旧myroom(香港電影的日常 '01/2/17〜'06/1/29)より移転。

 香港映画を中心に語っていますが、基本的には何でもアリです。
 なお日記に記載の内容は、無断転載、転用はお断りいたしております。ご理解下さい。(by fake)

 ・・・・あと、リンクもフリーではないんです。すんませんなぁ。

『Let's Go To Prison』 [2008年02月20日(水)]

『Let's Go To Prison』'06年製作、監督:BOB ODENKIRK、主演:DAX SHEPARD

 “システムなんて糞喰らえ!!”

 「このシステムという奴が、満杯のレイカーズ・スタジアム三個分の犯罪者を毎年量産しているんだ・・・」と、本編の主人公ジョン・リシッスキー(DAX SHEPARD)氏は力説する。

 彼の経歴を見てみよう。

 八歳:TVショウの賞金を強奪、目録として贈られるデカい小切手を換金しようと試み逮捕。

 彼はここで運命の出会いをする。地元の名士としても知られた名判事・ネルソン・ビーダーマン三世その人である。

 判事曰く、「全ての少年には将来への夢があるだろう、私は地域の住人として、法を司るものとしてこれを守る必要がある。特に、君のような人間からはな!」

 「少年刑務所で7年。これが“法”というシステムってやつさ」ジョン・リシッスキー談。

 更に出所後、18歳で拳銃強盗未遂、懲役4年。

 「結局、24歳の時にもう7年半喰らい、31年生きてきて、ムショで過ごした合計は18年だ。この判決は全てあのいまいましいネルソン・ビーダーマン三世判事が俺に与えたものだ。システムってやつを守るために・・・」

 The Naked Tracker,T-Bones with The Dickaround Gang and Tommy Morgan(何というバンド名!・笑)が歌う軽快なC&W曲「Let's Go To Prison!」に乗せて、アルカトラズのカットインから、オジー・オズボーン、マイク・タイソン、マーサ・スチュワートそしてチャーリー・マンソンまで、著名な犯罪者の顔が並ぶOPがテンポ良くスタート。

 JIM HOGSHIREの同名原作を映画化したものだが、監督のBOB ODENKIRKの手際もさることながら、脚本を担当したROBERT BEN GARANT、THOMAS LENNON、MICHAEL PATRICK JANNの「RENO 911」チームの手腕が光る傑作コメディである。やっぱこいつら監督はしない方がいい。

 思えば2006年のアメリカ映画界はコメディの当たり年であった。

 同年のマイ・フェイバリット『Bearfest』から、『タラデガナイト オーバルの狼』、ロビン・ウィリアムスの『RV』、『リトル・ミス・サンシャイン』、『Tenacious D in The Pick of Destiny』、『ナイト・ミュージアム』に本作『Let's Go To Prison』等、良作だらけだった。
 この内、日本で劇場公開されたのは『リトル・ミス・サンシャイン』に『ナイト・ミュージアム』だけで、そのほとんどが未公開の上に、誰の口にも上ることなく消えていったのは非常に残念である。

 『Let's Go To Prison』に出合ったのはアメリカのTVだった。もし劇場で観ていたら2006年のベストは間違いなく違うものになっていただろう。『Bearfest』がバカ映画の極北だったとするなら、この『Let's Go To Prison』はシチュエーション・コメディの傑作で、この映画が日本公開されなかった理由は、その地味なキャスティングにあるとしか思えない。

 シチュエーション・コメディというからには、そのシチュエーションが大事で、ここにどれだけのアイディアを持ってこられるかで、映画の命運が決まる。

 主人公を演じるダックス・シェパードの最初のモノローグから、彼が出所後に因縁のビーダーマン判事を殺そうと企んでいることまでが、いわばプロローグ的パート。
 記者を装い判事の動向を探るが、事務所から返ってきた答えは非情なものだった。「ビーダーマン判事なら、三日前に亡くなりましたが・・・・」

 こうしてあっけなく人生最大の目標を失くしたジョン・リシッスキー、ふらりと立ち寄ったバーで、ビーダーマン判事の息子・ネルソン・ビーダーマン四世(WILL ARNET)による、ビーダーマン基金設立のニュースを見つける。
 「俺が人生の大半を刑務所ですごしている間に、奴の息子はぬくぬくと育ってやがったのか・・・」逆恨みもいいとこなのだが、復讐の相手を四世に定め行動を開始する。

 様々な工作を施し、ビーダーマン四世を冤罪で刑務所送りにしたものの、ジョンの心は何故か晴れない。「三世ではなかったからか?・・・違う、シャバの暮らしになれていないからだ!奴(四世)がいるなら、俺もムショへ帰ろう!」
 脱獄モノってのは良くあるジャンルですが、入獄モノってのは珍しい。まずここでコメディの基本である価値観の逆転が登場、このシナリオが秀抜なのは、この後も様々な形で、一度出来あがった価値観を逆転させていく点にある。

 拘置所でも裁判所でも大口を叩いていたビーダーマン四世だったが、さすがに刑務所送りが決まって、バスに乗せられた頃にはすっかり怯えた子犬に変身。ハッパ取引で、最大刑を引き受ける代わりにビーダーマン四世と同じ刑務所送りにしてもらったジョン、しょげかえるビーダーマン四世をバスで見つけるや、親切な振りをして近づいた。
 「何だムショは初めてか?俺の言う通りにしていれば間違いないよ」地獄に仏と、初めて笑顔を見せるビーダーマン四世。これが悪魔の計略とも知らずに・・・。

 ホーム・スイート・ホーム!人生の半分以上を刑務所で暮らしてきたジョンにとって、刑務所こそ我が家だ。看守も、衛生係りも、囚人もみ〜んな友達!素晴らしきかな我がプリズン!
 ジョンの計略とも知らず、刑務所のしきたりを教えられるビーダーマン、ただ「刑務所では誰も信じるな」というジョンの言葉は真実だったのだが。
 入所の日に見た死体袋、刑期を終える前にここを出るには、アレに入るしかないという囚人の説明を聞いて、落ち込むビーダーマン四世。

 一方のジョンはウキウキだ。看守にいつもの囚人服を用意してもらい、ビーダーマンと同じ部屋、着いたそうそうに手紙も差し入れも届いた。後はこの野郎をここでいたぶるだけ。
 ビーダーマンに毎朝喧嘩をしかけさせ、ホモの囚人をけしかけてケツを狙わせる。配膳係はビーダーマンにだけスープにコンドームを浮かす。
 
 「ああ、最高だ、人生最良の日だ・・・」

 ジョンがそんなことを考えていた頃、ネオナチ・グループの囚人とビーダーマンが揉め事を起こしたことから、少しずつ歯車が狂い始める。
 ネオナチ・グループのリーダーを告げ口して独房送りにしたビーダーマンはネオナチからの復讐に怯えていた。初めは面白がって煽っていたジョンだったが、段々とビーダーマンの様子もおかしくなってきていた。
 ネオナチの嫌がらせを避けるためと入れ知恵して、ビーダーマンを独房送りにするが、帰ってきた時には完全にイカレはじめていた。

 そうこうする内にネオナチ・リーダーも独房から出てきた。「これでビーダーマンも終わりだな」ジョンばかりか囚人全員がそう考えたものだが、窮鼠猫を噛むの例え、自殺用に用意していた強洗剤を注射しネオナチを返り討ちにしてしまうビーダーマン。

 その日から、囚人全員のビーダーマンに対する態度も激変。刑務所全体の雰囲気も変わり、これまでのジョンとビーダーマンの力関係そのものも微妙な変化が。
 「こんなはずではなかった!」ジョンの叫びも虚しく、刑務所を支配下に置き始めるビーダーマン四世。

 刑務所しか知らない男とエリートの息子、そのエリートが刑務所に入れられた時に起こる逆転が、更にもう一度逆転して、我が家であったはずの刑務所をエリートに乗っ取られるという二段構え、三段構えの脚本が素晴らしい。この後更なる逆転を用意したストーリー展開には、ただただ唸るばかりです。こんな面白い映画が公開されないなんて、いっいどうしてしまったんでしょうかね?

 出演は確かに地味な顔ぶれなんですが、主演のダックス・シェパードは、MTVの人気番組「Punk'd」で顔を売った人気者。現在、SNLの才女・ティナ・フェイとエイミー・ポウラーのコンビによるコメディ『Baby Mama』に出演中。公開を待つばかりの段階だが、今アメリカで一番公開が待たれているコメディといってもいい。二枚目タイプなので、ロマコメ路線もいけそうな注目株です。

 ビーダーマン四世を演じるウィル・アーネットも、ウィル・フェレルの『俺たちフィギュア・スケーター』でライバル・デュオを演じていたのは記憶に新しい。他に刑務所署長に『スパイダーマン』シリーズでコナーズ博士を演じたDYLAN BAKER、鬼看守にSNL出身(95-96)のDAVID KOECHNER、ホモの囚人でビーダーマンを脅かすのは人気TVシリーズ「Boston Public」(これ日本でもやってる?)でスティーブン・ハーパーを演じていたCHI McBRIDEなんかが出ています。

 劇場公開しないならせめてDVDでもと思ったら、日本版出ていたんだな。それはそれで驚き!
 えー・・・・っと、日本版のタイトルは・・・・知らん!レンタル屋でチラっと見かけただけだし。それは各自で調べてくれたまえ!

 そんな“システムなんて糞喰らえ!!”だからだ(笑)。

『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』 [2008年02月17日(日)]

『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』'07年製作、監督:FRANCIS LAWRENCE、主演:WILL SMITH

 原作はリチャード・マシスン。SFファンには説明不要の大家だろう。「縮みゆく人間」や「ある日どこかで」など、映画化された作品も多いが、本人も古くから映画・TV界との繋がりは多い。ロジャー・コーマン主催時のAIPで、エドガー・アラン・ポー作品(『恐怖の振り子』『黒猫の怨霊』など)を映画化した際、AIP側はマシスンに脚色を依頼した。

 TV界にはロッド・サーリングの招きで「ミステリー・ゾーン」の執筆に参加、私など短編アンソロジーの楽しさはこの人から教わった部分も多い。デヴュー間もないスピルバーグが、ユニバーサルにサーリングを招いてのTV新シリーズのパイロット・フィルムで、マシスンの「笑いを売る男」に挑戦。これが縁でマシスン原作「激突!」を任されたスピルバーグは、一挙にスター監督にのし上がる。後に「ミステリー・ゾーン」の映画化『トワイライト・ゾーン超次元の体験』を監督した時、スピルバーグはマシスンに脚色を依頼し恩に報いた。

 『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の原作「吸血鬼」は'54年の作品だ。'64年にはヴィンセント・プライス主演で映画化、『地球最後の男』は典型的なB級ながら、いくつかの点で後世に影響を与える作品となった。
 
 地球上の人類が伝染病で死滅。たった一人生き残ったのがプライスで、伝染病で死んだ人間がヴァンパイアとなった世界で暮らしている。研究所兼任の自宅にこもり、日々ヴァンパイアと戦うプライスだったが、完全に価値観の逆転した世界では、多数派のヴァンパイアにからみて、最後の人類こそモンスターであったと悟り、絶望の果てに死んで逝く。

 この価値観の逆転というサプライズがリチャード・マシスンの真骨頂で、終末SF物における定番として認識されるようになった。映画『猿の惑星』のエンディングなどが典型的なパターンで、ヘンリー・プールの原作を脚色した人物こそ、リチャード・マシスンの盟友・ロッド・サーリングなのである。
 その『猿の惑星』に主演したことで、一躍終末SF物のスターとして躍り出たのがチャールトン・ヘストン。'68年の『猿の惑星』に続く'71年『オメガマン地球最後の男』、そして'73年『ソイレント・グリーン』を“ヘストン終末SF三部作”と呼ぶ。

 実はこの『オメガマン地球最後の男』がマシスンの「吸血鬼」二度目の映画化で、今回の『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』のリメイク元にあたる。『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』は、「吸血鬼」の映画化ではあっても、プライス版『地球最後の男』のリメイクではないのだ。

 ヘストン版は、基本ラインこそ同じながら、後半の展開が大きく異なっている。まだ発病していない人類の生き残りがコミューンを作っており、ウィルスに抵抗がある自分の体から血清を作ったヘストンが、それを生き残りに託し、人類の救世主として死んで逝く。ヴァンパイアが当時を席巻していた黒人のメタファーとなっていたり、ヘストンのキリストそのままの献身的な死により人類が救われる暗示など、オリジナルの良さは微塵もない。プライス版はB級でもツイストの効いたエンディングで映画史に残るのに対し、ヘストン版は無人のロスを映した描写以外に見るべきものはないのだ。それでも一部カルト的な人気を博し、今でも『オメガマン地球最後の男』が好きだというファンも多い。

 ウィル・スミス版はこの『オメガマン地球最後の男』のリメイクで、やっぱりウィル・スミスも献身的に死んで逝く。そこに神の啓示が加わったりと押しつけがましい上に、生き残りのコミューンも大規模で、NYにおけるスミスひとりの戦いの絶望感も台無し。便宜上この映画がどんな映画であったかの説明のために書いているだけで、ハッキリ言って見るべき所など何も無い、駄作中の駄作である。

 今回書きたいことはスミス版の映画そのものについてではないため、『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の内容についてはこれで終わる。余談だがプライス版『地球最後の男』における、ヴァンパイアとの一軒家での戦いが、後にジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』でのゾンビの描写に影響を与えた。B級映画ながら、“終末SF”と“ゾンビ映画”という異なる二つのジャンルを先駆した『地球最後の男』は、今更ながら素晴らしい映画であった。

 『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』が駄作だったからといって、これを公開する以上、いい加減な状態で公開していいというものでは断じてない!

 昨今の日本の映画興行における字幕の在り方について、これほど例題として相応しい映画はないから、今回取り上げただけなのだ。

 劇中、ウィル・スミスはボブ・マーリーのファンであることが示される。いくつかのヒット曲が流され、本人も歌を口ずさむ。他の生き残りにあっけなく出会い、何故ひとりで戦い続けるのかを問われたスミスはこう答えるのだ。「ボブ・マーリーはかつて家に押し入った暴漢に撃たれたが、その二日後にはステージに立っていた。どうして歌い続けるんですか?と聞かれ、“悪は今も休むことなく活動を続けているからね、だから僕も歌うのさ”と・・・」ボブ・マーリーのエピソードを語る。
 エドワード・シアガ派のJLPとマイケル・マンリー率いるPNP派による二大政党派閥の血の抗争に揺れた'70年代のジャマイカで、平和を訴えるマーリーが銃撃された実在のエピソードだ。

 このエピソードから、ウィル・スミスの劇中におけるキャラクター設定が垣間見え、マーリーを尊敬し、彼のようにありたいと願うスミスの心があのラストへと向かわせる。
 駄作なりに一貫した論理でこの映画が作られていること、そしてそこにこそ作り手の思いが込められていることは、映画として見逃せない重要なポイントだ。

 そこで、だ。

 劇中で流されるボブ・マーリーの楽曲に、作り手がそれなりの意味を持たせてあることくらい、容易に想像の出来るところではないか?ということである。

 国としての歴史の浅いアメリカにおいて、ポピュラー・ミュージックの歴史は大切である。『イージー・ライダー』や『卒業』を皮切りに、既製のヒット曲を使って、主人公の心情を代弁させたりするのは映画の常套手段となった。これはサウンドトラックの在り方を一変させたばかりか、映画の表現手段をも変えた大きな出来事だ。
 心情ばかりではない。今や、劇中の状況説明から、キャラ設定、映画のテーマそのものに至るまで既製のヒット曲が使用される状況においては、ミュージカル映画並みにセリフの一部なのである。

 映画の内容とは全く関係ないタイアップの主題歌しかない、昨今の邦画の状況とは異なり、作品を語るための最重要項目のひとつといってもいい。

 日本で公開される映画が、吹き替えだろうと字幕だろうと、そんなことは構わない(両方の中からチョイスはさせて欲しい)が、アメリカ映画の場合、バックの曲にもキチンと字幕をつけるのが、その作品をちゃんと公開するということではないのか?
 昔の話をさせてもらうと、全てではないにしても、、ここは重要という場合の曲にはちゃんと字幕がついていたものだがな。
 それが最近(いつぐらいからだろう?'90年代以降であるのは間違いないが・・)は、全くそこら辺に注意を払って公開されている映画は無い!業界の仕組みは知らないので、誰がこのことに権限を持っているのかは知らないが、これは明らかな怠慢である。

 日本人全員が英語に堪能であるなら別にいい。だが現実はそうではないから吹き替え版なり、字幕版が存在しているのだ。この『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の場合、映画を観た人がボブ・マーリーの曲に造詣の深い人ばかりならこれも別に問題視することはない。やはりそんな人ばかりではないのであって、むしろそんな人は少ないと考える方が妥当だろう。

 私はこの駄作に感銘を受けたとするなら、ボブ・マーリーのくだりがあって、エンド・クレジットにマーリーのある曲が流れる場面のみであった。マーリーを知っている人間なら、ラストの選曲にはうなるはずだし、私のように固まって席は立たないはずである。満員の映画館は、暗くなると同時に席を立つ人がほとんどであった。あれでも曲に字幕がついていたら、多少は読もうとする人がいたのではないか?

 駄作の中の駄作『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』にも、たったひとつの救いであるボブ・マーリーについてのエピソードと、映画で使われた彼の楽曲。この曲を流すことが、作り手側がこの映画に込めたメッセージであり、『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』の良心部分である以上、これを台無しにしてしまう権利は何者にも与えられないのだ。

 この映画の評価は人様々だろうし、中には高い評価を下す人もいるだろう。だが、英語にも堪能でなく、ボブ・マーリーさえ知らない人にとって、最後に込められたメッセージを汲み取れるか否かは、映画全体の評価を左右する重大事である。

 どんな事情があるにせよ、配給会社はここに字幕を入れるべきであった。それが出来ていない以上、日本における『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』という映画は欠陥商品であり、配給元は無責任にもそれを消費者に押し付けたということになるのだ。私は映画ファン(そしてボブ・マーリー・ファンとして)この欠陥商品に対し、断固としてリコールをしたい。

 最後に、エンディングで流されるボブ・マーリーの楽曲について書いておきたい。このポピュラー・ミュージックの・・・いや、世界の音楽の歴史を鑑みても名曲中の名曲「REDEMPTION SONG(キリスト教における“救済の歌”)」は、'80年に発表された10枚目のアルバム「UPRISING」に収録された。
 英語の歌詞をそのまま書くのは色々とアレなんで、字幕代わりと思って翻訳詩を載せておきます。

 その昔、掠奪者によって奴隷船に売られた俺
 絶望に打ちひしがれる俺を奴らは買い取った
 だが俺は頑丈に出来ていた
 全能の神によって
 大いなる誇りによって世代を進んで行く
 俺の歌ってきた歌は、救済の歌だ
 この自由の歌を一緒に歌ってくれ
 救済の歌を

 精神的な奴隷から
 自分自身を解放しよう
 俺たちの心を自由にするのは
 他でもなく自分自身だ
 原子力など恐れない
 奴らに時は止められない
 長いこと奴らは俺たちの預言者を殺してきた
 俺たちは傍観していただけだ
 それは聖書に書かれている
 そして俺たちが予言の書を完成させるのだ

 さあこの自由の歌を一緒に歌おう
 俺の歌ってきた歌は、救済の歌だ
 この自由の歌を一緒に歌ってくれ
 救済の歌を

 ボブ・マーリーは、政治的闘争の犠牲者として故国ジャマイカを追われ、放浪を余儀なくされた。1979年、ついにジャマイカで平和コンサートを開くことに成功し、そのステージ上で銃撃の遠因となったエドワード・シアガとマイケル・マンリーを握手させる。
 おのれのルーツであるアフリカ訪問によってインスパイアされ発売されたアルバムが、この曲が収録された「UPRISING」、ジンバブエでは建国記念コンサートにも出演。
 '81年5月11日、脳腫瘍により倒れたボブ・マーリーは、フロリダの病院で帰らぬ人となった。享年36歳。

 死後、三周忌にあたる'84年5月11日に、追悼のベスト・アルバムが発売されファンを喜ばせた。映画『I Am Legend/アイ・アム・レジェンド』に使われた曲の全てが収録されたアルバムのタイトルは・・・・「Legend」という。

『WILD HOGS/団塊ボーイズ』 [2008年02月10日(日)]

『WILD HOGS/団塊ボーイズ』'07年製作、監督:WALT BECKER、主演:TIM ALLEN、JOHN TRAVOLTA、MARTIN LAWRENCE、WILLIAM H. MACY

 この映画がアメリカで公開されたのは丁度一年くらい前、私はその時に観たのですが、いつまでたっても日本で公開されないので、こりゃひょっとするとビデオ・スルーか?なんて思ったものです。

 ティム・アレン、ジョン・トラボルタ、マーティン・ローレンス、ウィリアム・H・メイシーの四人に、レイ・リオッタ、マリッサ・トメイが出演する豪華版で、映画も面白いのに公開されない訳は、もしかしたら最後のオチにあったのではないかと。

 オチの話は後回しにして、まずは本編から。

 トラボルタたち四人は、団塊オヤヂにありがちなハーレー乗り。若い時にブイブイやれなかった夢を、小金が出来てから実現するアレですな。とりあえず“ワイルド・ホッグス”なんてチーム名を名乗り、揃いのジャケットにチーム・エンブレムで、街中を軽く流すのが関の山。馴染みの酒場でチームの仲間と一杯というのだけが楽しみのちょい悪親父たち。

 離婚して破産したトラボルタは、そのことを仲間に言えず、ムシャクシャする気持ちを解消するため、仲間にロード・ツーリングを提案。決して本格的なライダーではない彼らは尻込みするが、“伝家の宝刀・男のロマン”という言葉に説得され旅に出る。ティム・アレンはミドル・エイジ・クライシスな自分が認められず、マーティン・ローレンスは夢を諦め切れない、ウィリアム・H・メイシーに至っては超オクテでまともに女もくどけない。それぞの悩みを抱えたバイク珍道中は、こうして始められた・・・・。

 シティ・バイカーな彼らを待ち受けるロードの苦難が笑いを誘い、旅の中で彼らの抱える悩みも浮き彫りに。本物のバイカーがたむろする伝説の酒場で、レイ・リオッタ扮するバイカー・ギャングと悶着を起こしたが、トラボルタが酒場を吹っ飛ばした隙に逃げ出した。マリッサ・トメイの住む桃源郷のような田舎町に逃げ込んだが、復讐を企むレイ・リオッタの追及の手が迫る。

 悩みを抱えた中年が、刺激を求めて旅に出るというのはビリー・クリスタルの『シティ・スリッカーズ』そのままだし、マリッサ・トメイの村で、最初はギャングを倒した英雄として間違われ、その後化けの皮が剥がれて、一念発起で立ち向かう後半部分はスティーブ・マーティンの『サボテン・ブラザース』そのまま。この映画も最近のハリウッド映画にありがちな、ヒット作を繋ぎ合せただけのパッチワーク映画で、面白かったのは確かだが釈然としないものも残る。

 さて、公開が懸念されていたオチの部分だが、本編のオチ(そっちは書かないので劇場で確認してね!)ではないのでご心配なく。エンド・クレジット部分で流れるエピローグのオチについてなのだ。でも、アメリカ人にはここが一番ウケてましてね、知っているのと知らないのとでは映画の印象が全く変わってしまうんですよ。

 「Extreme Makeover:Home Edition」というTV番組があります。日本では放送されていないと思いますが、ABCで'04年から始まったリアリティ・ショウのひとつで、現在も続いている人気番組です。元は「Extreme Makeover」という整形の番組だったのですが、それの「Home Edition」という訳です。
 やはり別の番組でリフォーム物に出ていたTY PENNINGTONという大工さんを番組の顔として起用、てっとりばやく言えば「ビフォーアフター」という日本の番組そっくり。

 だが、この番組ほどアメリカを感じさせてくれるものはありませんよ!

 「ビフォーアフター」そっくりといいましたが、日本の番組が基本的にリフォームであるのに対し、「Extreme Makeover:Home Edition」のスケールは何もかもリフォームの域を超えている!

 こんな回がありました。

 番組に応募してきた家族は、祖母から受け継いだ大きな屋敷に住んでいた娘ふたりの母子家庭。その屋敷は火事で焼けてしまい、骨組みすら残さず丸焼けに。屋敷が市街から遠くて消火が間に合わず、保険もかけていなかった家族は、建て直しもままならず焼け跡にプレハブを建てて暮らしている。
 家族の悩みはプレハブに水道が無いことで、なんと近所の川から水を汲んで間に合わせていた。育ち盛りのティーン娘と母親は、水汲みがあるため学校も仕事も満足に通えない悪循環。
 番組に泣きついてきた家族を救うため、かくしてMCのタイ・ペニントンと彼のプロジェクト・チームが立ちあがった。

 完全に焼け跡しか残っていないのですから、こうなるとリフォームでもなんでもなく、ただの建築作業になってしまうのですが、そこはそれアメリカですから、そんな小さなことは言いっこなし!の方向で。

 番組には建築家や設計士、インテリア・デザイナーなんかがいます。シーズン・エピソードによっては入れ替わりがありますが、Paul DiMeo、Michael Moloney、Preston Sharp、Tracy Hustonなんかがレギュラー。

 番組の基本フォーマットは、こうして依頼のあった家族の事情を聞き、プロジェクトチームが立ちあがると現地へ急行。家族は一週間の休みを与えられ(大抵はディズニー・ランドとかマイアミ・ビーチ)、その間に一週間以内で作業を終える。
 たった一週間で家一軒建ててしまったりするのですから、必要なのは圧倒的なマンパワー。番組スタッフは現地へ飛ぶやまずするのが人集め。家族の事情を話し、近隣の住民を集めるのですが、手伝いにくる人数も半端ではない数。近くに大学や軍事基地などがある場合、フットボール・チームから軍隊までやってくる。

 この家族の場合、焼け跡の撤去から新築、内装までを一週間で終わらせるという難作業。幸いにも軍事基地があったことから海軍の水兵が大挙して手伝いに。家族の願いで、焼け跡から使えそうなものがあったら使って欲しいと聞いていたMCのタイ・ペニントンは、焼け残ったテーブルの板部分を探し出し、新しくテーブルを作り上げる。雨が続き難作業の中、続々とボランティアで訪れる町の住人たち。

 この番組が素晴らしいのは、資材が現地調達である点。特殊なものを除き、資材やインテリアのほとんどが、地元のホーム・センターのような所で調達されるのだ。番組がやってきて町の知名度を上げ、町の住民が協力してひとつの作業をこなし、番組は現地で金を落とす。そうしてひとつの家族が救われるのだが、リフォーム番組でありながら、ダメだったら取り壊してでも建て直そうという発想、人海戦術にしても、町ぐるみはおろか軍隊までもが動員されるというスケール感。

 一週間の休暇が終わり、想像していたのよりも巨大な屋敷が建っている姿を 見て、うれしさのあまり泣き崩れる家族たち。タイと彼のチームも、町のボランティアたちも全員が貰い泣き。もちろんTVの視聴者も。

 派手派手しく、騒々しく、何事にも大げさな番組だ。だが、事故で半身不随の車椅子生活になった息子にバリア・フリーの家を、移民の親戚が転げこんできて、二世代どころか三世代で二世帯の共同生活になった家族が、様々な事情を抱え、番組に応募し、番組は地元を巻き込んだ狂乱騒ぎのうちに家を建て替える。
 焼け残りから作られたテーブルに祖母の思い出を見てすがりつく母、車椅子になってからすっかり塞ぎ込んでいた息子がみせる少しはにかんだ笑顔、60年前にこの国に来て以来、初めて良いことがあったと飛び跳ねる90歳のお婆さん。

 その派手さと、大げさな騒ぎのうちに、ほんの少しだけの、素晴らしい夢が庶民に降り注ぐ・・・・。

 これこそ、古き良き、そして美しきアメリカン・ドリームではないでしょうか?

 この番組が、映画『WILD HOGS/団塊ボーイズ』最後のオチです。さて、どんな使われ方をするのかは、皆さんが観てのお楽しみ!ということで!

怪獣夜話・最終夜 [2008年02月07日(木)]

『CLOVERFIELD』'08年製作、監督:MATT REEVES、主演:MICHAEL STAHL-DAVID

 映画『CLOVERFIELD』はこの四月にも日本公開予定です。ここから先はネタバレしかありません。映画公開前に余分な情報を欲しない方はご覧なさいませぬように。

 『CLOVERFIELD』は当初『1-18-08』というコードネームで呼ばれていた。予告編が秀抜で、そのプロモーション展開によって注目を集めたといえる。

 パーティをしている若い男女が、突然大きな物音に驚き、ビルの屋上に出てみれば、遠くのビルが突然爆発し、自由の女神が残骸として降ってくる。何が何だか訳が分からず、右往左往するばかりの若者たち。続けさまに爆発は起こり、911テロそっくりの状態でビルの倒壊を目撃。その最中、崩れ落ちるビルの向こうに、巨大な何かが蠢く・・・・・。

 予告、こんだけ。

 そこに『1-18-08』と出るだけで、どうやらこれは怪獣映画ではないか?との噂だけが独り歩きし、世の怪獣映画好きの耳目を集めた。
 この効果は絶大だったらしく、期待値MAXに膨れ上がった状態で公開され、大ヒットを記録したというのが、つい三週間前の出来事。

 このプロモーション手法自体が、嫌でも『プレア・ウィッチ・プロジェクト』(以下『ブレア』)を連想させる。映画の作りそのものも、手持ちのビデオ・カメラによる擬似ドキュメンタリーという、『プレア』の影響下であることに疑いはない。

 そもそも『プレア・ウィッチ・プロジェクト』は、映画の内容よりもその宣伝方法でヒットした映画だ。魔女の伝説を取材に出かけた学生が行方不明となり、残されたビデオ・テープを編集して公開。この映画の嘘を成立させるために、あえて地方の自主上映からスタートしたり、行方不明の学生を探すポスターやWEBを製作、警官や関係者の証言なども用意周到に作り上げ、口コミだけで都市伝説のように全米に広がっていったのだ。
 これが大手の目に留まり、全米公開はおろか、世界各地に配給されてしまったのだから、自主映画に毛の生えたような作品は、プロモーションによって勝利を掴んだ訳だ。

 都市伝説として、本物ではないか?と思われている段階で公開された『プレア』を観た観客の恐怖と、全ての種明かしが済んでしまい、劇映画として公開された『プレア』を観た観客(←日本はココ)の恐怖は、全く質の違うものだったのが解るだろう。
 つまり、こういう映画は、そのプロモーション効果が最も有効に作用している内に公開してこそのもので、ネタバレしてしまってからではその効力を発揮しえない。すなわち、期間限定の完全イベント・ムービーなのだ。

 そこで『CLOVERFIELD』である。

 この映画も、これはもしかして怪獣映画なのか?と思わせる点が期待感を煽るのであり、このネット時代に、公開が一週間でも遅れることは、映画の意味そのものを台無しにしてしまう愚挙以外の何物でもない。
 『ブレア』の轍を踏まないためにも、どうして『CLOVERFIELD』の公開を同時に出来なかったのか?この映画を公開する意志があるのなら、そこまでやってあげるのが、本当の意味での宣伝活動であるはずだ。
 そりゃあ諸事情はもちろんあったのでしょうがねー、“「LOST」のJJエイブラムスが仕掛ける驚愕の謎!”とか何とかいって、TVスポットをバンバン打てば、アメリカでの結果を待たなくとも、それなりの集客効果は挙げられたと思うがな。この映画に関しては、時間が空けば空くだけ客足が遠のくのではないか?

 もうこの映画は怪獣映画とネタは割れてしまっているのだから、日本の観客は残念ながらサプライズの部分を抜きにして接しなくてはならない。そこをスッ飛ばしてなお、この映画は面白いものか?

 これが面白いんですよ!

 この映画が新世代の怪獣映画と呼ばれているのは、何もプロモーションが優れていたからだけではないんです。そこを抜きにしても、十分に新しく、十二分に面白いと言って構わない。

 実は通常の怪獣映画を期待する人には、これは全く面白くない映画である可能性も大なのです。事実、既にいくつか出ているネガティブな意見のほとんどが、「意味がわからない」、「はっきり見えない」、「最後の結末もついていない」などの、この映画独自の作りの部分です。

 怪獣映画とリアリズムの擦り合わせは、平成ガメラ以降、怪獣映画に与えられた踏み絵のようなものです。ゴジラが全く振るわなくなってしまった理由の一つが、このリアリズムの擦り合わせに失敗していたからなのは明らかですね。作り手が提供したいものと、観客が観たいものは、乖離してしまっていたんですよ。
 初代『ゴジラ』の公開されたのは1954年です、これって太平洋戦争終結からわずか9年ですよ!確かにゴジラのような巨大怪獣の存在にリアリズムはありません、恐竜ならまだしも、放射能を吐く巨大怪獣なんてバカバカしいにもほどがあります。
 それでも『ゴジラ』は当時の観客にとって圧倒的なまでのリアリズムを持っていたんです。それは『ゴジラ』が戦争のメタファー以外の何物でもなかったからで、当時の観客は無敵のゴジラに蹂躙される東京に、この間まで日常として存在した空襲を写し見ていたんです。私はリアルタイムで『ゴジラ』を観たことがある人に何人にも当時の観客の反応を聞きましたよ。当時の劇場では、ゴジラが登場すると悲鳴が上がっていたとその人たちは言います。
 最初の『ゴジラ』は、リアリティのある恐怖映画に他ならなかった。

 911テロの後、アメリカ映画は明らかに変わりました。かつて日本が敗戦の後変ったようにです。その最たるもののひとつが、暴力の現場におけるリアリズムと臨場感だろう。『ユナイテッド93』や『キングダム見えざる敵』、ジェイソン・ボーン・シリーズなど、世界貿易センター倒壊のカタストロフをリアルタイムで見てしまった人間に存在する、暴力リアリズムへの負の憧れが映像作家に蔓延してしまった。

 『CLOVERFIELD』が911以降に作られた映画の中で、最も911を連想させるのは、NYというロケーション(意識的だろうが)もさることながら、現場の臨場感をバーチャルに体感させるリアリズム描写への拘りに他ならない。
 『CLOVERFIELD』におけるビル倒壊シーンのディティールが、WTC倒壊時の映像をトレースしているのがその顕著な例だ。

 スティーブン・スピルバーグの『宇宙戦争』が、地球を侵略に来た宇宙人との全面戦争という未曽有の事態にありながら、家族を守って逃げ回るだけの主人公“個人の視点”に絞って描いたのは記憶に新しい。
 『CLOVERFIELD』はこれを更に一歩進めたもので、徹頭徹尾、怪獣に襲われた人間“個人の視線”だけで描いているのだ。

 ビデオ・カメラを持った人間(パーティを収録するため)が、惨事に見舞われ、カメラを持ったまま逃げ惑う。当然ストーリーは無いに等しく、カメラ・ワークも滅茶苦茶だ。最後まで一人称の画面で進められ、全ては断片的な上に、映画は何一つとして観客の疑問には答えない。
 ここら辺が従来の怪獣映画ファンの期待に添えないところで、結末もはっきりしない映画は、怪獣がどうなったのか?すら提示しない。

 しかし考えて欲しい。リアリズムという点で、これほどリアリズムに徹した怪獣映画は過去に存在しなかったではないか。ただしこれは望んでいたものとは少し違う結果というだけの事だろう。

 だが、災厄とパニックの中心にいる人間には、災厄の全体図など見えないものだし、その災厄の要因(含む怪獣)が何であれ、全てを理解するのは事が終わってからというのが本当であろう。911で逃げ惑う人々の何人が、アルカイダが飛行機をハイジャックしてWTCに突っ込み、ビルが倒壊していると認識できていたであろうか?

 従来の怪獣映画は、このパニックの有様を、神の視点(物語である以上作者の視線)で物語のパーツごと、キャラクターごとに整理し、原因から結果までを再構築してあるのが普通。これを“物語”というんですが、『CLOVERFIELD』はこれを一切放棄した。これがこの映画の持つ新しさの本質です。
 プロモーションと映画の作りは確かに『ブレア』なんですが、『ブレア』はしょせん『食人族』じゃないですか。宣伝手法だって『スナッフ』という先例の拡大バージョンだ。『ブレア』が新しかったとしたら、その二つを組み合わせたイベント・ムービーに仕上げた点ですよ。

 『CLOVERFIELD』が『ブレア』を踏襲していたとしても、全ての作劇法という枠組みをとっ払い、“個人の視線”だけで映画を撮るというのは、素人には出来ないプロの技なんです。これは似ているようでいて『ブレア』とは全く違います。だからこそ『CLOVERFIELD』は新世代の怪獣映画に成り得たんですな。弱点があるとするなら、これは一回しか使えない手法だということでしょうね。

 さあ、映画が新しい観たことがないようなものであるのは解った。後は意味不明という名のリアリズムを“是”とするか“非”とするかだけ。こればっかりは観た人の感性に委ねられてしまうんですが・・・・私?、私はもちろん!“是”の方ですよ!

怪獣夜話・第二夜 [2008年02月05日(火)]

『THE MIST』'07年製作、監督:FRANK DRABONT、主演:THOMAS JANE

 スティーブン・キング原作「霧」待望の映画化である。キング自身好きな作品と公言し、キング・ファンの人気投票でも上位をキープする人気作品だ。勿論、私自身も好きな作品なので、映画化し難い長編小説よりも、「霧」くらいの中編を映画化すればいいのにと思っていたものだ。

 まあついに映画化された訳であるが、監督が『ショーシャンクの空に』や『グリーン・マイル』というキング作品を映画化したフランク・ダラボンと聞いて、いささか不安がないでもなかった。
 世間的なダラボンへの評価や、キング自身の自己満足はともかく、『ショーシャンクの空に』は私の大嫌いな映画(“クール・ハンド”ルークを汚すな!)でございまして・・・・。
 そんな杞憂は心配するには及ばなかった・・・というのが結論だったのですが、ダラボンよ、やれば出来るじゃないか!それにしても、今のハリウッドでこの脚本良く許可が下りたよなぁ。この映画、すげぇよ!

 公開前の映画(されるのか?)については、書けることも限られてくるので、私が知っている“霧”を巡る二、三の事情を書いておきませう。

 原作の「霧」は、レイ・ブラッドベリの「霧笛」へのオマージュとして書かれました。よもや、この不朽の名作を読んだことない人などいないとは思うのだが、いちおう解説を。
 霧笛の音に誘われて、海底から蘇ってくる恐竜。霧の夜に轟く霧笛の音は、100万年の時を越える古生代の咆哮。15Pほどの短編ながら、滅びゆく生物への哀感や、海の神秘などが書きこまれた名編中の名編!
 この小説が映画化されて『原子怪獣現る』という怪獣映画のエピックになるのですが、恐竜の最後以外はブラッドベリの筆による哀感までは表現しきれてはいない。とはいえ、この映画が怪獣映画史において重要な役割を果たしたことは先述のとーり。

 キングの小説におけるブラッドベリの影響はこの「霧」だけに止まらない。読む人が読めば判るはずだが、「何かが道をやってくる」的な「ニードルフ・シングス」など、ブラッドベリ的な作品は他にも存在するのだ。

 ところで、ジョン・カーペンターの『ザ・フォッグ』が公開されて後、キングの「霧」との関連性を指摘する人がいたが、小説の発表も映画の公開も同じ'80年。影響を受けているとしたら、どちらも「霧笛」の影響を受けているのであって、カーペンターがキングをパクった訳ではないと思いますがねぇ。それにどちらかというと『ザ・フォッグ』は『エルゾンビ』シリーズからの流用が多いですし。
 ちなみにカーペンターとキングは個人的には友人で、カーペンターは『炎の少女チャーリー』映画化の際、初期段階で脚色に関わっている。結果的にはカーペンターは『炎の少女チャーリー』を降り、『クリスティーン』を監督する。

 それにしても現在、キングほど著作が映画化される作家もいないだろう。かつてアリステア・マクリーンがそうであったように、多作であることも条件のひとつではあろうが、何故にキングだけがこうも映画化の対象となるのであろうか?

 ここでちょっとキングの小説と映画を解剖してみましょう。

 キングの小説は、基本的にひとことでプロットが説明出来るんですよ。曰く「超能力少女惨劇の顛末」、「死者にとり憑かれた殺人カー」、「呪われた館と伝説の吸血鬼」、「死体捜しの冒険に出る少年たち」、「お化け屋敷に招かれた超能力親子の対立と悲劇」・・・etc。実に簡単です。
 それに小説としては手垢のついたような古典的プロットばかりです。実はこれこそが、キングの小説を映画化し易いものにしているんですな。
 
 映画化されるにしたって、映画会社で企画のプレゼンをする際、ベストセラー作家の作品がひとことで説明出来るものだったなら、確実にお金が下りるってもんですよ。

 恐らくこれのみが、キングが映画界で君臨していられる理由だと思いますよ。

 一方の小説はというと、先ほど手垢のついたような古典的なプロットといった部分、やはりこれが重要な点になります。古典的な・・・・とはいうものの、実際のキングはモダン・ホラーの旗手といわれています。“古典”と“モダン”、本来相反する言葉ですが、これを巧みに融合したのがキングの才能でした。
 古典的なプロットというものは、郷愁を誘いこそすれ、現代小説としては陳腐で読めたものではありません。そこで、余分を削ぎ落とした古典プロットに、現代という肉付けをする作業が必要となってきます。キングの小説が長い(とはいっても京極夏彦ほどではない・笑)のはそのためで、現代人を描きこむための細かなディテールが長いんです。

 それはコマーシャリズムの氾濫に飲み込まれた、モダンカルチャーの宿命そのものを描く行為にほかなりません。だからキングの小説は必要以上に長く、その書き込みによって現代小説に必要なリアリズムを獲得するのです。逆説的に言えば、プロットは単純で古典的でなくては他が書き込めない。
 古典的怪談をモダン・ホラーへと昇華させるという手腕を、最初に確率した第一人者がスティーブン・キングという作家なのですね。

 映画化された作品が概ねキングの読者には不評なのは、この書き込み部分を省略して、映画化としては当たり前の作業なんですが、本来の単純なプロットだけに戻してしまうからです。つまり、キングが小説で試みた現代化への肉付けを、削ぎ落とすことで映画が成り立っている訳です。そもそも単純なプロットは、それだけでも十分に成立するだけのものを持っていますから。結果として小説の読者はいつも映画に食い足りない思いをするのですよ。
 アメリカの片田舎(キングの小説は大抵こういう所が舞台)の生活を、現実感たっぷりに描く小説の書き込みが、その書き込み部分こそキングの魅力とはいえ、映画では描かなくても視覚だけで成立するものがほとんど。映画としてはプロット以外、あってもなくてもいいものになってしまうんですよね。
 そういう意味では、書き込みも当然多い長編小説よりは、プロットだけを活かせる中短編こそ、映画化に向いていると思うのですがね。

 ここからは映画『THE MIST』のお話。結末までは書いてはいませんが、一片たりともネタバレはゴメンという方は、以下は読まれませぬように!

 小説版「霧」は、ブラッドベリへのオマージュらしく、幻想的な雰囲気を濃厚に残している作品だった。
 記録的な大嵐の後、買い出しに出た主人公は謎の霧の発生にスーパーマーケットに閉じ込められる。スーパーで孤立する人々は、外から逃げ込んできた人によって、霧の中に“何か?”がいることを知らされる。
 霧の脅威にパニックを起こす人々、スーパー内部では人々は対立し、やがて“何か?”によって犠牲者を増やしていく。狂信的な女性は最初は共同体の疎外者だったが、異常事態にシンパを増やしていき、マスヒステリズムによって町民たちの対立を煽る。
 狂信グループと対立した主人公は、一部の人間を連れてスーパーの外へ脱出を試みるが・・・・・。

 映画はほぼ原作のままだ。

 小説では匂わせているにすぎない霧の発生原因を特定し、一部のキャラクターを増やしたり、統合してひとつのキャラクターにしたりしているだけだ。

 一番違うのはその結末である。映画公開時のインタヴューで、キング本人はこの結末を絶賛していましたね。そもそも小説「霧」は、初出と単行本化で結末のニュアンスが若干違い、過去に幾度か行われたラジオ・ドラマ化(キングは「霧」をラジオ・ドラマ向きと答えていた)でも数種類の結末が作られた。監督のフランク・ダラボンはキングの許可を得て'89年頃から「霧」の脚本化に取り組んでおり、今回の結末は20年近くの歳月をかけて陽の目を見た入魂のアイディアだったといえるだろう。

 スーパーに孤立した人々のパニック描写は、手持ちカメラを多様して素早くドキュメントタッチで撮られており、その前半部は『ユナイテッド93』のポール・グリーングラスを思わせる。この演出が功を奏しており、緊迫感に包まれた店内が描かれる。その緊張を破るように霧の中から“何か?”が登場してからは、実に堂々たる怪獣映画に変貌してみせるのだ。その反転描写も素晴らしく、怪獣映画としては小説に登場するラスト近くの“アレ”もちゃんと映してみせます。

 狂信者の女性が更なる不安を煽る後半部で散々に神経を逆なでされた揚句に、驚愕のラストに向けてクライマックスが雪崩れ込む。実はこのラストのために霧の発生原因が合理的に特定されているのですが、これを見る限りこの映画は成功した変更だったといえるでしょう。

 怪獣夜話、次回はいよいよ『CLOVERFIELD』!
 

怪獣夜話・第一夜 [2008年02月03日(日)]

『グエムル漢江の怪物』'06年製作、監督:ボン・ジュノ、主演:ソン・ガンホ

 新世代の怪獣映画として評判の『CLOVERFIELD』公開(もう観ちゃった!)を記念して、最近の怪獣映画についてアレコレと書きます。題しまして・・・怪獣夜話。

 『グエムル』が公開された時、『PATLABOR3/WXV』のパクリではないか?との論争があった。両者を比べればその相似は一目瞭然で、これは似ているどころの騒ぎではないことが解る。
 特に、怪獣の容姿、その行動様式、生態はそっくりで、ストーリー上も米軍の関与が匂わされるあたり、何をか言わんやである。

 私は『グエムル』にイチャモンをつけたいのではない。大絶賛をされるほどの映画だとは思わないまでも、それなりに面白い映画であったし、たとえ『パトレイバー』から随分とパクっていたとしても、そもそも類型娯楽であるところの怪獣映画に、過去の作品との相似は容易に見いだせるものだからだ。

 その点では『グエムル』だけが、非難の的になるのは間違っており、過去の作品との相似を挙げるなら、『パトレイバー』以前に取り上げるべき作品があるだろう。怪獣映画ファンとしては、そちらをするのが先ではないか?
 『グエムル』公開時のファンの反応は一様に『パトレイバー』疑惑に傾いていた。ためしに『グエムル』『パトレイバー』で検索してみるといい。恐ろしいまでのスレッドが現れるであろう。

 私は怪獣映画ファンだけは、全てのジャンル映画ファンを凌駕し、雄々しく立ちはだかる学究の徒であると信じてきた。
 オタクなどという、類型的に矮小化された存在ではなく、孤高の研究者としての巨人の姿が、かつての怪獣映画ファンであったはずだ。

 あなたがたは、いったいどうしてしまったというのだ!?

 私事であるが、田舎町で生まれ育った私は、ネット時代の到来まで他の映画ファンと知り合えるすべはなかった。これは私に限ったことでもないだろうが、田舎暮らしというものはそういうものなのだ。
 それでも、横のつながりを求めて、映画サークルなどが主催するイベントや、同人誌即売会などを熱心に覗いたものである。
 田舎には、このサークル活動自体が、そもそも無かったのであるが、それでも、どんな会場にでも怪獣映画ファンだけはいたのだ。

 '80年代当時、それらの活動をされていた方々は、当時の私よりほんの少しお兄さんの人達であった。ビデオ時代到来前夜であったというのに、彼らは全ての怪獣映画に精通し、またその歴史も網羅していた。
 8mmや16mmの怪獣映画を持ち寄り上映会を開く彼らは、常に横のネットワークを持ち、コロッサスの「大特撮」をバイブルとして、古今東西の怪獣映画について語り合うことが出来た。年下の功夫映画少年は随分と彼らのことを眩しく感じたものだ。

 私が自分のことを怪獣映画ファンだとは、口が裂けても言えないのは、彼らという偉大な先達に接してきたからだといえよう。年下だったから彼らが眩しかったのではない。私とて日本製の怪獣映画は全て観ているし、ハリーハウゼン、ダンフォース、アレンなど、海外の作品も一通りはチェックしていたのだ。

 それでもなお、当時の活動家達は、足元にも近寄ることの出来ない巨人として君臨していたのである!

 私は、今に至るも怪獣映画ファンと公言する人達だけは、そういう人達であると信じていた。
 ところが、である。『グエムル』を語るに『パトレイバー』からというのはどうした?『グエムル』の話だけではない、『ロストワールド』といえばまず、ウィリス・H・オブライエンだろう。'33年版『キング・コング』すら観ていない人間が、軽々しく怪獣映画ファンを名乗るなど当時はあり得ないことだった。彼らはビデオすら無い時代から観ていたというのに、功夫映画と違い、今ならどんな映画でもレンタル屋に普通に置いてあるだろうが!

 怪獣映画ファンなら、キチンと歴史を総括し、その上でいくつかの類型的作品から『グエムル』という映画を解説することが出来る筈ではなかったのか?

 偉そうに書いてきた以上、『機動警察パトレイバー』という作品から紐解いていかねばなるまいな。
 『パトレイバー』は、ゆうきまさみと出渕裕のふたりが作った遊びの企画からスタート。スタジオ・ヘッドギアはこの作品のために作られ、伊藤和典、高田明美が賛同し、押井守は最後に引っ張り込まれた。
 アニメ化の企画が先行していたが、'88年4月第一期OVAが開始、同時期にゆうきまさみによる漫画がスタート。その後、劇場用映画、TVシリーズ、小説、第二期OVAとメディアミックスを展開。それぞれのシリーズは、同じパトレイバーという世界観を軸にした別の作品といってもいい存在で、それぞれのシリーズで微妙に設定やキャラクター等に差異がみられる。

 ある意味で最もリアル系ロボットものであり、舞台となる警察機構というものを細かくフェティッシュに描写したことから、後続の作品に多大な影響を与えた作品で、『踊る大捜査線』シリーズなど、SFではない作品にまでその影響は及ぶ。

 映画シリーズ第三作として公開された『PATLABOR3/WXV』は、前二作の映画及び、漫画、小説、OVAなどが終了して8年後に公開された。押井守は手を引いており、映画から受ける印象そのものが過去の『パトレイバー』とは随分と違う。
 元になった話は漫画のシリーズで展開された「廃棄物13号」というサブエピソード。ゆうきまさみは、レイバー世界で典型的な怪獣物をやってみたかったと答えており、この作品そのものが過去の怪獣映画へのオマージュである。
 ただし、レイバーの世界観を壊さないよう、あくまで本筋のサブエピソードとして描かれており、映画版はこの本筋(黒いレイバーを使って暗躍する外資系企業シャフトとの闘い)を取り除き、「廃棄物13号」にだけ焦点を当てた作りとなっている。

 「廃棄物13号」に登場する基本設定、研究者の確執、最終的にはレイバーに倒されるという点は、原作通り。シャフトの本筋を省いた分、ゆうきの原作以上に「廃棄物13号」は怪獣映画として再構築されているのだから、『グエムル』以前に『PATLABOR3/WXV』は過去の怪獣映画と類似しているのだ。

 『グエムル』と『PATLABOR3/WXV』に共通する点は、米軍の関与、巨大化する生命体、地下水道の攻防戦である。これらに『グエムル』の要素、地下道に攫われる子供という項目を追加すれば、これは間違いなく『放射能X』の登場だ。

 『ロストワールド』から『キング・コング』という怪獣映画の流れは、'50年代に核の恐怖というファクターを追加し、放射能汚染による恐怖のモンスターを生み出す。'53年にレイ・ブラッドベリの「霧笛」を映画化した『原子怪獣現る』というエピックが誕生すると、その延長線上の'54年、『ゴジラ』と『放射能X』が登場した。
 『放射能X』は、『原子怪獣現る』のエピゴーネンであるとはいえ、後生に与えた影響の大きさからいって、怪獣映画の歴史における最重要作品のひとつといっていい。

 砂漠でキャンピングカーの家族が襲われ、ショックで記憶を失った少女が残される。警察は通常の事件として動き出すが、米軍の核実験によって巨大化した蟻が事件の核心であると掴む。
 蟻は巨大化していてもその生態に変わりはなく、女王蟻を中心とし、働き蟻が巣と食糧を確保し、産卵し仲間を増やしていくのだ。
 記者や軍人、科学者などが一丸となって対策に当たるのは怪獣映画の定番であるが、地下水道を巣穴として活動する蟻群団との対決に、巣穴に囚われた少年の救出劇が絡む筋立ては、現代の眼で観ても傑作と呼ぶに相応しい。

 この『放射能X』は二本(『グエムル』も入れれば三本)の子供を映画界に残したことで有名だ。

 そのひとつは『空の大怪獣ラドン』、そしてもうひとつが『エイリアン2』である。
 『ラドン』冒頭、炭鉱事故の生存者が記憶喪失となり「鳥・・・」という謎の言葉を残す。事故はメガヌロンの登場によって劇的に変化し、坑道内におけるその生態までが『放射能X』である。
 『エイリアン2』はもっと露骨だ。壊滅したコロニーに残された記憶喪失の少女、完全生命体であったはずの『1』とは設定を変えてしまい、蟻そっくりの生態を与えられたエイリアン。
 巣穴に取り込まれた少女の救出劇ときては、全く『放射能X』そのまんまで、後半はオリジナルな『ラドン』などまだ良心的な方で、『エイリアン2』こそ、『グエムル』以上に非難されるべきだろう。

 『グエムル』を『パトレイバー』だと糾弾するのなら、本来は怪獣映画の歴史全てに依ってなされるべきなのだ。パクリと指摘するのも簡単ではないのである。

 怪獣映画ファンには、いつまでもジャンル映画の巨人として、私たちの前に立ちはだかって欲しい!

 怪獣夜話・第二夜は・・・スティーブン・キング原作『THE MIST』
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