『THE LAST SAMURAI/ラストサムライ』 [2008年01月26日(土)]
『THE LAST SAMURAI/ラストサムライ』'03年製作、監督:EDWARD ZWICK、主演:TOM CRUISE
これは昔、myroom時代の掲示板に書いたものです。先のベスト&ワーストの時、“スクォマン”と書いたら、それは何だ?と質問されまして・・・。以前からもう一度読みたいとのリクエストもありましたし、改めて再録することになりました。少しですが手直しもあります。
まず公証面から。
※ガトリングガン
ガトリングガンは江戸時代には既に日本に存在し、戊辰戦争で実戦投入されています。使用したのは越後長岡藩で、官軍に対してです。薩長の官軍が母体の陸軍は既にガトリングガンの威力を身をもって知っていることになります。
幕府が海外に注文しておきながら、到着前に明治維新を迎えてしまい、受け取りが叶わなかったアメリカのストーン・ウォール号(通称・甲鉄艦)という船があります。
その船は結局、官軍側に摂取されてしまったのですが、函館五稜郭を攻めてくる官軍の船として使用された際、これを再奪取しようと提案したのが五稜郭海軍・回天号艦長・甲賀源吾。
この作戦に同意して、実際の乗り込み戦闘を指揮したのが、元・新選組副長・土方歳三。これが世にいう“宮古湾海戦”で、甲鉄艦の奪取には失敗するものの、本邦初の本格的接舷攻撃として歴史に記憶される。
この時の新選組残党の切り込みを阻み、回天号艦長・甲賀源吾の命をも奪ったものがガトリングガンなのでした。
北越戦と宮古湾海戦こそ、日本でガトリングガンが実戦投入された最も初期の例。『ラストサムライ』より時期的に随分早いのですよ。
※アメリカが日本の軍事顧問となっている。
日本が採用したのはフランス。ちなみに戊辰戦争自体は、英仏の代理戦争でもあった。
※西南戦争がモデル。
西南戦争がモデルでありながら、渡辺謙の戦い方や衣装はまるで鳥羽伏見の幕軍だ。
渡辺謙自体は西郷隆盛がモデルなのだから、あの戦闘は田原坂から城山へと続く西郷軍である。ということはある程度は近代軍の格好でなければならない。
これは、陸軍の母体である官軍が既にサムライではなかったからだ。散兵式歩兵戦術というものは、鉄砲の数さえ揃っていれば、職業軍人である“サムライ”の技術は必要とされない。官軍が鳥羽伏見から続く幕軍との戦闘で、旧来の幕軍を破りえたのは、正にこの散兵式歩兵戦術と新式銃につきる。
そんな訳で、明治以後更に近代化された陸軍には刀の切り込みに自信がなかったのである。それもそのはずで。彼らはもはや“サムライ”ではなかったのだ。
田原坂戦における西郷軍が抜刀術に優れていたのは本当だが、その西郷軍の抜刀隊に手を焼いた陸軍は、恥も外聞も捨て旧徳川家の人間から抜刀隊の募集を募った。
職にあぶれていた旧徳川家の侍たちは、鳥羽伏見の仇が討てるとこれに募集。西郷軍も旧武士の集まりで抜刀を得意とするなら、今度こそ“サムライ”同士の対決が出来るというのが旧徳川家縁の侍たちの意気地。中には元・新撰組の斎藤一や、会津別選隊の佐川官兵衛などもいたのだ。
この抜刀隊に敗れた西郷軍は田原坂で敗走し、結果、西郷は城山で自刃をとげるのである。
本当のラストサムライたちは、西郷軍ではなくそれを破った旧徳川家臣だった、というのが歴史の真実。
ここから映画について。
この『ラストサムライ』という映画はジャンル的には"スクォマン"ものというジャンルになります。
セシル・B・デミルが1913年に撮った『スクォマン』を元祖とするもので、インディアンと結婚した白人をスクォマンと呼ぶことからこのタイトルになりました。
転じて、未開の部族や異人種に理解を示す白人の物語を"スクォマン"ものと呼ぶようになり、西部劇ではデルマー・デイビスの『折れた矢』、『馬と呼ばれた男』、最近では『ダンス・ウィズ・ウルブズ』など全て"スクォマン"ですね。
西部劇ではありませんがウイリアム・コンラッドの小説『ロードジム』や『闇の奥』なども"スクォマン"系列になりますし、『ブラッド・ダイヤモンド』なんかも典型的な"スクォマン"。
この手の"スクォマン"ものは、基本的に社会のはぐれ者が、異人種(部族)に触れることで成長(贖罪)を果たし、異人種(部族)への理解と尊敬を得るというものです。
『ラストサムライ』も同じでしょ?
これらは全て白人の視点から作られている、ここに問題があるのですよ。いや、白人しか作っていないと言うべきか。
かつて七つの海を征服し、世界に植民地を築いたアングロサクソンは、かつての栄光にしがみつこうと必死です。(特にアメリカン・グローバリズムの推進者)
しかし現実はなかなかうまくいかず、他民族や異人種とも付き合っていく必要もあります。歴史も文化的成熟もアングロサクソン以上のものを誇る民族などがたくさんあることもわかってしまいました。
そこへのコンプレックスがこの"スクォマン"ものに裏返しとして表れるのですよ。
なるほど確かにすぐれている異人種(部族)もいる、しかし我々アングロサクソンだけは彼らを理解し、また彼らからも尊敬されるのだ。これが白人側の本音ですよ。"スクォマン"ものという映画の本質はここにあります。
逆を考えてみましょう。
アジア人が白人の王になる話や、黒人やユダヤ人がインディアンの酋長になる話が"スクォマン"もののように頻繁に描かれますか?
そもそも描かれないばかりか、そんなものは存在もしませんね。
私たち日本人もそうですが、ネイティブ・アメリカンもアフリカン・アメリカンもユダヤも、中国人も、みーんな最初から分かっているはずです。他所の国にも素晴らしい文化が存在し、それぞれの民族を尊敬すべきだということを。
だから我々からは異人種(部族)の王になる"スクォマン"なんか生み出す必要がないんです。
白人だけですよ、こんなことやってんの。
確かに『ラストサムライ』という映画は、我々の文化や歴史を尊敬し、理解してくれています。でもそれは改めてやってみせなきゃならんことなんですかね?
どうしてもそこに白人だけが理解できるという驕りが見え隠れしていて、私ならそんな尊敬はいらんよ!と言いたくなるのですよ。
私にとって『ラストサムライ』は虫唾が走る下劣な映画なんです。
これは昔、myroom時代の掲示板に書いたものです。先のベスト&ワーストの時、“スクォマン”と書いたら、それは何だ?と質問されまして・・・。以前からもう一度読みたいとのリクエストもありましたし、改めて再録することになりました。少しですが手直しもあります。
まず公証面から。
※ガトリングガン
ガトリングガンは江戸時代には既に日本に存在し、戊辰戦争で実戦投入されています。使用したのは越後長岡藩で、官軍に対してです。薩長の官軍が母体の陸軍は既にガトリングガンの威力を身をもって知っていることになります。
幕府が海外に注文しておきながら、到着前に明治維新を迎えてしまい、受け取りが叶わなかったアメリカのストーン・ウォール号(通称・甲鉄艦)という船があります。
その船は結局、官軍側に摂取されてしまったのですが、函館五稜郭を攻めてくる官軍の船として使用された際、これを再奪取しようと提案したのが五稜郭海軍・回天号艦長・甲賀源吾。
この作戦に同意して、実際の乗り込み戦闘を指揮したのが、元・新選組副長・土方歳三。これが世にいう“宮古湾海戦”で、甲鉄艦の奪取には失敗するものの、本邦初の本格的接舷攻撃として歴史に記憶される。
この時の新選組残党の切り込みを阻み、回天号艦長・甲賀源吾の命をも奪ったものがガトリングガンなのでした。
北越戦と宮古湾海戦こそ、日本でガトリングガンが実戦投入された最も初期の例。『ラストサムライ』より時期的に随分早いのですよ。
※アメリカが日本の軍事顧問となっている。
日本が採用したのはフランス。ちなみに戊辰戦争自体は、英仏の代理戦争でもあった。
※西南戦争がモデル。
西南戦争がモデルでありながら、渡辺謙の戦い方や衣装はまるで鳥羽伏見の幕軍だ。
渡辺謙自体は西郷隆盛がモデルなのだから、あの戦闘は田原坂から城山へと続く西郷軍である。ということはある程度は近代軍の格好でなければならない。
これは、陸軍の母体である官軍が既にサムライではなかったからだ。散兵式歩兵戦術というものは、鉄砲の数さえ揃っていれば、職業軍人である“サムライ”の技術は必要とされない。官軍が鳥羽伏見から続く幕軍との戦闘で、旧来の幕軍を破りえたのは、正にこの散兵式歩兵戦術と新式銃につきる。
そんな訳で、明治以後更に近代化された陸軍には刀の切り込みに自信がなかったのである。それもそのはずで。彼らはもはや“サムライ”ではなかったのだ。
田原坂戦における西郷軍が抜刀術に優れていたのは本当だが、その西郷軍の抜刀隊に手を焼いた陸軍は、恥も外聞も捨て旧徳川家の人間から抜刀隊の募集を募った。
職にあぶれていた旧徳川家の侍たちは、鳥羽伏見の仇が討てるとこれに募集。西郷軍も旧武士の集まりで抜刀を得意とするなら、今度こそ“サムライ”同士の対決が出来るというのが旧徳川家縁の侍たちの意気地。中には元・新撰組の斎藤一や、会津別選隊の佐川官兵衛などもいたのだ。
この抜刀隊に敗れた西郷軍は田原坂で敗走し、結果、西郷は城山で自刃をとげるのである。
本当のラストサムライたちは、西郷軍ではなくそれを破った旧徳川家臣だった、というのが歴史の真実。
ここから映画について。
この『ラストサムライ』という映画はジャンル的には"スクォマン"ものというジャンルになります。
セシル・B・デミルが1913年に撮った『スクォマン』を元祖とするもので、インディアンと結婚した白人をスクォマンと呼ぶことからこのタイトルになりました。
転じて、未開の部族や異人種に理解を示す白人の物語を"スクォマン"ものと呼ぶようになり、西部劇ではデルマー・デイビスの『折れた矢』、『馬と呼ばれた男』、最近では『ダンス・ウィズ・ウルブズ』など全て"スクォマン"ですね。
西部劇ではありませんがウイリアム・コンラッドの小説『ロードジム』や『闇の奥』なども"スクォマン"系列になりますし、『ブラッド・ダイヤモンド』なんかも典型的な"スクォマン"。
この手の"スクォマン"ものは、基本的に社会のはぐれ者が、異人種(部族)に触れることで成長(贖罪)を果たし、異人種(部族)への理解と尊敬を得るというものです。
『ラストサムライ』も同じでしょ?
これらは全て白人の視点から作られている、ここに問題があるのですよ。いや、白人しか作っていないと言うべきか。
かつて七つの海を征服し、世界に植民地を築いたアングロサクソンは、かつての栄光にしがみつこうと必死です。(特にアメリカン・グローバリズムの推進者)
しかし現実はなかなかうまくいかず、他民族や異人種とも付き合っていく必要もあります。歴史も文化的成熟もアングロサクソン以上のものを誇る民族などがたくさんあることもわかってしまいました。
そこへのコンプレックスがこの"スクォマン"ものに裏返しとして表れるのですよ。
なるほど確かにすぐれている異人種(部族)もいる、しかし我々アングロサクソンだけは彼らを理解し、また彼らからも尊敬されるのだ。これが白人側の本音ですよ。"スクォマン"ものという映画の本質はここにあります。
逆を考えてみましょう。
アジア人が白人の王になる話や、黒人やユダヤ人がインディアンの酋長になる話が"スクォマン"もののように頻繁に描かれますか?
そもそも描かれないばかりか、そんなものは存在もしませんね。
私たち日本人もそうですが、ネイティブ・アメリカンもアフリカン・アメリカンもユダヤも、中国人も、みーんな最初から分かっているはずです。他所の国にも素晴らしい文化が存在し、それぞれの民族を尊敬すべきだということを。
だから我々からは異人種(部族)の王になる"スクォマン"なんか生み出す必要がないんです。
白人だけですよ、こんなことやってんの。
確かに『ラストサムライ』という映画は、我々の文化や歴史を尊敬し、理解してくれています。でもそれは改めてやってみせなきゃならんことなんですかね?
どうしてもそこに白人だけが理解できるという驕りが見え隠れしていて、私ならそんな尊敬はいらんよ!と言いたくなるのですよ。
私にとって『ラストサムライ』は虫唾が走る下劣な映画なんです。








