番は茂みの中から李藝民の活躍を見守っているだけで、他の出演者との絡みが無くなってしまうことから、李藝民と袁小田どちらかの理由(もしくは二人とも)で、撮影が中断されていたことが窺える。
『酔拳』以降、無数に作られた練功小子片の象徴こそ袁小田だ。その彼が残した大量の作品群も、健康を害した70歳近い老人が、老体に鞭打って残した作品であったということだ。昨今続く芸能人の訃報の前に、今一度この事実を考えておきたい。








